第3話 白い街の怪物
「お母さん、今から郵便局行ってくるから。何か買ってくるものあるぅ?」
間延びした、呑気なリビングから母の声がする。
その声で、僕は我に帰る。
声は、聞こえなくなった。
母が居なくなった後、こっそりと居間へ行く。
そこには殆ど物も置いていない。あるのは仏壇と押入れと、雑誌や本の入った段ボール。畳の匂いを嗅ぎながら、僕はふすまの奥の押し入れを開ける。
押し入れには客人用の布団や冬服の衣装ケースが入っている。そして、その布団の下には、薄い桐でできた箱がある。
僕はその箱をそっと引っ張り出す。
布団と桐箱の間に溜まっていた古びた空気が、引っ張り出した動作と同時に吐き出されていくようだった。
桐箱を開ける。
中には写真の入ったアルバムと誰かからの手紙と名前の書かれていない母子手帳。
それは母が大事にしまい、誰にも見られないように隠しているものだ。
僕は時折、その中身を確認したくてしょうがなくなる。何の意味もない事は分かっていた。
だが僕はその箱を開けずにはいられない。
母子手帳とアルバムをぱらぱらとめくっていく。何も書かれていない、母子手帳。
使われるはずだったその母子手帳は、書き込まれるはずなどなかったはずなのに、しわくちゃで、少し汚れていたり、よれている。
しばらくの間、麻痺した様な感覚の中で抗えない時間を過ごす。
心の中で、何度も何度も、何度も、謝り続ける。浅くなりすぎた息のせいで、手足は少し痺れ始めた。
力が入りにくくなったため、僕はようやく、動かなければ、という気になった。
桐箱を元あったように、布団の下へ隠し、仏壇に素早く手だけ合わせて僕はその居間から出た。
自ら行った行為だというのに、鬱屈したやりきれない気分に飲み込まれる。
そのため僕は今日もまたジョギングに行く。気分転換に走るのはいい。
激しめのロックな曲を聴きながら、リズムに合わせるように走っていると、余計なことを考えないで済む。
いや、実際には考えてはいるのだが、鬱屈した気分は幾らかマシになるのだ。
半そでとパーカーに着替え、最近買ったばかりのランニングシューズに履き替える。白に紺色のラインが入っていて、くるぶしあたりに黒いロゴが入っている。
外に出ると、空は赤と紫のグラデーションに染まっていた。もうすぐ日が沈む。真っ白だった建物も夕日と夜の紺色に、少しずつ飲み込まれていく。
いつも死にそうな思いで上る階段ばかりだが、そこから見える景色を見るだけで、ここに住んでいることが悪くないと思えてくるから不思議だ。
街の様子を眺めていると、ふと遠くの建物の方で何か大きいものが動いた気がした。車ではない、生き物のような不測的な動き。
目を凝らしてみてみると、先に目に映ったのは小さな人影だった。その人影は、開けた道路に飛び出した。
この距離から見える人影は、普通なら誰が誰だか分からないだろう。
でも、その人影は、僕がいつも近くで見てきた、とある人物なのだ。
シルエット、髪型、走り方。
「夏希?」
聞こえないはずの距離なのに思わず声に出してしまった。
それは夏希だった。
先ほど皆で会話を楽しんだ後、真っ先に帰ったはずの夏希は、制服姿のまま大きな道路を真っすぐ走っていく。
夏希が後ろを振り向いた。
そして僕は夏希が何かに追われているのだとすぐに分かった。
それは夏希のすぐ後ろをついていたのだから。
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