第二章⑥

 今朝方のこうすいの匂い。あれが気になって、マローネはヨハンにかいてきな視線を向けてしまう。だが、ヨハンはいつもと特に変わらない。ニコニコしており、サフィニアに呼ばれれば素早く部屋に駆けつける忠臣っぷりだ。

(う〜ん、いつも通りです。わたしのかんちがい?)

 段々、自分のきゅうかくに自信が持てなくなってきたマローネは、庭そうをしながら考える。

(そうですよね、ヨハン殿はサフィニア様の特別な方。サフィニア様を放って他の女性と過ごすなんて、そんな不誠実なことしませんよね?)

 きっと、気にするほどのことではないのだ。もしも本当に別の女性と恋仲になっていれば、ヨハンは腕輪の話題で、あんな顔はしなかっただろう。

(では、どこに行っていたんでしょうか)

 考えながら手を動かしていると、あっという間に掃除が終わってしまい、マローネはしゃくぜんとしない気持ちを抱えつつも屋敷の中へ戻った。

 すると、なぜか使用人一同が広間に集合しており、きんぱくした空気がただよっている。

「皆さん、どうしたんですか?」

「あ、マローネちゃん」

 ヨハンが気まずそうに指でほおをかく。

「なにかあったんですか?」

「実は、サフィニア様に」

「サフィニア様が、どうかなさったんですか!?」

 思わずマローネは大きな声を出してしまった。

「どうもしません」

 感情をおさえた声の方を向けば、サフィニアが広間に入ってくるところだった。

「皆も、いちいち慌てることではないでしょう。各自、持ち場に戻って下さい」

 手を叩くサフィニアにメアリたちはしぶしぶ動き出そうとするが、ヨハンが止めた。

「お言葉ですけどサフィニア様、王妃様のお呼び出しは騒ぐべきことですよ」

「……ヨハン。誰が今、この場でそれを口にすることを許しました」

 余計なことを言うなとサフィニアはヨハンをにらむが、彼は止まらない。

「お𠮟しかりは後でいくらでも受けます。だから、心配くらいさせて下さい」

「心配なんて、大げさな。あの方が私を呼び出すのは、よくあることでしょう」

「申しおくれましたが、王妃様は今回、サフィニア様と護衛騎士をお呼びなのです」

 ヨハンの固い声が、サフィニアの言葉をさえぎった。

 一瞬の間の後、サフィニアの緑の瞳がゆるゆると見開かれる。

「護衛騎士を? なぜ、王妃が無名の騎士に興味を示すのです」

「無名の新米でも、この屋敷に居座っている騎士です。王妃様の耳に入るのも時間の問題だったと、あなたも分かっているでしょう」

 ヨハンが、いらつサフィニアにさとすような言葉をかけた。

「分かりました。ですが――おちびさんは置いていきます」

「王妃様の不興を買いますよ!?」

「かまいません。別に今さらどう思われようと、同じでしょう」

 サフィニアの答えが予想外だったのか、ヨハンの顔にあせりが浮かんだ。

「王妃に逆らうなんて、ダメに決まってる! 今までえてきたのに!」

 マローネは、常にないふたりの様子に、慌てて口を開く。

「わたしは、サフィニア様が行かれる場所ならば、どこへなりともお供する所存ですが」

 ふたりの視線がいっせいにマローネに向けられた。

「ほら、マローネちゃんもこう言ってるじゃないですか!」

「あなたは黙っていなさい」

 えんを得られ少しだがゆうを取り戻したヨハンとは逆に、サフィニアはとがめるような視線とこわでマローネを制す。

「おちびさんは、正式な護衛騎士ではないので、連れて行く必要もありません」

「そんなくつで王妃様になっとくしてもらえると思ってるんですか? 向こうは常にあなたのあらを探しているんですよ?」

「今さらです。いい加減しつこいですよ、ヨハン」

 かたくななサフィニアの返答に、ヨハンは一瞬押し黙った。

 その表情が、悲しげなものに変わる。

「あなたこそ、どうして分かってくれないんです! オレは、これ以上サフィ様が軽んじられるなんて、まんならないのに……!」

 き出されたヨハンの言葉を聞くと、サフィニアは顔をこわばらせる。

 口をはさめず見守っていたマローネだが、その小さな変化はのがさなかった。

(サフィニア様が申し訳なさそうな顔を?)

