第一章 私をお食べください③

 娘は、セゲーレ湖に突き出たみさきから、身を投げさせられたらしい。

(やはりいえにえか……こんなとしもいかぬ者に、身命をなげうつよういるとは。むごいことを……)

 ほっそりした身体は、あつかいに気をくと、すぐこわしてしまいそうだ。

 細心の注意を払って爪にとらえたあと、翼を広げて湖上に飛び上がれば、みなにはもんと呼ぶには大きすぎる波が立つ。きっと魚たちを驚かせたことだろう。

 そのままオルフェンは力強く羽ばたいて宙へとおどで、岬の上にとうちゃくすると、赤茶けた土に緑色のじゅうたんを広げるシロツメクサの群生に娘を横たえる。

 彼女はまだ目覚めない。


 おかに着くと、その儚げな様子、いたいけなとしかっこうがますますきわった。

 ぐっしょりれそぼった花嫁衣装が痛々しい。外れてしまった花冠やヴェールは水中にぼっしたままだが、これでよく地べたをみしめられるものだと感心するほど小さな足には、造花をあしらったかわのサンダルがかろうじてそうほうとも残っている。

 また、けのてんがんせきいつけた幅広のかざおびには、かわぶくろくくられていた。……聖女のれだろうか。

 せっかく救い上げた娘だが、起き抜けにきょりゅうの姿を見て、また気を失わないとも限らない。オルフェンはひとまず力を使ってずぶ濡れの衣を乾かしてやると、今度は意識を己の身に集中させる。

 やがて、黒い鱗の内側から黄金の光がにじみ出すと、――オルフェンの姿は、すっかりと変わっていた。

 よく日焼けしたかっしょくはだと、えりあしから少し先ほどまで伸ばしたくろかみを持つ、二十そこそこの青年の姿に。

 力のある竜神は、こうして竜形のほかに、ヒトの姿を持つことができる。

 くろぞめあさシャツとくろかわきゃく、簡素なりの装身具という、カメレア市街のいっぱんてきふくしょくに身を包めば、ちゃんと人間の男に見えるはずだった。

 ただし、ヒトの姿になったとて、人相も割と怖めなのが、オルフェン自身も気にしているところではある。なにせ昔、人間のまちにたわむれで出かけたら、何もしていないのに子どもに泣かれ、けいへいを呼ばれたことがあった。

 目つきが鋭く全体的にものめいたふんを持つことに加え、じょうじんにあらざるいろ、そのこうさいの中央に細く縦に走る瞳や、先のとがった耳などが、意図せずあつかんを助長するようである。

 それはさておき。

「おい、だいじょうか」

「……う。ごほっ……」

 改めて娘をこすと、彼女は小さくうめいて水を吐く。

 続けて数度けほけほとみ、それから。

 長いまつげをふるわせて、こちらを見た。

(ん? この娘……どこかで……?)

 そこでオルフェンははっとした。

 どこかで、ではない。

 ねんれいはかなり増しているが、しきさいといい顔かたちといい、まったくもって見覚えがあるではないか。


「……あの娘か・・・・?」


かんちがいでなければ、だが。

 彼が思わずつぶやいたとたん、娘はがばりと身を起こす。

 オルフェンは思わず、開きかけた口を閉じた。

「あっ……の!」

 自分の置かれた現状がいまだに理解できていないのか、そこから先が続かず、娘は口をぱくぱくさせている。さて、どう説明したものか。

「お前……生贄にされたのだろう。もう大丈夫だ」

 もろもろ思うところもあったが、何よりむやみに怖がらせたくはない。第一声に迷いつつ、オルフェンは相手を落ち着かせるのに最良と思おぼ しき言葉を選ぶ。

 これに対して、娘はしばしきょとんとしたあとに、まっすぐなしろがねの髪を揺らした。

「ひょっとして……あなたさまが助けてくださったのでしょうか。ありがとうございます」

 せいなしぐさでこうべをれ、娘は微笑ほほえんだ。

 陽光を帯びてにおい立つしらのようなれんさに、オルフェンは思わず声を失う。水の中で見かけた時に覚えた印象は、こうして明るい陸上でも、まったく変わりない。

(……まいったな)

 オルフェンは、この娘の正体に見当がついていた。

竜神の生贄にお定まりの、純白を基調とした花嫁衣装。それに、白銀の髪にスミレ色の瞳。おもざしにも、どことなく覚えがある。

 オルフェンがはじめて彼女に会った時は、まだほんの十かそこらの幼さだった。

(人間は本当に、成長が早い。あの子どもだとすると、大きくなったものだが……しかし、よく似た色を持つ人間の娘も神殿には多くいるだろうし、ひとちがいの可能性も……)

