遺産相続5日目

 五日目はスマートフォンのアラームを消すと、ベッドサイドに天翅がいた。何かいつもと様子が違う。どこが違うのか判別する前に、俺はキッチンに立った。天翅も後をついてくる。

 蛇口を捻って、小鍋に水を張る。それをガスコンロにかけて、ペーパードリップと天翅用の湯を沸かす。沸々と湯が沸いてくるのを、天翅はじっと見つめていた。その間にいつものマグカップにコーヒーのペーパードリップをセットする。

 沸いた湯を、まずは俺のマグカップに注ぐ。コーヒーの香りが狭いワンルームに広がった。それからこの部屋でいちばん小さいマグカップに湯を三分の二程淹れて、残りは水道水で埋める。それを天翅はじっと見ていた。

「ほら、行くぞ」

 二人分のマグカップを持って、小さなテーブルに着いた。向かい側に天翅も座る。胸ポケットから、二日前に上げた角砂糖の袋を取り出した。一粒取り出して、包装を剥ぐと、マグカップにぽちゃん、と落とした。どうやら角砂糖の入った白湯はお気に召したようで、毎食やっている。そして口をつけて、頬を仄かに赤く染めるのだ。

 俺が慌ただしくコーヒーを飲むと、天翅も真似をして急いで飲もうとする。

「いや、お前は急がなくていいから。俺は仕事に行かなきゃいけないから」

 そう諭すと、天翅はぽかんと俺を見上げたあと、僅かに大きな目を伏せた。顔が翳る。それを寂しがっていると捉えるのは、俺に都合がよ過ぎるというものだ。

 それでも俺が仕度をして大股で玄関に向かうと、健気にも天翅は後をついてくる。

「ちゃんと留守番してろよ」

 玄関を閉め際見た天翅は泣きそうな顔をしていた。何が不満なのだろう。そしてもうひとつ、朝からの違和感もわかった。黒髪を一房、細いリボンで留まっていたのだ。

 あれは何のリボンだろうという疑問は、玄関の鍵を閉めた頃には忘れてしまった。




 月曜日は居酒屋は大抵休業日だ。だから定時に仕事を終えて、部屋に戻った。鍵穴に鍵を差し込んで、回す。玄関は真暗だった。廊下のスイッチを弄ろうと、靴を脱いで一歩進むと何かに引っかかった。

「うわ」

 俺は何かに躓いて、どた、と大きな音を立てて廊下に顔面からぶつかった。鼻先を廊下に擦りつけて痛い。

「何だ?」

 なんとか廊下の平たいところで立ち上がり、廊下の照明のスイッチを捻る。ぱっと廊下が明るくなった。半畳ない三和土にばらばらに散らばる革靴、そのすぐ傍に天翅が倒れている。どうやら俺は天翅に躓いたらしい。

「お前、なんでこんなところにいるの?」

 天翅の定位置は窓際のはずだった。いつもそこにいたのに、今日は玄関先にいる。何か、窓際が居心地が悪かったのだろうか。

「ほら、立てるか」

 狭いワンルームの玄関先だ。そこに居座られると困ってしまう。手を伸ばして、天翅の細い手首を掴んだ。天翅は大人しく、引かれるままに立ち上がって俺についてきた。いつもの窓際まで連れていくと、大人しくそこに座る。そこで右膝を庇っているのに気付いた。

「どうした?」

 大きな目をきょとんとさせて小首を傾げる天翅の膝は擦り剝けていた。さっき転んだ俺の下敷きになったときに擦りむいたのだろう。それにしても小さな膝だ。

「ちょっと待ってろ」

 俺は滅多に使わない救急セットを探し出して、そこから絆創膏を一枚取り出した。俺が怪我したのなら、こんな掠り傷、放っておいてしまう。けれど天翅は繊細で、掠り傷でも大きな怪我のように思えた。

 絆創膏を貼ってやると、天翅はしばらく物珍しそうに眺めていた。そしてそっと手を伸ばして、指先でつつきだした。

「剥がすなよ」

 一応釘を刺しておくと、天翅の肩はびくりと動いて、さっと手を引いた。

「いや、そんなに気にしなくていいけど」

 またおずおずと俺の顔を窺う天翅に、そうか、こいつはまだ羽化して一週間も経っていないのか。世界は知らないことばかりだろう、と気付いた。それから遅れて、あと二日のいのちだったことにも気付いた。

 はじめは迷惑だと思った。感情も意思の疎通も出来ない、何を考えているのかもわからない外れくじだと思っていた。からだを拭くのにも躊躇いがあった。それなのに、昨日は風呂に入れ、今日は天翅に絆創膏を貼ってあげている。たった五日でいて当然の生き物になっていた。

「あと二日か」

 あと二日、天翅がここにいてよかったと思えることが何か、俺は未だにわからない。そもそも何を考えているのか、今だって大まかにわかったりわからなかったり、なのだ。

 手を伸ばしてぽん、と天翅の黒髪を撫でると、天翅はすぐに顔を上げた。俺の方を見てくる。さしずめ「何?」と言ったところだろうか。

「何でもない」

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