 まるで心配されたことに、罪悪感を抱いているような表情だ。

 つうなら、恋人の心配は嬉しいものでは? と疑問に感じたマローネだが、サフィニアにいつまでもそんな顔をさせていたくはない。

(そもそもの原因は、王妃様のお呼び出しですよね? だとすれば、やはりここは、わたしが動かなくては!)

 主のうれいを晴らしてこそ騎士だと、マローネは決めた。

「サフィニア様!」

 沈黙を破るように声を上げると、びくりと、サフィニアの肩がはねる。 「わたしがお供します! あなたをお守りするために騎士になったのですから、今こそ、わたしをお使い下さい!」

「……――私は、ひとりで行きます」

 言い捨てて、サフィニアはぎゅっとくちびるむと、足早に広間から出て行く。

 マローネは、慌てて彼女の後を追いかけた。

「待って下さい、サフィニア様!」

「あなたの顔は見たくありません」

「でしたら、顔は伏せていますので!」

 慌ててサフィニアの目に入らないように下を向き走ると、なにかにぶつかった。

「……前が見えなくて危ないでしょう」

 声が頭上から降ってきて、マローネは青ざめる。

「も、申し訳ありません! ぶつかるつもりは、毛頭なく! あ、顔……!」

 謝ろうとすれば今度は、見たくないと言われた顔をさらしてしまう。どうしたらと上を向き下を向き慌てていると、サフィニアから心底呆れたような声をかけられた。

「……あなたは、本当にしつこい……」

 それでもぶつかったひょうにマローネが転ばないようにと気遣ってくれたのか、両肩にはサフィニアの手がえられている。

 この優しい人を、ひとりで不仲な王妃の下へ行かせたくない。嫌なことを言われるとわかっているのなら、なおのことだとマローネは息を吸った。

「サフィニア様に剣を捧げると決めた騎士ですから! 憂い顔をなさるような場所へ向かうのならば、不要と言われようと、しがみついてでもお供いたします!」

「……っ……」

 決意と共に顔を上げ肩に置かれた手をにぎると、サフィニアと視線が交わった。不意に、真意の見えない緑のそうぼうが伏せられる。

 なにかを諦めたようにも、開き直ったようにも見える、そんな仕草をマローネがただ見つめていると、やがて目を開いたサフィニアから告げられた。

「それで? あなたはいつまで私にしがみついているつもりなのですか? いくら私でも、騎士にしがみつかれたまま登城したなどという噂がするのは避けたいのですが」

 いつも冷たい表情を浮かべていたサフィニア。その引き結ばれていた唇が、ほんの少しだけほころんで、目元がやわらいだ。

(――笑った……)

 満面の笑みにはまだ遠いが、サフィニアは今、ちがいなく微笑んでくれたのだ。

 マローネは感動に打ちふるえながら、パッと素早く身を離した。

「それでは――」

 今の言葉が聞き間違いではないかかくにんするため、マローネがサフィニアの真意をうかがうと、彼女は真剣な表情でマローネを見下ろす。

「マローネ・ツェンラッド、このサフィニアの供を許します」

「ありがとうございます!」

 元気よくマローネが答えたところで、ヨハンがろうに顔をのぞかせた。

 ふたりの様子が険悪ではないのを確認し、安心したのか近づいてくる。 「話はまとまりました? って、マローネちゃんの顔を見れば、聞くまでもないか」

 満面の笑みを浮かべるマローネの姿から事の成り行きを察したヨハンは、ポンっとマローネの肩を叩く。

「サフィニア様を頼んだよ、マローネちゃん」

「はい! わたしがぜんしんぜんれいでお守りするので、ご心配なく!」

「……王妃様は、サフィニア様を嫌っているんだ。オレは立場上ついていけないから、王城でサフィニア様が頼れるのは君しかいない。だから……本当に頼む」

 真剣な顔をしたヨハンに頼まれたマローネは、先ほどのサフィニアとヨハンのやり取りを思い出す。

 サフィニアは、たいしたことではないように言っていたが、ヨハンがここまでマローネに頼み込んでくるのだ、実際は軽いお招きなどではないのだろう。

 そんな場所へ、ひとりで行こうとしていたサフィニアの本音はどうだったのだろう。

 やはり、不安やきょうがあったのではないか?

