遺産相続

藍生朔

遺産相続1日目

 遮光カーテンの引かれた無人のワンルームは、薄暗い。窓の外の空はどんよりと曇っていて、カーテンの隙間からか細い陽光が差し込んでいる。

 その室内で、パキ、と何か硬いものが割れる音がした。割れたのは半透明の殻だ。蛹、といった方が正確かもしれない。百二十センチはありそうな大きな蛹だ。その背面にひとすじの線が入っている。

 蛹が置かれているのは、安いワンルームの中だった。ベッドのシーツには皺が寄り、すぐ横の壁には安い細身のスーツがハンガーにかけられている。スーツの丈から平均的な身長の若い男が家主だろう。脇に寄せられた背の低い小さなテーブルの上には、とっくに冷めたコーヒーがマグカップに半分入っていた。床にはここ数日の晩酌の跡がまとめて置かれていた。そうして無理矢理作られた狭い空間に、蛹が斜めに傾いて置かれていた。

 蛹は天翅のものだ。これはかなり高価なもので、この部屋の主には不釣り合いのように見受けられる。扱いもかなり雑だ。

 また、パキ、と殻に罅の入る音がした。曲線を描く背面がゆっくりと割れていく。生き物の羽化には時間がかかる。ゆっくり、ゆっくり、殻は割れていき、背面のすじがくっきりと浮かび上がる。

 外では雨が降りはじめたのか、室内が一層暗くなる。けれどそんなことお構いなしに羽化は進んでいく。羽化はどんな生物でも慎重に行わないといけない。硬い蛹から出たばかりのからだは柔らかく、傷付きやすい。簡単には成功しない。

 どんどんと羽化は進んでいく。パリパリと巨大な蛹の背中は縦にひび割れていく。

 小一時間は経っただろうか。グロテスクともいえる蛹の中から、ずるり、と何かがはみ出した。それは遮光カーテンの隙間を縫って入ってくる弱い太陽光を受けて、きらきらと反射してみせた。




 満員電車から降りて、駅を出るとしとしとと雨が降っていた。改札前には傘のない人で溢れているのに、駅前のロータリーは閑散としていた。お金に余裕のある人はタクシーを使うのだろう。

 格安で買ったスーツを着ている俺には無縁な話だ。そもそも朝のニュースで、胸を強調したブラウスを着た女の子が「夕方は突然の雨に注意して下さい」と言っていた。

 ビニール傘をぱっと開く。何人かが恨めしそうに一瞬俺を見た気がした。気の所為かもしれない。

 俺には帰宅を急ぐ理由がある。スーツのズボンの裾に水が跳ねるのも構わず、大股で家路を急ぐ。決して広くはない俺の部屋のリビングの隅には、半透明の蛹がいる。その丸まっている蛹の背中に、今朝ひとすじの線が薄っすらと見てとれた。そろそろ羽化がはじまるのだ。

 これだけだと俺が無類の昆虫好きかのように思われるかもしれないけれど、違う。この蛹は昆虫ではない。羽化するのは翅の生えた人間のようなものだ。この一抱え程ある蛹には、等身大の翅の生えた人間のようなメスが入っている。人はこれを「天翅」なんて呼んだりする。勿論そう簡単に手に入る代物ではない。金持ちだった祖父の道楽を、強制的に相続させられただけだ。

 肌の色は白く、髪は銀糸のようで、赤目、けれど翅の色は鮮やかで珍しい模様を描いていれば高く売れる。でもそんなのは僅かだ。大抵はそこそこの出来で、道楽で蛹を手にする人にとっては「夢を買うんだよ」とのことだった。

「これでお前も一攫千金じゃないか」

 そう親戚に言われて無用の長物を押し付けられた俺としては、どうせ同じ夢なら宝くじがよかった。

 天翅が金持ちの道楽と言われるのには理由がある。終齢幼虫をブリーダーから買い付けたときには、どんな天翅になるのかわからない。それを買い付けて半年、水をやり続けて蛹を飼育する。そうまでしてもまともに羽化まで辿り着く蛹は少なく、運よく羽化まで辿り着いても翅がきちんと開くとは限らない。その上精々一週間しか生きないのだ。その一週間の間に愛でて、場合によっては展翅の準備をする。何が楽しいのか、さっぱりわからない。

 三階の部屋まで階段を駆け上った。

 こんなときに限って鍵穴に鍵が上手く入らない。カチャカチャと何度目かで鍵の差し込みに成功して、濡れた靴下で短い廊下を大股で越えて、急いでリビングを見た。

 女の子がいた。

 羽化のときの粘液で黒髪は艶やかで、腹に蜘蛛の巣のような痣のある白い肌も、透明な翅も粘液で濡れている。ぬらぬらとした粘液がリビングの床を汚して、半透明の蛹の殻は粉々に砕けて天翅の横に山になっていた。そして肝心の翅は、羽化に失敗したようだ。無残に皺が寄ってくっついている。羽化のときの、蛹の位置が悪かったのだ。

