遺産相続4日目
翌日、四日目の昼頃に目を覚ますと、窓際に座っていた天翅は手櫛で黒髪を梳いていた。どうやら絡まっているらしい。
「何?絡まってんの?」
俺が寝起きの嗄れた声をかけると、びくり、と天翅の肩が揺れた。頭髪の間にある手指もぴたりと動きを止める。やはり俺はこの天翅に好かれていないのか、と思った。不思議と昨日までの好奇心に似た探求心と違って、心に拳大の石が落ちてきたように重たくなる。
天翅はゆっくりと上目遣いで俺の様子を窺っている。俺が乱暴に扱うとまだ思われていたら残念だ。俺は俺で出来る限りのことをしたつもりだったのだ。
しかし俺の方を黒い目で見ていた天翅は、ゆっくりと小さく頷いた。窓の隙間から差し込む陽光に、翅がきらりと光った。
俺は天翅に手を伸ばした。髪は絡まっているし、少し油っぽい。
「風呂、入るか?」
とは言っても湯舟につけるのは駄目だろう。以前のようにタオルで拭くか、シャワーで流してやる程度だ。天翅は「風呂?」と言うように俺の方をまっすぐに見つめてくる。
今まで漁ったネットの記事の中に、天翅を湯舟につけるというものはなかった。からだを清拭することはあるらしい。シャワーをかけても大丈夫だろうか。わからないけれど、数少ない記事の中に「天翅にシャワーをかけてみた」というものがあった。その記事自体は余り役には立たなかったけれど、翅にさえ注意を払っていれば大丈夫だろう。
「髪洗って、からだも洗えば、少しはさっぱりするだろ」
俺の言葉に、天翅は反応を示さない。意味がわかっていないのだろうか。とりあえず俺はそれを了承と読み取った。
「嫌だったら『嫌』ってしろよ」
天翅の「嫌」が一体どういうものかさっぱりわからないが、何かしら動けばやめよう。そう決めて、天翅の手を引いて狭いユニットバスに向かう。
大人しくついて来た天翅を、バスルームの前の狭い空間に立たせる。そして天翅に着せていたワイシャツのボタンを外していく。四日振りに見る裸体はやっぱり折れてしまいそうで、腹の痣は禍々しかった。まるで蜘蛛の巣に囚われた蜂だ。
全裸になった天翅の背中は、貼り付いて不格好な左側の前翅と後翅が目立つ。その背を押してバスルームに入れる。
「入れるか?」
バスタブを示すと、天翅はのろのろとバスタブの縁に腰を下ろし、くるりと向きを変えた。そしてバスタブの中に立つ。「これでいいか?」と問うように俺の方をゆっくりと見てくる。
「そう。それでいい。お湯が熱かったら避けろよ」
そう断ってから俺はシャワーのコックを捻る。温度は三十九度だ。決して熱くはないはずだけれど、天翅がどう感じるかわからない。まず俺の手に湯をかけて熱くないことを確認してから、天翅の細い脚にシャワーを向ける。
天翅はびくりと半歩進んだけれど、それだけだった。大丈夫なのだろう。脚から順に腰、背、とシャワーのノズルの位置を変えていく。翅が濡れないように気を付けた。
「目、瞑ってろ」
俺の言葉に従って、頭を差し出してぎゅっと天翅が目を閉じたのを確認してから、頭からシャワーをかけた。ついでに軽くくしゃくしゃと洗ってやる。
女物のシャンプーはないから、俺のものを代用して両手で泡立てたシャンプーで黒髪を洗ってやる。するすると指の間をすり抜けていく、艶のある黒髪だった。頭全体を洗うと、またシャワーの湯で流していく。途中でシャンプーが目に入ったのか、天翅はさらにぎゅっと目を強く閉じた。
顔を洗ってやってから、からだも洗う。ボディソープを泡立てて、右手、左手、肩、背中、少し躊躇ってから乳房、腹、と手のひらで撫でていく。薄い腹にもちゃんと臍があることがおかしかった。
脚を洗おうとバスタブの縁から手を伸ばしたら、不覚にもバランスを崩して天翅の上に折り重なるように落ちてしまった。
「いってぇ」
顔は天翅の痣のある腹に、膝は強かに狭いバスタブの床に打った。天翅も突然なだれ込んできた俺の重さに耐えきれず、尻からバスタブの床に落ちている。シャワーのノズルも一緒にバスタブの底に落ちてきて、俺も天翅もずぶ濡れになってしまった。
天翅は真黒な目で俺を見ている。どこか痛いところでもあるのだろうか。
「どっか痛いか?」
訊くと、ゆっくりと首を横に振る。
天翅に怪我はない。天翅を洗うはずだったのに、俺までバスタブに落ちて、ずぶ濡れだ。何だかばかばかしくなってしまい、「はは」と笑うと、天翅が目を細めた。
「笑っ、た……?」
湯が目に入っただけかもしれない。
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