 全て自分の想像に過ぎないと思いながらも、マローネは心配だった。もしかしたら、思い合っているヨハンにすら、サフィニアは弱音を吐かないのかもしれない。だから、ヨハンはあれこれ気を回す――そうしないと、サフィニアはひとりで無理をしてしまうから。

 あながち間違った想像ではない気がしたマローネは、今は自分が支えると胸中で呟き、 サフィニアを見上げる。

 マローネの内心の決意など知るはずもないサフィニアは、いつもの冷たい表情に戻り、素っ気ない口調で「行きますよ」と言った。

「え? 迎えを待たないのですか?」

 戸惑ったのは、マローネだけだった。サフィニアはもちろん、ヨハンも動じていない。

「そんなもの、来ません」

「ええ!?」

「大きな声を出さない」

 サフィニアからしょうげきてき事実を告げられさけんだのも、もちろんマローネだけだ。注意されて慌てて口を閉じたが、どうにも納得できない。

 説明を求めてヨハンの方を見ると、彼は苦々しい表情で教えてくれた。 「呼んだのは向こうだけど、迎えはいつも来ないんだ。そういう扱いをしてもいいと思われてるんだよ」

 いいわけがない。サフィニアはストリアの王女だ。こんな扱いは許されるべきではない。ましてや、王妃がそっせんして行っているだなんて――。

「人々の手本になるべき方が、なんてことを! 許せません!」

 マローネのいかりはそのままヨハンの怒りだったようで、彼は「まったくだ」と大きく頷く。だが、サフィニアだけは違った。

「王族批判はそこまでです。……供を許したその日のうちに不敬罪で突き出すなんて、笑い話にもなりません」

 たしかに、いくら相手がじんでも、こわだかに言っていいことではなかったとマローネは項垂うなだれた。

「申し訳ありません、せんりょでした」

「気をつけて下さい。特に城内では、一切口を開かず、後ろで黙っていて下さいね。私では、あなたになにかあってもかばいきれません」  供の許しはもらえたが、黙っていろとは……。

 サフィニアに関することでは、どうしてもムキになってしまうと自覚したマローネは、注意せねばと己をいましめる。

「心得ました! 決してサフィニア様に、恥 はじ をかかせるような真似はいたしません!」

「言ったそばから、うるさいのですが?」

 声高に宣言したマローネだったが、サフィニアの冷たい視線で再び項垂れた。

「……声量に関しても、善処いたします」

「そうして下さい」

 また、少しだけサフィニアの口元がゆるむ。

 マローネの胸に、やるせない気持ちがこみ上げてきた。サフィニアは、王女という立場にありながら軽んじられている自分自身を、なんとも思っていないかのようにっている。それはつまり――。

(ずっと前から、これが当たり前だったんですね)

 王妃は、側室のむすめであるサフィニアをうとんじている。王が娘であるサフィニアに無関心という噂は聞いていたが、王妃がサフィニアをたびたび呼びつけていたとは知らなかった。

(どうして、わざわざ?)

 これから向かう場所は楽しい場所ではない。それでも、サフィニアの背筋はピンと伸びており、美しかった。

 城の一室で待たされること数十分、じょふたりをともないやってきた王妃は、はなやかなドレスを身にまとい、頭のてっぺんからつま先までかざっていた。

 反対に、サフィニアはいつも通り首元から足先までを隠す、ゆったりとしたドレスだ。落ち着いた色合いだが、若い娘が着るには地味すぎる――そんな誰かのしっしょうが聞こえた。王妃か、侍女のどちらなのかは分からないが……マローネは嫌な気分になる。

 だが、そんなものは序の口だった。呼び出した側であるはずの王妃が、なぜかとても迷惑そうな顔をしていたのだ。

「サフィニア、自由気ままにおとずれるお前と違い、わたくしにはやらねばならぬことがたくさんあるのよ。どうしても会いたいというのなら、せめて数日前に言ってくれないと」

 まるで、サフィニアが突然王妃に会いに来たような口ぶりに、マローネは戸惑った。

 ちらりと侍女たちを見れば、彼女たちの目は一様にサフィニアを非難している。

 サフィニアが呼び出されたはずなのに、話が食い違っていないか?