 もし、本当にこの娘が自分の知る〝彼女〞なら。

 かつて、一度だけあいまみえた自分を、覚えてくれているだろうか。

「おまえ――」

 ついオルフェンがんで問いかけようとした途端、娘はようしゃなく言い放った。

「ぶしつけながら、あなたさまはどういうおかたでしょうか。それから、火の竜神さまをお見かけされませんでしたか」

「は?」

 助け起こされた姿勢のまま、オルフェンのひざのあいだから逃げようともせず、娘はにこにこと笑った。

 そのがおもまた儚げで。春先、残り雪におびえながらおそるおそるほころぶ野花のようだ。

 しかし、ひと息で礼を言われたあとの、立て板に水な続きがせない。

(いや、俺は今人間の姿だし、見覚えがなくても問題ないんだが……。なぜに竜神を探す。生贄にされず助かったのだと言っていように)

 ここで自分が竜神だと伝えては、やはり怖がらせるかもしれない。

 しんちょうに対応せねば、……と、まどいつつも、オルフェンは言葉をぐ。

「あー……だから。お前は、竜神の生贄に捧げられた娘だろうが、もうそいつに喰われる心配はないと……」

「えっ困ります」

 しかし、オルフェンの言葉を遮り、同じ体勢のまま、娘は前のめりにせまってきた。なんというか、近い。

「私、こちらにお住まいの竜神さまに、どうしても食べていただかないと困るんです。ゆえに、竜神さまをお見かけされませんでしたか?」

「その質問に答える前に。……お前はカメレア神殿の聖女、だな?」

「はい。そのとおりです」

「それで、竜神の生贄に捧げられたと」

「そうです!」

 娘は元気よくうなずいた。

 いい子のお返事だ。そして満面のみである。

(おかしい)

 オルフェンは額を押さえた。

 さっきから、娘の外面の儚さと、言っている内容とのかんはんではない。こんな喰われてやる気満々な生贄がいてたまるか。

 けんに寄ったままのしわを指先でほぐしつつ、オルフェンはためらいがちに告げてやった。

「言いづらいが、その……お前が喰われる予定の、この地に住む竜神というのは、俺のことだ」

「エッ」

「俺の瞳を見てみるといい。人間とちがい、せた三日月の形をしているだろう」

「? あ、ほんとですね……ええっ!?」

 娘は大きく目を見開くと、オルフェンの顔をまじまじと見つめてくる。

「では、あなたさまは、竜神さまのしんでいらっしゃるのですね……! まあ! すごいですはじめて拝見しました……なんというか、思ったよりつうにヒトっぽいですね……?」

「……まあな」

 はしゃいだ様子の娘は、うすむらさきの大きな虹彩や、半開きになったさくらんぼ色のくちびるが愛らしく、――きんきょで見られるほうは、たいへん反応に困った。なおすぎるダダ漏れ感想は、この際、聞かなかったことにしたい。

 しかし、娘はそんなオルフェンのかっとうなどお構いなしである。

 それどころか、じゃっかんのけぞるこちらの胸に小さな両手を置き、顔全体をキラキラと輝かせて、さらに身を乗り出してきた。

「改めてごあいさつを。はじめてお目もじつかまつります、我らがカメレアのあるじたる竜神さま。私、カメレア大神殿の見習い笛姫の、名をルーチェ、守護聖女は聖ルリジナの、ルーチェ・ルリジナと申します。以後お見知りおきを」

「守護聖女? ……ああ、神殿に入った見習いたちがられる、過去にその地でせきを残した聖女の名だったか」

「はい。百年前に一度この地を離れられた竜神さまを、たえなるあしぶえの調べをもっもどされた笛姫、聖ルリジナからせいいただきました。どうぞ、ルーとお呼びください」

(なるほど。ルーチェ、という名だったか)

 久しく使っていない神殿知識をこすオルフェンの前で、ルーチェと名乗った娘は、じゃにはきはきと続けた。

「お助けいただき感謝ばかりです。おかげさまで、ふやけたらんできたいではなく、しんせんな状態でお肉をお届けに上がれました」

「い、言い方……!」

 ぎょっとのけぞるオルフェンにるように、娘は、自らの薄い胸をこぶしでどんとおうようたたいてみせた。

「それでは、いま一度お願い申し上げます。こうしてせっかく生贄になりに参りましたので。――どうぞ、えんりょなくこの身をお召し上がりくださいませ!」

「……はぁ?」

 いかにも悲劇の生贄じみた可憐な容姿にもかかわらず、まったくこれっぽっちもそぐわない元気いっぱいの物言いに、オルフェンのほうは不覚にも、「いや断る」とそく切り捨てていいものかいっしゅん迷ってしまった。



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