遺産相続6日目
六日目の朝、天翅はいつもの窓際にいなかった。この数日間見ていたきらきらと虹色に分解された太陽光が見えない。慌てて起き上がる。まだ七日目じゃない。六日目だ。
果たして天翅はキッチンに立っていた。俺のマグカップを両手で持つと、よろよろと危なっかしい足取りでテーブルまで持ってくる。ことり、とマグカップを置くと、今度は自分のマグカップを取りにまたキッチンに戻る。そうして二往復してから、胸ポケットから角砂糖を二個取り出した。それぞれのマグカップの横に添え置かれる。
「何してんの?」
火傷でもしたら、どうするつもりだろう。険のある俺の言葉に、天翅はびくりと両肩を震わせた。翅が小さく痙攣する。怯えているのか。言い方がきつかったか。後悔するけれど、遅い。
「朝めし作ってたの?」
今度はなるべく穏やかに尋ねてみる。こくん、とようやく天翅は頷いた。
テーブルにつくと、白湯の入ったマグカップと角砂糖がそれぞれひとつずつ並んでいた。成程、天翅流の食事だ。
「いただきます」
マグカップに角砂糖を落として、混ぜて飲んだ。温いし、薄い砂糖の味がするだけの、決して美味しいものじゃなかった。コーヒーの方が断然いい。でも文句は言えなかった。天翅はそれが至上のものであるように舐めている。
たまにちらりと俺の方を見て、俺がマグカップの中身を飲んでることを確認すると、ちょっと笑んだような表情をする。
朝はそんなに食べない主義なのだが、今朝は中途半端に糖分を摂ってしまったので、なんだか腹が空く。結局ぎりぎりに着いた会社で、パンをかじることになった。
「珍しいね、相川が会社で朝めし食うの」
同僚が声をかけてくる。
「ん、ちょっと色々あって」
さすがに天翅の朝食に付き合わされて、とは言えない。
「何?女?相川モテるもんな」
俺がモテるのではなく、同僚が無遠慮なだけだと思う。ところで天翅は「女」と言えるのだろうか。どう考えても「メス」だ。
「……いや」
一瞬いらないことを考えた間を、同僚は疑うが、そこで始業のチャイムが鳴った。
パソコンを叩きながら、頭は別のことで埋まってしまう。うちの天翅は明日死ぬ。実感は湧かなかった。何かしてやった方がいいのだろうか。でも誕生日すら祝えない。プレゼントはどうだろう。天翅が何が欲しいのかわからないし、明日死ぬやつにあげて喜ばれるものもわからない。
結局何も思い付かず、集中出来ない仕事はミスだらけで、帰宅は深夜になった。
とうに眠っていると思っていた天翅は、部屋の明かりが点くと、ぱっと顔を上げた。艶やかな髪の一房には細いリボンが不格好に巻かれていて、小さい白い顔に、黒い睫毛と大きな瞳が印象的だ。
「起きてたのか」
呆れてしまう。曖昧に頷く天翅は、自分が明日死ぬことをわかっているのだろうか。
「眠いだろ?」
いつもなら天翅は眠っている時間だ。ふるふると首を横に振る天翅は、今夜はやけに感情表現が豊かだと思った。
「飲み物淹れてくるから」
そう言って、とりあえず俺はキッチンに立った。白湯を作っている間、どうしようもない焦燥感に襲われた。あと何時間、あの天翅は生きているのだろう。マグカップ二つに白湯を注ぎ、角砂糖をひとつづつ落とす。俺にとっては美味しくはないのだけれど、今日はこれでいい気がした。
マグカップ二つを両手に持って、片方を天翅に与える。マグカップの水面を見つめる天翅の頬は、ふくふくとしていたように見えた。
その日は何度も天翅の頭に触れたり触れなかったりを繰り返し、たまに肩の線をなぞった。
うとうととしだしたのは天翅が先だったか。こんなどこも悪くない生き物が明日死ぬ気がしなくて、その事実に安心して二人で狭い床の上で眠った。
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