 ――マローネが疑問を顔に浮かべたところで、王妃は侍女ふたりに下がるよう命じた。

「サフィニアは、人に慣れていないの。こうして隠れるように、わたくしに会いに来た姿を見れば、分かるでしょう?」

 しぶる侍女たちを、王妃は諭すような口調でそう言ってわざわざ追い出したのだ。

 そして、室内には三人だけが残る。

「サフィニア、あの者たちの顔を見た? お前を見下していたわ。最低限の礼すらとらないんだもの。当然ね。ぼうなわたくしの予定を乱したと思えば、腹も立つでしょう」

 楽しそうに話す王妃に、サフィニアはたんたんと答えを返した。

「私は呼び出しに応じただけですので、お忙しいとは存じませんでした」 「お前は屋敷に隠れているだけですものね。わたくしがどれだけ多忙であるかなんて、想像できないでしょう。いい? わたくしはこの後、陛下と王子と共に、音楽かんしょう。そして、昼食をとる予定なの」

「そうですか」

「あら、言うことはそれだけなの? まだ四歳の王子が、王族として相応ふさわしく立ち振る舞っているというのに、我が身が恥ずかしくないの?」 

 サフィニアが答えないでうつむくと、王妃は笑みをくする。

「《隠れひめ》なんてめいな呼び名をつけられたお前より、サイネリアが生きていればよかったのに――そうすれば、今頃陛下のお力になれていたでしょうにね」

 取りつくろうことすらやめ、悪意まみれの言葉をぶつけてくる王妃。

「お前たちが似ているのは顔だけだもの。……顔だけは、ふたりとも、あのま忌ましいソニアにそっくりだったわ。でも……よりにもよって、役に立たない方が生き残るなんて、本当に運がないこと」

 五年前、事故のせいで家族を失い、その傷がいまえないサフィニアに対して、あんまりな物言いだ。マローネは思わずてのひらを握りしめた。

 

だが――。

「王妃様は、心にもないことを仰いますね」

 

サフィニアは、悪意に表情を曇らせることなく、れいしょうで応じた。

「お忘れになりました? 我が国の王位けいしょうけんは、母親がどんな身分であろうと、生まれた順だと」

「――――」

 王妃の顔から、たちまち笑みが消える。

「我が弟、サイネリアが生きていれば、あなたの王子は王位継承者になれなかった。私の父が王位についた時のような、不測の事態でも起きない限り」

「――言葉が過ぎてよ、サフィニア。人目を避けて隠れていると、心根も歪むのね。城を離れたらいいのではなくて? 遠いところで、りょうように専念したらいかがかしら? ぞくせいと関わりたくないのであれば、修道院に入ることもできるでしょう。《隠れ姫》に、華やかな場所は似合わないわ」

「ご案じ下さり、ありがとうございます。ですが、このように至らぬ身でも、ついてきてくれる者がおります」

 冷たい笑顔を浮かべ、サフィニアは続けた。

「特に、ヨハンなどは、けんしんてきに尽くしてくれますから」

 なぜ、ここでヨハンの名前が出るのだろう?

 不思議に思ったマローネは、咎められない程度に顔を上げてギョッとした。

 王妃がサフィニアに手を振り上げていたのだ。

(危ない!)

 そう思うと同時に、体が動いた。パシンとかわいた音がして、マローネの左頰にジワリと熱が広がる。

 王妃もサフィニアも、自分たちの間に飛び込んできた小柄な影を見て驚きに目を見開き、つか、室内は静まりかえった。

「……まあ」

 最初に口を開いたのは、王妃だった。

「主のたてになるなんて、忠義な騎士だこと」

 悪意まみれの言葉をとしてぶつけていたのがさっかくかと思うような品のある笑みを浮かべ、王妃がマローネを見ている。

 何事もなかったかのように下ろされた右手。

 その動きに合わせて、ふわりと、甘い匂いが香った。

(あれ? この匂い……)

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