第40話 決戦前夜

 明日はいよいよ香月さんの模試がある日だ。

 あの日以来一度も会っていないはおろか、勉強の邪魔になってはいけないと思ってメッセージも控え目にしている。

 テストが終わるまでくらい平気だと思っていたが、かなり寂しくなっていた。

 思っている以上に俺の中で香月さんの存在は大きくなっていたようだ。


 寂しさを紛らせるためにこれまで撮った写真を眺めていた。

 お祭りに行ったときの浴衣姿、怖々と花火をする腰の引けた格好、俺の地元にきてくれたときの少し緊張してる顔、テーマパークではしゃぐ笑顔。


「いよいよ明日か。頑張れよ、香月さん」


 気が付けばわずかな時間でこんなにたくさんの思い出が増えている。

 でもそれは香月さんの時間に俺が介入してしまっているという証左でもある。

 もし学力が思うように伸びていなかったら、やはり少し会う機会を減らすべきなのだろうか?


 少し感傷的に写真をフリックしていると、スマホが電話の着信を告げた。

 香月さんからだ。

 ちょうど彼女のことを考えていたから、ドキッと心臓が震えた。


「はい」

「夜にすいません。香月です」

「全然大丈夫だよ。どうしたの?」

「なんか声が聞きたくなりまして」

「へぇ。奇遇だね。俺もだよ」

「本当ですか? 一緒ですね。嬉しいな」


 言葉とは裏腹に香月さんの声は沈み気味だ。


「緊張してる?」

「はは……やっぱり分かっちゃいますか?」

「落ち着いてやれば大丈夫。それに岩見に負けたからってどうってことないよ。気負いせずに実力を出せばいい」

「そうですよね。ありがとうございます。元気が出ました」


 どう聞いても元気など出ていない声だ。


「そうだ。今から会おうよ」

「今からですか?」

「まだ夜の八時だよ。そんなに遅くない。それとも家を出れない感じ?」

「それは大丈夫ですけど」

「じゃあ行くよ」


 返事を待たずに電話を切って部屋を出た。

 自分でも驚くくらい気分が高揚していた。

 自転車を漕ぐ脚にも力が漲る。

 昼間の熱の残り香を感じる夜風が心地いい。

 香月さんの家の前に到着すると、薄手の上着を羽織った香月さんが立っていた。

 その姿を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。


「ごめんね、急に。どうしても会いたくて」

「ううん。私も本当は会いたくて電話をしました」

「少し歩こうか?」

「はい。夜のお散歩ですね」


 自転車を停めて二人で近くを歩く。

 それほど長く会ってない訳じゃないのに、なんだかとても久し振りに会えた気がしていた。


「勉強は順調だった?」

「お陰さまで。でも家に閉じ籠りっきりで勉強するっていうのはやはり性に合わないのかもしれません。結構気が散ることも多くて」

「じゃあテストが終わったら息抜き担当の俺が頑張らないといけないな」

「はい。お願いします!」


 香月さんは髪をたゆんと揺らして頷く。

 幸せそうな笑顔を見て俺も心が安らぐ。

 勉強の邪魔になるなら身を引こうなどと思っていたことがバカらしくなる。


 邪魔にならないよう、俺が努力すればいいんだ。

 相手のためだといって自分の気持ちに嘘をつくなんてもっとも愚かしい。


「あのさ、香月さん」

「はい」

「模擬試験が終わったら、言いたいことがあるんだ」

「え? なんですか?」


 香月さんは俺の気持ちにまったく気付いていないのか、不思議そうに首を傾げる。


「終わってから言うよ」

「えー? 気になるじゃないですか」

「今は内緒」

「そうですか。分かりました。じゃあそれも『未来の楽しみ』として明日の試験頑張りますね」


 楽しみと言っていいのかはわからない。

 単に彼女を惑わせて苦しめてしまうかもしれない。


「応援してるよ。さっきも言ったけど勝ち負けとかじゃなくて、実力をぶつけるという気持ちで挑んでね」

「はい。ありがとうございます」


 少し手を伸ばせば手を繋げる距離だけど、その後わずか数センチが今は果てしなく遠い。


「そ、そういえば相楽くん」

「なに?」

「テ、テストが終わったらマッサージして欲しいです。か、肩も腰も凝っちゃいまして」

「お安いご用だよ」


 冷房が効いた部屋で何時間も座りっぱなしだと確かに凝るものだ。


「肩や腰は自分でマッサージ出来ないもんね。ふくらはぎや太ももは自分でしてるの?」

「えっ!? あ、あの、それは……してます。た、たまにですよ! たまにするだけです!」

「そ、そう……」


 なんでそんなに『たまに』を強調するのだろう。

 時おり香月さんは不思議だ。


「でも全然うまく出来なくて。相楽くんにしてもらうみたいにはならないんです」

「コツがあるからね。今度詳しく教えるよ」

「いいです。してもらう方が、いいんで」

「そう?」


 ゆっくり歩いてまた家の近くに戻ってくる。


「そうだ。相良くん、緊張をほぐすツボ、圧してもらえませんか?」

「いいよ」

「明日試験前に試してみるんで、もう一回教えてもらいたいんです」


 香月さんの手を取り、指圧した。

 よく考えれば手を繋ぐことは出来ないくせにツボを圧すためならなんの躊躇いもなく手を握れる。

 我ながらちょっと不思議だ。


「あっ……いい感じです」

「痛くない?」

「痛いくらいが好きみたいです……」

「そっか」


 脳を使いすぎて疲れてるからかもしれない。

 刺激が心地いいのだろう。


「はぁっ……ンン……」


 香月さんはほふっと塊のような息を吐く。

 今は緊張していないのだろうけど、更にリラックスしているのが見て取れた。


「そこ、コリコリしてください」

「こう?」

「あうっ! そ、そぉです。そこ、そこです」


 顎にシワを作るほど力が籠っていた。

 ここでやめると機嫌が悪くなるのはこれまでで学習済みだ。

 少し力を抑えながらクニュクニュと柔らかな手のひらを圧し続けた。


「や、あぁ、バカになるかも……」

「えっ!? それはまずいんじゃ!?」

「や、やめないで。いいですから……忘れちゃった単語はまた勉強しますから、そのまま……」

「そ、そう?」


 まあマッサージして英単語や方程式を忘れるなんてないだろうから構わず続けた。


「ぴゃうぅっ……さ、さがらくん……」

「はい?」


 香月さんは潤んだ瞳で俺を見詰める。


「わ、わたし、しあわせです……」

「そ、それはよかった……」


 香月さんは唇を噛み、眉を歪ませながら笑う。

 なんだか照れくさくて、つい力を籠めすぎてコリュっと強く指圧してしまった。


「んゅっ!? そ、そんなに強くされたらっ……ふぁああ!」


 香月さんは顎を反らし、脚を内股にしてガクガクっと震えた。


「ごめん! 痛かったよね?」

「い、いえ……お気になさらじゅ……」


 倒れそうな香月さんを支えると、ふへっとした笑顔を向けられる。

 なんだかこんな様子で明日の試験は大丈夫なのだろうかと少し心配になる。


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