第35話 香月さんのライバル
しばらく放心状態だった香月さんがひと息ついてから宿題をすることとなった。
膨大にあった夏休みの宿題もかなり減ってきている。
そのことがうれしい反面、寂しさもある。
宿題が減ってきたということは、夏休みもかなり減ってきたことを意味するからだ。
もちろん夏休みが終わっても香月さんとはクラスメイトなのだから毎日会える。
とはいえ自由な時間は減るし、テストがあるから夏休みのように自由には出来ない。
陽祐と夏休み中に告白しようというタイムリミットも迫っていた。
もちろんそんなことはいくらでも変えられる。
やっぱり無理だった。
二学期中には告白する。
一年の終わりまでには。
高校卒業するまでには付き合う。
いくらでも先延ばし出来る。
でもそうしてずるずる先送りして未来の自分に責任を丸投げしていたのでは進歩がない。
やはりこの夏休み中に告白をするのが大切に思えてきた。
「どうしたんですか?」
「へ?」
「さっきからボーッとして手が止まってますよ?」
「あ、いや。うん。なんでもない」
「具合でも悪いんでしょうか?」
「そんなことないよ」
香月さんは不安げに俺の顔を覗き込み、手のひらを額に当てて熱を確かめてくる。
「熱はないみたいですね」
改めて見ても綺麗な顔立ちだ。
濁りのない瞳で見詰められると照れくさくて目をそらしてしまう。
こうして俺の部屋にやって来てくれること自体が奇跡だ。
もし告白してフラれたらこんなこともなくなってしまうのかと思うと、臆病になってしまう。
幼馴染みに告白できないという陽祐を笑える立場じゃない。
奴の気持ちもよく理解できる。
宿題後にゲームをし、夕飯前に二人で近所を散歩した。
昨日のテーマパークは楽しかったが、こうして何気ない一日の過ごし方も違った楽しさがある。
というか、ようは香月さんと一緒ならば何をしてても特別なことのように感じられる。
「夏もそろそろ終わりだね」
「そうですね。まだまだ暑いですけど、夕方に吹く風は物悲しさを孕んだ爽やかさがあります」
「表現が詩的だね。でもなんか分かるかも」
夏の終わりの風は独特の気持ちにさせられるものだ。
話が聞こえていたかのように吹いてきた風はまだ生ぬるく、秋の気配は感じられなかった。
香月さんは背伸びをしてその風を浴びていた。
「この夏休みは相楽くんのおかげで特別なものになりました。ありがとうございます」
「まだ終わってないだろ。これからま楽しいことがあるかもよ」
「そうですね!」
「それに夏休みが終わってもまだまだ楽しいことはある。ずっと続いていくと思う」
しばらく見詰めあった後、香月さんは恥ずかしそうに視線を外した。
なぜか今しかないと思った。
このタイミングで告白しよう。
「あのさ、香──」
「あら? 香月さん?」
僕の言葉を掻き消す声が重なった。
振り返ると見たことのない女性が立っていた。
夏休みだと言うのに制服を着ている。
あれは確かこの地域で最も偏差値の高い私立の超進学校の制服だ。
「あ、
岩見と呼ばれた彼女は、眼鏡の奥の瞳を鋭くして香月さんと僕を交互に見た。
「ほんと、お久し振りね。卒業以来かしら」
「はい。お元気ですか?」
その質問には答えず、岩見さんはフンッと鼻を鳴らした。
髪が長めの男子みたいなヘアスタイルもあいまって、なんだか威圧感を感じる。
「夏休みだからといってのほほんと男子と遊んでいる香月さんほど元気ではないけど、それなりに元気よ」
刺のある言葉をぶつけられ、香月さんは困ったような苦笑いを浮かべる。
このやりとりだけでなんとなく彼女たちの関係性を理解することが出来た。
「そうですか。元気そうでなによりです」
「その返し。相変わらず変わらないね。そういうとこ、すごく嫌いだった」
「ごめんなさい」
「謝るなよ。謝る必要ないだろ、香月さん。岩見って言ったっけ? いきなりなんなの? 失礼だろ?」
イラついて口を挟んだが、岩見は臆した様子もなく鼻で笑う。
「美人は得だね。いつでも男子が味方してくれて」
「見た目の問題じゃないから。人としてヤバイだろ、お前」
岩見は俺を無視して香月さんを小馬鹿にするような目で見る。
「受験から逃げて程度の低い高校に行って、今は男にちやほやされて。いいご身分ね」
「おい。今の言葉取り消せよ」
「いいの、相楽くん。やめて」
香月さんはプレッシャーに押し潰されかけて、志望校を変えざるを得なかった。
それを逃げたなどと罵るなんて許せなかった。
「私には勉強しか、なかった。それなのにいつもあなたに負けっぱなし。悔しかった。いつか勝ってやるって思ってきた」
吐き捨てるように言って、そしてとても嫌な笑いかたをした。
「でもそんなこと考えるだけ無駄だったみたいね。堕落したあなたを見て目が覚めたわ。もはやあなたは私の敵ではなかったのね」
「堕落なんてしてない」
大人しく話を聞いて頭を下げていた香月さんが突如声を振るわせて顔を上げる。
「私は相楽くんと歩いていただけ。堕落なんてしてないよ?」
俺の眼力ではまるで怯まなかった岩見だが、香月さんに睨まれてはじめて表情に動揺が現れた。
「私は朝から晩まで予備校に行ってたの。それも夏休み始まってから毎日ね。あなたみたいに遊んでる暇はないの」
「確かに私は相楽くんと楽しい夏休みを過ごしてます。でも堕落はしてない」
「堕ちていく人は自覚がないものなのよ。そして気が付いたときにはもう二度と這い上がれない」
岩見は顔を赤くして言葉を荒らげる。
でも香月さんは俯くことなくまっすぐ岩見と対峙していた。
凝り固まった岩見の思考を腐してやりたいが、俺が余計な口出しをする場面ではなさそうだった。
「分かった。私が相楽くんと遊ぶことで堕落したのか、確認して見てください」
「どうやって?」
「夏休みの全国模試でどうですか?」
「へぇ。いいわよ」
「その代わり私が岩見さんより高い点を取ったら謝ってください」
「いいわよ。いくらでもあなたに頭を下げてあげる」
「私じゃありません。相楽くんに謝ってください」
見たことないくらい鬼気迫る表情で岩見を睨んだ。
その表情は俺でさえ、ちょっとビビった。
「意味分かんない。まあ負けるはずないからいいけど。じゃあ私が勝ったら堕落してたことを認めて謝ってね」
「分かりました」
「今度は逃げないでよ。じゃあ」
言いたいだけ言って、岩見の方が逃げるように去っていった。
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