急に、憧れの乙女ゲームの世界に転生したのだという実感がいてくる。

 レティーツィアはリヒトの背中を見つめたまま、ブルリと身と震わせた。

(前世で、何度画面の向こうに行きたいと思ったか! 本当にそれがかなったんだ! ああ、今、私は推しと同じ空気を吸っているっ……!)

 こんな素晴らしいことがあるだろうか。

(ああ、もう……! 神さまって本当にいるんだな! 本当にありがとうございますっ!転生したのが『主人公』じゃないってところが、また『私』をよくわかってらっしゃると言わざるを得ない!)

 感激に胸を震わせていた、その時。タタッと足音もかろやかに、誰かがレティーツィアを追い抜いてゆく。

 視界に、チョコレート色の髪がおどる。レティーツィアはハッとして目を見開いた。

「リヒトさま!」

 はずんだ声を上げて、濃いブラウンの制服を着た女子生徒がリヒトに駆け寄ってゆく。

 あたりが驚愕にざわめいた。

(来た……!)

 一気に、身体からだきんちょう感が走る。

 マリナ・グレイフォード――ヒロインだ。

「リヒトさま。昨日はありがとうございました!」

 反射的に足を止めたリヒトの前に回り込んで、マリナがにっこりと笑う。

 上気した頬に桜色の唇。青空をバックに、春らしいピンクのリボンがヒラリと風に舞う。

 それは、ゲームのシナリオどおりの行動だった。けれど――。

「リヒト殿下を呼び止めた、だと……?」

「身分低い者から声をかけるだなんて……!」

れい知らずな……」

 信じられないと言わんばかりの声が、あちこちから聞こえる。

 レティーツィアもまた、その暴挙にぜんとして目を丸くした。

(ゲームをプレイしていた時は、ピンと来なかったけれど……)

 レティーツィアとして生きてきたからこそわかる。ヒロインの行動がどれだけ常識から外れているか。

 常識がないどころではない。『これだから庶民は』などとちょうしょうできるレベルでもない。正直、この場にいる同じ庶民たちですら、ドン引きしている。

「リヒトさま! よろしければ、学園も案内していただきたいんですけど……!」

「っ……!」

 マリナが人をきつける明るいがおで言う。

 ――覚えのある台詞せりふだった。まさに、シナリオどおりだ。

 しかし、それもまた、この世界の常識では考えられないことだった。

 誰かを案内するなど、高貴な者がすることではない。それをよりにもよって皇子にうなど、無礼どころの話ではない。

 そもそも一国の皇子に何かをねだるなど、それ相応の身分があったとしても、軽々しくしていいことではないのだ。

 そんなことは、子どもでも知っている。当たり前のことなのに。

(でも、わからないんだ……。マリナには……)

 前世の自分もわかっていなかった。二十一世紀の日本には、厳格な身分制度も、それにもとづいたしきたりもなかったから。

「…………」

 みなが一様に奇異きいなものを見る目をマリナに向け、ヒソヒソとささやき合う。

 この場にいる者の中で、あきらかにマリナだけが異質だった。

(それは、生きる世界が違う者が操作しているキャラクターだからなの……?)

 ゴクリと、息を呑む。

 二十一世紀の日本で生きた『私』の目には、ただ可愛らしく、微笑ましく映った行動が、この世界で生きている者にとっては、正気さえ疑うほどのこうとなるなんて。

 あらためて、世界が違うのだと実感する。

『私』の中の『つう』は、この世界のそれとは違う。

 つまり、プレイヤーの『当たり前』と、その世界で生きるキャラクターのそれは、全然違うということだ。

 レティーツィアとなって、はじめて見えてきたもの。プレイヤーだった時にはまったく見えなかった、気づかなかった、感じられなかったさまざまなもの。

 それらが、こんなにもヒロインの言動の――そして、彼女の印象を変えてしまうなんて。

(ああ、そうか……)

 だからゲームのレティーツィアは、あんなにも執拗しつようにマリナの振る舞いを批判したのだ。

 しっが少しもなかったわけではないだろう。だがそれ以上に、マリナのぼうじゃくじんぶりが許せなかった。リヒトの立場も考えず、その顔にどろりかねない行いをり返すことが、どうしても。

 リヒトが広い心でそれを許しても、レティーツィアは受け入れられなかった。

 リヒトはシュトラールがいただく次の王。

 侮られることも、軽んじられることも、決してあってはならない。

 だから激しく叱責した。繰り返し否定した。それでもまったく態度を改めないマリナを、リヒトから引きはなすべく画策した。すべては、リヒトのためにだ。

「……ッ……」

 じくりと胸が痛む。虐めではなかった。決して、不当な意地悪ではなかった。

 それなのに――。

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