遺産相続2日目

 目が覚めると、カーテンの隙間から差し込む光が室内で乱反射していた。虹色の光が雑然とした室内の輪郭を描く。

 ああ、きれいだなと思ってしばらく見つめていた。寝惚けた頭が覚醒していくにつれて、乱反射の原因が、窓際でからだを丸めている天翅の翅だと気付いた。俺のワイシャツに覆われていないそこは、寝言のようにたまにぴくりと動く。実際眠っているのだろう。起こさないように、とそっとキッチンに立つ。

 昨夜は変な体勢で眠った所為で、からだ中が痛い。それらをほぐしながら、キッチンでペーパードリップのコーヒーを淹れるための湯を沸かした。

 なるべく静かにしていたつもりだけれど、コーヒーを淹れる頃には、さすがに天翅も目覚めたらしい。カーテンの縁がもぞもぞ動いている。なのに俺がコーヒーを片手に近付くと、天翅は磁器人形のようにぴたりと固まってしまった。緊張しているのか、警戒されているのか、わからないけれど余りいい気分ではない。

「俺、怖い?」

 コーヒーを啜りながら、上からねめつける成人男性はそれでなくても怖いだろう。俺はこの天翅に感情があるのか知りたかった。天翅は俺の言葉に、視線を俺の方へ向けた。黒い、丸くて大きな瞳だ。そこに俺が映る。それだけだった。不思議なものでも見るかのように数秒見つめて、また視線は外れていった。

 やっぱりよくわからない。

 ついでなので、ドリップ用に沸かした湯の残りが適当に冷めていた。今朝はそれを与えてみた。昨日よりも大きめのマグカップは天翅には重いらしく、慎重に両手で持って、白湯を口にした。瞬間、頬がほんのりと赤く染まった。天翅の目蓋が薄っすら閉じる。彼女から何か肩の荷が下りたのかもしれないけれど、それを観察する時間はなかった。出社時間が迫っていた。




 入社して一年で俺は、会社では仕事は適当にやっている振りをすることを覚えた。真面目に全力でこなしても次の仕事が舞い込むだけだ。適当にやっている振りをして、適当にふらりと席を外し、戻ってくる。それでも給料には響かなかったし、誰も咎めなかった。

 昼休み、机でパンを齧りながら、スマートフォンで天翅について色々と調べてみた。余りにも俺は知らな過ぎた。

 その結果、感情表現をする個体もしない個体もいるらしい。うちの天翅はどちらだろうか。寿命は七日間しかないのに、まだわからない。そもそも口のきける個体なのかもわからない。口のきける個体ならば、意思の疎通も簡単だっただろうに、俺の天翅は今のところ一言も口をきかない。

「何見てんの? 天翅?」

 突然背後から同僚が声をかけてきたから、びくりと両肩が震えた。今は昼休み中だ。別に悪いことなんてしていない。

「あ、ああ」

 振り返って同意する。

「何。お前、そういう趣味があるの?」

 そういう趣味とは。幼女性愛趣味。奇形趣味。成金趣味。いろんなものを指す。

「いや、」

 俺は相続させられただけだ。あの無闇に触ったら壊れてしまいそうな生き物に、何か特別な興奮は覚えない。

「そなの?俺、相川がそういう趣味でも引かないって」

 同僚は中々信じない。何せ随分とディープなページを開いていた。

「本気で違うから」

 俺は同僚を押し返す。

「そう? でも世の中にはいろんな趣味の奴がいるよなぁ。一週間で死ぬ、翅が生えてるだけの生き物を、よく高額で買うよなぁ」

 それだったら車でも欲しいよ、という同僚に俺は同意した。

「所詮金持ちの道楽、宝くじみたいなもんだろ」

 俺の宝くじは外れたが、それが普通だ。連番で買えばひとつくらい当たりがあたかも、と思って、ぞっとした。

「当たれば高額で売れるから、どっちかって言うと競馬だな」

 馬っていうより虫だけど、と同僚は返してきた。うちの天翅は、競馬で言ったらただの紙切れのような馬券だ。外れもいいところだ。

「競馬も当たんないからなぁ」

 ああ、不労所得が欲しいわ。と俺と同僚が零す。俺には天翅という不労所得があるけれど、一銭にもならない。

 そういえばあの天翅は今、部屋でひとり何をしているのだろう。のどが乾いたら、自分で蛇口を捻れるだろうか。翅の手入れはどうしているのだろう。あの不格好な翅をどこかに引っ掻けてはいないだろうか。ひとつ気になりだすと、他も気になってくる。

「……天翅って何考えてんだろうな」

 羽化して七日間のいのちだ。俺なら五日労働して、二日間の休暇で七日だ。神様なら、人間を作った翌日に休息をとったら七日目だ。七日は長くて短い。

「相川って結構哲学的なのね」

 同僚は興味がなさそうだったので、この話はここでお終いになった。

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