第49話 体育祭への特訓

 ある日の帰り道、香月さんは珍しく「はぁ」とため息を漏らした。


「どうしたの?」

「九月末に体育祭があるじゃないですか。それを思うと憂鬱で……」


 香月さんは憂いを帯びた顔で呟く。


「そんなに気負いすることないって」

「だって私、すごく足が遅いんですよ? リレーで皆さんに迷惑をかけてしまいそうで」

「クラス対抗リレーに気合い入れてる人なんていないから。勝っても負けても楽しめばいいよ」


 いつもならすぐに「そうですよね」と切り換える香月さんだが、リレーに関してはトラウマなのか表情が冴えないままだった。


「昔なにか嫌なことがあったの?」

「え? なんで分かるんですか?」

「なんとなくね。俺でよかったら話してみて」

「ありがとうございます。実は小学生の頃、クラス対抗リレーで転んでしまいまして……結構みんなから白い目で見られてしまったんです」

「なるほどな。小学生とか妙に熱くなるもんな、ああいうの」

「中学生の時は運良くリレーからは逃れられたんですが」

「あー、うちの学校、リレーは絶対参加だもんな」


 責任感の強い香月さんはまたみんなの足を引っ張るのではないかと危惧しているようだ。

 高校生にもなってそんなことで怒る人もいないだろうが、香月さんにとってはそう言う問題じゃないんだろう。


「じゃあ沖田さんに走るコツとか聞いてみたら?」

「はい。既に聞いていくつか教えてもらいました。でもちゃんと実践できるか不安で。部活で忙しいところ、練習に付き合ってもらうのも悪いですし」

「だったら俺と練習しよう」

「え? 相楽くんとですか?」

「嫌?」

「嫌なわけないです! でも、いいんですか? 私、かなり遅いですよ?」


 香月さんは申し訳なさそうに眉尻を下げる。


「俺に迷惑かけるとか心配しなくていい。彼氏なんだから」

「はい! ありがとうございます!」

「じゃあ早速今日から開始するか」

「お願いします。あ、それから……」


 香月さんは急にもじっと俯く。


「なに?」

「れ、練習後はマッサージとか、してくださるのかなーって……最近してもらってませんし」

「おー、そうだね。運動後にはした方がいいかも」

「うれしい……ありがとうございます」


 体育祭まであと三週間。

 新たなる目標を見つけ、気合いも入った。




 ネイビーにピンクのストライプのジャージを着た香月さんを見るのは久し振りだ。

 出会った頃、リハビリで一緒にウォーキングしていた時のことを思い出す。


「それではお願いします!」

「そう固くならないで。リラックス」


 香月さんはスタートの姿勢でガチガチに固まっていた。


「姿勢を正して真っ直ぐに立つこと、大きく腕を振ること、膝をしっかり上げること。この三点が秘訣だって沖田さんに教わったんだろ? ひとまずそれを意識して走ってみて」

「はいっ!」


 長い髪を一つに結った姿も相まってやけに凛々しい。


「いくよ。よーい、どん!」


 香月さんは背中に物差しを入れられたように背筋をピンッと伸ばし、無理やり腕を振る。

 しかし足と手が左右同時で一昔前のSF映画のアンドロイドみたいだ。


「ストップ!」

「は、はい!」

「手と足が一緒だ。それに膝が上がってない」

「すいません」

「無理に言われた通りにしようとするから変な動きになるのかもしれない。もっと自然に、リラックスして」


 仕切り直してもう一度スタートするが、やはり動きはカクカクだ。


「うーん……まだまだ固いな。普通に走らないと」

「そう言われましても、アドバイス通りやろうとすると、どうしても意識してしまいます」


 香月さんの言い分も分かる。

 呼吸や徒歩でさえやろうと意識すると急に難しく感じるものだ。


「とりあえず走らないでその場で姿勢を整えて腕を振る練習からかな」

「バカにしないでください。それくらい出来ます!」


 香月さんは姿勢を正し、大きく腕を振る。


「そうそう。じゃあ次はその場で足踏み。膝を上げてね」

「こ、こうですか?」


 足の動きをつけると急にぎこちなくなる。


「腕と脚は左右別々に」

「はい」

「よし、いい感じ。それで歩いてみて」

「はい……きゃあっ!」


 二、三歩歩くとすぐに脚が縺れて転びそうになる。


「わ、危ない」


 慌てて抱き止めると、ぷにっと柔らかな感触に触れてしまう。


「わ、ごめん」

「い、いえ……」


 香月さんは照れながらスッと俺から離れる。


「まずは腕を振りながらゆっくり歩いてみよう。俺も一緒に歩くよ」

「すいません」

「気楽に散歩する感じでいいからね」


 腕を振って歩くだけならさすがに脚が縺れたりはしないようだ。


「すいません。失望しましたよね?」

「まさか。そんなわけないだろ」

「嘘です。こんなにトロいなんてって呆れてるはずです」

「そんなこと思わないよ」


 脚を止めずに香月さんの方へと振り返る。


「苦手なことは誰にでもある。でも香月さんはそれから逃げず努力してるんだ。尊敬するくらいだよ」

「私は根本的に運動に向いてないのでしょうか?」

「向いてないってことはない。おそらく身体が固すぎるんじゃないかなって思う」

「それは確かにあるかもしれません」


 柔軟性はどんなスポーツにも大切だ。

 身体をあまり動かさない香月さんはそれが弱いのかもしれない。


「ストレッチしてみようか?」

「ス、ストレッチですか? ここで?」

「そうだよ。背中とか押してあげるし」

「それって……マッサージみたいなものでしょうか?」

「マッサージとはだいぶ違うよ。ちょっと痛いかもしれないけど」

「やります!」


 食い気味で元気良く答える。

 相変わらず努力家で頭が下がる思いだ。





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