第7話

陽葵の笑顔は綺麗だった。


ずっと昔から見てきた、太陽のような笑顔そのものだ。


あんな顔ができるというなら、彼女の僕を見る目は、きっと変わっていないのだろう。




あの頃のまま、僕を見ている。


彼女の心の中に、小さい頃の僕がそのままいるんだ。


それが辛いと言えたなら、どれほど良かっただろうな―――でも結局、言えなかった。






僕は変わった。少なくとも今の彼女と僕とでは、世界の見え方が違うはずだ。


陽葵の笑顔を綺麗だと思う一方で、その明るさがまるで哀れな蟲を誘う、無慈悲な誘蛾灯のように感じてしまうのだから。




自分の心の汚さを現しているようで吐き気がする。


太陽を醜く堕とそうとするなんて、あの頃の僕は想像すらしていなかった。






陽葵に会いたくない理由のひとつがそれだ。


彼女を見ると、どうしても昔を思い出してしまう。


願いを持っていた真っ直ぐな僕が、合わせ鏡のようにそこにいる。


あの頃の僕が、今の僕を見つめていた。






背は高くなった。筋肉もついた。足だって早くなれはした。


それでも僕は誇れない。胸を張って、僕はあの誓い通り、陽葵を守れるやつになったぞと、言えるはずもない。




純粋さってやつは毒だ。漫画でよくある年をとったキャラクターが、なんで若者の主人公を可愛がるのか、今ならよくわかる。


ああはなれないからだ。きっと彼らはなりたかった自分を主人公に投影して、頑張れといいたいのだろう。そんな期待に応えるからこそ、彼らはヒーロー足り得るのだ。






僕は頑張った。だけどなれなかった。僕がなりたかった陽葵を守れる強いヒーロー。


そんなものは、どこにも存在しなかったんだ。




未来の自分に託した期待。それを裏切った現在の自分。湧き上がる罪悪感。


合わせる顔なんて、あるはずもない。だから陽葵の顔もろくに直視できないんだ。


陽葵の瞳に映っている、自分で見る僕の姿は、歪んでいた。






陽葵の世界が澄み切った青空だとしたら、僕が見ている世界は暗く澱んだ空の見えない泥沼だ。


彼女は目の前に広がる世界しか見えていない。決して下を見ることはないだろう。


例え見えたとしても、気にも止めないはずだ。




人が地べたを這いずる蟻を見ても、なにも思うところなどないのだから。


駆け回っていたところで、そうがどうしたという話。


なんのために動いているかなど、考えを巡らせるだけ無駄と、多くの人は無意識のうちに切り捨てることだろう。


そしてまた歩き出すんだ。その足が、蟻を踏みつけていることに気付きもせずに。






―――そこに悪意なんてなかったとしても。




誰かを傷つけるっていうのは、そういうことだ。














「どうしたの、陽葵?こんな朝から…」




重い足を引きずるようにしてたどり着いた我が家の軒き先で、僕は訪ねた。


ほんとはもっと違うことを言いたかったが、それはもちろん呑み込んだ。醜い本心なんて、口に出すもんじゃない。




「うん!それはね…あ、その前に汗かいてるし、拭いてあげるよ」




僕のなんでもない問いかけに、何故か嬉しそうに答える陽葵は、後ろ手に持っていたタオルをこちらに向けて差し出した。


言葉通り、僕の顔を拭こうとするつもりなんだろう。確かに汗は伝っているが、そんなのはシャワーを浴びればいいだけだし、こんないらないお節介をされる謂れもない。




「いや、いいってそんなことしなくて!タオルも汚れちゃうよ。必要ないから」




若干たじろぎながらも、僕は陽葵を制止した。


陽葵にはあまり触れられたくないのだ。優しさに甘えてしまいそうになる。


劣等感を拗らせながらもプライドだけはいっちょまえにあったから、彼女に甘えるなんて許されないと、心の声が叫ぶのだ。




我ながらめんどくさすぎる性格だ。だけど、これが僕だった。僕だけはきっと、こんな自分を否定してはいけないんだろう。


受け入れるからこそ、さらに深みにハマっていくのだとしても、だ。


無駄なところで真面目すぎる。歪んでるくせに芯がある。もっと早く見切りをつけれる性格なら、そもそもこんなことにはなってないけど。




「大丈夫だよ、タケルちゃんに汚いところなんてないから!」




「っつ!」




あぁ、やめろよ。そういうの。


なんでずっと一緒にいるのに、そんなことを言えるんだ。


お世辞なんかいらない。そうでなかったとしても、言ってほしくない言葉がある。




僕はとっくになにもかもが醜くなってるのに、なんで君は汚くなんかないなんて言えるんだ。




お前は僕の、いったいなにを見ているんだよ。




気付いて欲しいわけじゃない。気付いて欲しくなんかない。








だけど、気付いてくれないことが、なんだか無性に悲しかった。

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