第一章 私をお食べください②

 一方。

 奥神殿の前で、ルーが「私を食べて! 物理的に」と必死に呼びかけていたころ。

 澄んだみどりの水をたたえる、深く広大なセゲーレ湖のみなそこで、大岩に身を寄せるように黒い身をとぐろに巻き、ひっそりとねむりについているものがいた。

 現在のカメレア神殿と、カメレアのまちを守護する竜神。


 ――名を、オルフェンという。

 

 たけは小山のようで、うろここんごうせきかたさとくろちょうがいこうたくを持つ。

 たくましい、長い首。

 折りたたまれた蝙蝠こうもりようつばさは、まるで薄くそがれたこくようせきのよう。くろがねのつめきばも、 山羊やぎのごとく巻いたそうかくも、それぞれがけんやりのようにおおきくするどかった。

 もっとも、持ち主が湖底にまどろむ今、それらはどうだにしない。

 が、頭部から背にかけて生えるしっこくのたてがみだけが、まるでぐさのように、水の揺らぎに合わせてゆらゆらとうごめいていた。

 竜神の中でも特に強大な力を持つオルフェンの姿は、力に見合ってかいおそろしい。

 これまで過ごした長い時の中で、出くわした人間はおろか、動物、をすると同族の 竜ですら、悲鳴を上げるか、気を失うか。しかしそんな外見におよそそぐわないほどおだやかなしょうぶんの彼は、いたずらに他者をこわがらせるのを好まなかった。


 ――〝あたまでっかちだなあ、オルフェンは。竜ってのは怖がられてこそだろ。きょうを喰えば、それもオレらの糧になるんだから〞

 

 ほぼゆいいつの旧友には、こんなふうにあきれられ、「くそまじめでおひとよしの馬鹿正直」と、さんびょうでよくされるが、今オルフェンが水中での眠りを好むのは、人目をけるためとはまた別の理由があった。

 ――ひどくしょうもうしているおのが身をいたわるためだ。

(今回はどのくらい眠ったか……。やれやれ、少しは回復してきたな)

 水の中で、牙のすきから細かなほうきながら、オルフェンはけいけいと光るザクロ色の瞳をせる。

(とはいえ、やはり眠りだけでは、つかれが取れん。まだまだ力が足りない……)

 さる事情により、神殿からの祈りも楽の音も受けられないままカメレアの加護を続けているオルフェンは、まさに今、ひと呼吸ごとにじょじょに身命をけずられつつあるのだった。

 竜神は、神と名のつく限り、基本的にヒトを守るもの。

 だが、そもそも竜というイキモノにとって、聖女の歌やそうがくはもとより、その血肉こそかんであり、おとろえた力を手っ取り早くおぎなってくれる最高のもつでもある。

 曲がりなりにも竜神として祀られているからには、神殿に求めれば、生贄のひとりやふたり捧げさせることができるだろう。

 けれど。

(それは、したくない)

 なぜなら彼には、とある人間の少女にまつわる、ひとつの思い出があるためだ。


 ――〝助けてくれてありがとうございます、竜神さま〞

 

 笑うとえくぼのできる愛らしい顔立ち。

 舌ったらずな幼い声で告げられた、純真無垢な感謝の言葉。

(まあ、覚えていないだろうな、言った本人は)

 おくに残しておいてほしいとまでは思わないが、せめて、彼女に恐怖のまなざしを向けられたくはない。そもそもせっしょうを好まないオルフェンだが、――そういうわけでこのほ どはさらに、人間に危害を加えることは、彼にとってはあるまじきことだった。

身体からだどろのように重い。もうひと眠りするべきか。こうしてずっと水の中にいれば、多少はましなはず……)

 大切な記憶と、複雑な気持ちを押し殺しつつ。ごぼ……、と追加で水の かたまりを吐き、再びオルフェンがまぶたを閉じた時だった。


「竜神さま!」


 はるか上、湖面よりもさらに高い位置から、――すずるような、高くんだ声に呼びかけられた気がした。

だれだ……?)

 オルフェンは目をすがめ、湖面を見上げた。

 その時だ。

 


――ドボンッ!

 


 水面をけたたましく割り、大量の気泡をまとって、何か小さなものが飛び込んできた。

 いな、そう小さくもない。

 ……たとえばちょうど、人間のような大きさの。

 さらに、気泡が晴れてその姿がすっかり現れれば、いよいよオルフェンはぎょろりとそのあかい目を見開いた。

「!?」

 人間のような、ではない。

 人間だ。

 それもまだ年若い。真っ白い花嫁衣装を着せつけられたがらな少女が、湖上のがけから落ちてきたのだ。

「……!」


考えられることはひとつ。

 

 ――自分に捧げられた、生贄だろう。

 ひとくうというものは、昔から決まって若いむすめばかり。それは、竜の喜ぶ楽の力が、聖女特有のものであるがゆえか。

 娘はゆっくりとしずんできた。どうやら、身体に重石おもしでもくくりつけられているらしい。

 湖面からんでくる陽光を吸い、しろがねの髪や真っ白な花嫁衣装が、ゆらゆら広がり、きらきらかがやく。竜神に生贄を捧げることをこんに見立て、捧げられる娘を美々しくかざらせるのは、古くよりあるあくしゅなならわしだ。

 おどろくほどにきゃしゃな手足は、暗い水中にあってもえるほどになめらかなミルク色で、髪や

衣装と合わせれば、まるで水中花のようにげんわくてきである。

(仕方がないな……)

 ここでは、ため息すらあわに変わる。

 オルフェンは、大きく長い首をめぐらせ、落ちてきた少女へとゆっくり向かっていく。

 ヒトはもろい。悲鳴を上げられれば、そのぶん娘の肺から空気が失われてしまう。あまりげきしないよう注意をはらいながら、オルフェンは娘の身体を湖面に持ち上げるべく、その 下に回り込んだ。

 

 ――が。



 きょたいのオルフェンが身じろぎするだけで、当然、動きは水に伝わる。

 己に向かって進んでくる何ものかの存在にさっそく気づいたらしい娘は、ぱっと顔を上げて、こちらを見た。

 たん、オルフェンは時がこおった気がした。


(……美しい)


 驚くほどに、はかなげな娘だった。

 長い銀のまつげに囲まれた瞳は、きとおるようなスミレ色。まるで、繊細なガラスざいの人形が、ほうで息をまれたようだ。

 思わず見入ってしまったとたん、その手から大きな石が放り出される。 (え)

 しばりつけられていたわけではなく。

 自分で重石をかかえていた――?

 オルフェンが疑問を覚えたしゅんかん、こちらを見て何かを言おうと開かれた娘の口から、ゴボッとせいだいに白い気泡がれる。

(! まずい)

 急激に気道が引きしぼられたのか、娘はのどを押さえてわずかにどうもくしたのち、ふっとまぶたを閉じ、だつりょくした。

 ――急がなければ。

 水中でしおれた花のようにたゆたい始める娘の身体を、鼻先で下からすくげ、オルフェンは湖面へと向かった。

 


*****

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