第5話 廃湖
建物と建物の間は塗装が錆びたベンチや
手入れのされなくなった欅が生えている。
地面は鬱蒼と雑草が茂っている。
どこかの誰かが置いていったおもちゃのバケツや三輪車は昔の色すら想起できない程に色あせ、ひび割れている。
もう、人など住んでいないはずなのに、かつていた人の名残だけが静かにまだ息づいている。
灰色のコンクリート壁に木漏れ日の青がにじみ、風で揺れる。
その風に乗って、ふと、嗅いだことのない香りがした。
青臭いような、土のような、それでいて懐かしい匂い。
「おいで。」
聞き覚えのある声が聞こえた。いや聞こえたというよりは、脳に響くように淡く儚げだ。
その声で一瞬にして我に返る。声は建ち並ぶ建物たちの奥の方から聞こえた。しかし今のは夏希ではない。男の声だった。
人気のないこんな所で、はっきりと聞こえた声に、心臓が鈍く音を鳴らす。
「だれだ?」
しかし返答はない。僕はバールを握る手に一層力を込めて前へ進んでいく。
怖さはあった。
でもそれ以上に、夏希が心配だった。
かつて森だった所を切り開けば、森が再びよみがえる。
人のいなくなったその場所は既に森が息づいていた。
建物の奥はひと際大きな欅が植わっていた。
ふと、欅の影だと思っていたところに違和感を覚える。
走って近づいてみると、それは両腕をいっぱいに広げても足りないくらい、大きな水たまりだった。
しかし、何かがおかしい。水たまりは底が見えないほど青黒い水で濁っていた。
黒の絵の具と、青の絵の具のチューブを空っぽになるまで絞り出し、バケツの中でかき混ぜたようないろ。
自然の中では、到底、出来るはずのない色だ。
「なんだこれ…。」
その不思議な水たまりに心奪われる。
欅の葉が、水面に写っている。
僕は何かに促されるように、その池のふちに触れる。
水のように見えたそれは、水ではない何か。
水よりも軽く、生き物のようにうねって、僕を瞬く間に水たまりに引き込んだ。
パシャ、っと水のはねるような音。
水たまりの底につくはずだった僕の手は、
そのまま地を手を着くことなく、水たまりの中へ吸い込まれていく。
その不思議な現象を目の前にして、僕は何故かそれをぼんやりとしか捉えられない。
寝る寸前の微睡む感覚。
ゆっくりと落ちていく体。飛び跳ねる青黒い水しぶきは固く細い結晶のような形になり、また水たまりへと戻る。
僕はその青黒い水の中に沈んでいった。
そしてその薄っすらとした意識の中で何となく察する。
ああ、僕はこのまま死ぬんだ。
夏希のことは心配だけど、僕はこのまま何も考えずに死ねるのか。
そう思うと少し気が楽になった。
こんな穏やかな気持ちで苦しまずに死ねるのなら、それはきっと幸せな事だ。
そう思ったのもつかの間、僕は息苦しさでもがく。
口の中いっぱいに水を吸い込んだような気持ち悪さ。
吐き出したいが、吸い込む息もできない。
苦しい。苦しい。苦しい。
嫌だ、死にたくない。死にたくない。
「何故おまえだけ生きている。」
僕だって、奪いたくて奪ったわけではないのに。
何故、僕だけこんなに苦しいんだろう。
「お前が死ねばよかったのに。」
青黒い水の中で手も足もばたつかせる。しかし何も掴むことはできない。
僕はそのまま気を失った。
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