「ああ」

 俺の宝くじは見事な失敗だった。だけれど嘆いてはいられない。この羽化に失敗した天翅も、あと一週間は生きるのだ。

 愛玩用だとしても生きるのだ。世話をしなくてはいけない。

「ちょっと待ってろ」

 ぼんやりと中空を見つめている天翅に声をかけると、ゆっくりとその視線は俺の方へ向いた。視線が合う。「こいつは一体何だろう」という顔をしていた。

 急いでユニットバスのバスルームに駆け込む。今日は夕方から雨も降りはじめて、さして気温も上がっていない。天翅が病気になるのかわからないけれど、寒いだろう。

 三十九度に設定しているシャワーのコックを捻り、湯を出した。そこにバスタオルを浸す。湯を吸って徐々にバスタオルは重たくなっていく。最後に絞るのは一苦労だった。

 温かなタオルを片手に天翅の元に戻ってみると、俺がバスルームに行くときと同じ格好で立ち止まっていた。はたしてこいつに意思はあるのだろうか。表情ひとつ動かない。長い睫毛に覆われた丸い眼球がたまに左右に動き、そしてたまに瞬きする程度だ。

 温かなタオルで磁器で出来たような顔を拭いてやると、黒い瞳はぎゅっと閉じた。片手でタオルを扱い、もう片方の手で頭を支える。黒髪はひんやりと冷えていた。

「お前、いつ羽化したの?」

 試しに触れてみた肩も、外の雨と同じくらいに冷えている。それにしても細い肩だ。乱暴に扱ったら折れてしまいそうだ。顔だってそうだ。目ばかり大きくて、鼻も口も輪郭も小さい。人でいったら小柄な十二、三歳程度だろうか。

 市場にまわる天翅が皆メスなのは、ブリーダーの元に卵を産むための女王と数匹のオスがいるだけで、蜜蜂同様、働き蟻とも同じ、女王が産むのはメスだけだからだ。それでも第二次性徴の気配のあるからだを無遠慮に拭くのは躊躇われた。決してそういう趣味はないけれど、別の生き物と割り切ることも出来ない。そこが天翅の魅力のひとつらしいが、今はどうでもいい。

「自分で拭けるか?」

 タオルを手渡してみるけれど、腕はだらりと垂れたままだ。顔を拭かれているときは、血の気が戻ってきた所為か気持ちよさそうな顔をしていたけれど、やはり言葉は通じないか。

 一度タオルを洗い直してきてから、首から全身を拭きにかかる。膨らんでいるかどうかもわからない乳房も、痣の這っているくびれのない薄い腹も、つるりとした陰部も、そっと拭っていく。成人女性のからだを拭いたことはあるけれど、こんな子供同然のからだ、しかもいかにも脆そうな天翅のからだなんてどう扱っていいのかわからない。天翅は一向にされるがままだった。

 翅はこれ以上傷つけてしまうと怖いので、触れなかった。蝶のように鱗粉があるわけではない。どちらかというと蜂に似ている。きちんと開いていれば、透明で幾何学的な翅脈が走っているのが見てとれただろう。実際は左の前翅と左の後翅の一部が張りついて、皺が寄っている。剥がしてやりたいが、多分千切れてしまうだろう。それはあんまりだ。

 ところで天翅に服を着せるのは一般的ではない。飼い犬に服を着せるも着せないのも主人の自由であるように、天翅に服を着せるのは持ち主の自由だ。祖父はそういう趣味はなかったらしい。天翅用の服の用意はなかった。けれど全裸というのも不憫な気がした。

 クローゼットの中から、まだ袖を通していない俺のワイシャツを取り出した。

「お前には大き過ぎるだろうけど、文句言うなよ」

 そう言いながら、肩甲骨から生える四枚の翅を避けつつワイシャツを着せる。痩せた肩を襟が通り、未熟な乳房の間でボタンを閉じていく。余った袖は折ってやった。その間天翅は文句のひとつも言わない。されるがままだ。服を着ることが不快なのかもわからない。

 はぁ、と溜め息が出た。こんな意思の疎通の出来ない生き物と七日間とはいえ、この部屋で一緒に生活していかなければいけないのか。共同生活どころではない。世話をしなければいけない。気が重い。

「とりあえず、これで寒くないだろ?」

 俺の自己満足に、天翅の長い睫毛の縁取りのされた目蓋がゆっくり閉じて、開いた。まるで肯首したようだったけれど、偶然だろう。相変わらずどこを見ているのか、視線は合わない。

 天翅は食事をしない。死ぬまでの七日間、水だけを口にする。それに倣って、蛇口を捻って流した水を、いちばん小さなコップに入れてやった。どの程度飲むのかは知らなかったけれど、今にも折れてしまいそうな小さなからだには大きなマグカップは不釣り合いのような気もしたのだ。

 天翅は両手でコップを抱えて、ちろちろと赤い舌を出して水を舐めている。

 とにかくわからないことだらけだった。スマートフォンで検索している内に、俺はいつの間にか眠っていた。

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