第二章⑦

 おくに新しい匂いだった。だが、共通点がかいのふたりから同じ匂いがするなんてありえないはず……。のうをかすめた疑問に答えを出せないマローネをよそに、覚えのある香りをまとった王妃は、微笑みを浮かべ続けた。

「でも、そなたはサフィニアの真の騎士ではないと聞いていますよ」

 痛いところを突かれたマローネは、同時に屋敷の人間しか知らないことをあくしている王妃に驚いた。

(な、なぜそれを……)

 どうようする姿がおかしかったのか、王妃はくすりと笑い声をこぼす。

「わたくしが世話をしてあげましょうか? 《隠れ姫》に拒まれ続けるより、よほど有意義でしょう?」

 甘い匂いとさそい。

「ねえ、サフィニア。この騎士を扱いかねているのなら、引き取って差し上げてよ? お前が、人を使えるとは思えないもの」

「……決めるのは、私ではありません」

 サフィニアの静かな答えに、王妃はマローネに視線を戻す。答えを促されていると気付いたマローネは、ハッキリと告げた。

「わたしが剣を捧げるお方は、サフィニア王女殿下だけにございます」

「ふぅん……」

 一度は下ろされた王妃の右手が、再び持ち上げられた。手入れされた指が、マローネの赤くなった頰にれ、ガリッと長いつめが立てられる。

「――――」

 おそってくる痛みを、マローネは奥歯を噛んでやり過ごす。悲鳴どころか、うめき声ひとつ上げないマローネにかわり、サフィニアがいつになく焦った声で叫んだ。

「おやめ下さい!」

「大げさね。本当にお前の騎士になりたいのかどうか、確かめてあげただけでしょう。 ――よくしつけられた犬だこと」

 鼻白んだ王妃は、マローネの頰から手を離すと、すっと距離をとった。 「時間ね。陛下をお待たせするわけにはいかないわ。わたくしはもう行きます。……サフィニア、せいぜいまんの飼い犬に手を噛まれないようにね」

 王妃が部屋を出て行くと、さっと横から伸びてきた手により、マローネはごういんに顔を上げられた。

「顔を見せなさい!」

「え? サフィニア様? ――っ」

 主のれいすぎる顔が、すぐ近くまでせまっていた。

 だが、喜んでもいられない。せんさいぼうは悲しみで曇っている。

「あれほど、大人しくしているように言ったのに!」

「主の危機を見過ごすなんて、わたしにはできません」

「どうして、そこまで」

「泣き虫だったわたしに、変わる切っ掛けをくれたのはあなたです。今度はわたしが、どんなものからもあなたを守るのです」

 それは、マローネにとってのほこりだ。胸を張って言えることなのに、サフィニアの顔はますます悲しげになっていく。

「……わざと王妃を怒らせました。そうすれば、あなたには関心を向けないと思って」

「そんな……! わたしが一歩でも遅れれば、サフィニア様が叩かれていたんですよ!?」

「いつものことです。どうとも思いません」

「なっ……!!」

 いつも、こんな暴力がまかり通っていたのか。誰も止めず知らないふりをして、こんな風にサフィニアが思うまで、放っておいたのか――マローネの頭に血が上る。

「思って下さい!」

 サフィニアは、マローネの顔の傷をとても心配してくれるのに、自分自身にはまるでとんちゃくしない。そのことが、とても悔しかった。

をすれば、サフィニア様のお顔に傷がついていたかもしれないのに……!」

「この顔など、どうでもいいと言っているのです」

「よくありません! もっとご自分を大切にして下さい!」

 自身をまつに扱うサフィニアに腹が立ち、マローネはつい声をあららげてしまう。

 すると、サフィニアは目を丸くして黙ってしまった。

「あ、あの、サフィニア様?」

「まさか、あなたに怒られる日が来るなんて、思いませんでした」

 ため息交じりに吐き出された声は、力の抜けたものだった。

「私はただ、《隠れ姫》の現実を知ってくれたらいいと……そして今度こそ私に見切りをつけてくれたらいいと思ったのに、まさか庇うなんて……」

 自分を伴ったのは、追い払うため。――サフィニアの真意を知り、受け入れてもらえたと思っていたマローネは、自分の甘さをのろった。《隠れ姫》と呼ばれる今のサフィニアにとって、誰かを受け入れることはなみたいていのことではないのだ。

 だが、それでもマローネには、どうしても伝えておきたいことがある。

「申し訳ございません !! サフィニア様のお気持ちに気付かず、出過ぎた真似を! ですがご安心下さい。わたしは騎士――あなたをお守りできる人間です」

 だから、自分だけでい込まず頼って欲しいと胸を張る。

「本当に……あなたって人は……。それで、こんな傷を負うなんて……」 「この程度、かすり傷です! めておけば治りますから、ご心配なく! あっ、でも自分で舐めるには舌の長さが足りませんね! わたしとしたことが、不覚です!」

 冗談めかして明るく言ったマローネに、サフィニアは、くしゃりと表情をくずした。泣き出す一歩手前のような顔に、マローネはドキリとする。

「ありがとうございます、マローネ。……私を守ってくれて」

 感謝の言葉にマローネが感激していると、じょじょにサフィニアの顔が近づいてきた。あまりに近い距離に固まったマローネの頰。ヒリつく傷を、サフィニアが突然舐めた。

「ひゃいっ!?」

「――っ!」

 驚きからせいを発したマローネだったが、サフィニアもまた自分のしたことに驚いている様子だった。

「ササササフィニア様! 一体、なにを……!?」

「え、私はただ、あなたが舐めれば治ると言うから、それならと、思って……」 

 ぼうぜんとしていたサフィニアの顔がどんどん赤くなっていき、いつも淀みなく話す彼女にしては珍しく、しりすぼみになっていった。

「ご、ご心配は嬉しいのですが、あの、他人の傷口を舐めるのは、あまり、よくないと思います、はい」

「他人になんて、しません。相手があなただから……っ……!」

 途中で、サフィニアは言葉を切って口元を押さえてしまう。

「わたし、ですか?」

 マローネがじっと見つめると、サフィニアは気まずそうに目をそらす。 「……いいえ、なんでもありません。――もう、戻りましょう」

 マローネは一瞬だけ漂ったおかしな空気をいっそうするかのように、はつらつと頷いた。

「かしこまりました! お帰りの際も、サフィニア様のことは、わたしが全身全霊をけてお守りいたします!」

 こうして、マローネはサフィニアと共に屋敷に戻った。


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