第12話
思えば、シエルと旅を続けて長い時間が経った。シエルが外の世界からやってきて、旅を始め、知らない世界を体験し、これまでが如何に井の中の蛙だったかを思い知らされた。
恥ずかしながら、未だ体の関係はない。しかし心では繋がっていると信じていた。
これまで何の目的もない交尾ならいくらでもしてきたが、今の手も出せない自分を見たら、昔の自分に大いに笑われることだろう。
だがそれで構わない。シエルを見てるだけで、これまでも、これからも、俺は満たされるのだから。
寝ているときに尋ねられたことがある。
「私の事、食べたくならないの?欲しくならないの?」
その問いに、どう返せばいいかわからなかった。
「クロならいつだってあげてもいいんだからね」と震えながら言うシエルを、俺は抱き締めることしかできなかった。我ながら情けない。
外の世界で――いや、それならこの世界でだってシエルと暮らすことは可能だ。もし何処か安全な土地を見つけたら、そこで慎ましく暮らすのも悪くはないだろう。
無意識に外の世界に出ることを拒絶していたのか、そんな考えに囚われるようになっていたある日、俺達の世界は終わりを告げる。
次の街に向かっている道中、共に行動していたキャラバンの頭上に大きな影が落ちてきた。
(あれはドラゴンだ!)巨大な体躯に、無数の手足。天高くそびえる壁に住まう怪物を、人はドラゴンと呼ぶ。
普段は大人しくしているものの、縄張りを荒らすものや、腹を空かしたときに、その長い体をしならせ恐ろしいスピードで獲物に襲いかかる伝説の化け物。
今まさにそのドラゴンが襲いかかってきている。(どうやって奴を凌ぐか、いやシエルを抱えて戦うのは無理だ)
キャラバンの連中はなすすべもなく食い散らされていく。
「シエル!ここは俺が食い止めるから生き残ってる連中と一緒に逃げろっ!」
「嫌だよ!クロも一緒に逃げよう!あんなの勝てっこないよ!」
勝てる訳ない。撤退すべきだと本能は訴え続けている。だが、それは誰かを囮にすることで成り立つ作戦だ。それに逃げたところで追い付かれるのがオチだろう。
「嫌だよ!クロも一緒に逃げよう!あんなのに勝てっこないよ!」
「無理だ。まさかあんな化け物だとは思わなかった。悪いが外の世界には一人で行ってもらう」
シエルはその眼に涙を溜め、その場を去っていった。
(そうだ。これで良かったんだ)
自分で言いながらも、半身が引き裂かれるほどに苦しい。それでも億が一の可能性に賭けて、シエルを逃がすしか方法はなかった。
ドラゴンは刃を構える俺に目標を定めたらしく、キチキチと牙をならし飛びかかってきた。
俺の命が消えるまでの一瞬。これまでの人生が一瞬にして甦る。
生まれたこの街に絶望し、
周囲の人間に絶望した日、
愛する兄弟を救えず、
愛する兄弟をこの手で殺め、
己は無力だと嘆き、
それでも変わらず、
外の世界に拘り、
行き倒れのシエルを救い、
初めて名前を呼んでもらい、
外の世界に供に行こうと約束し、
一人の虚しさを知り、
シエルを守って、強敵に立ち向かい、
シエルの弱さをを知り、
数多の冒険を乗り越え、
共に歩む道を知り、
何時までも一緒にいたい思い、
これが恋だと自覚した。
――夢は叶わなかったが、大切な人を守れるのなら、これほど嬉しいことはない。死の間際で安らかな気持ちになれた。この気持ちが探していた物だったんだな。
(―――っ!)
ドラゴンの牙が目前に迫り、死がすぐそこまで迎えに来たとき、突然何者かに背中を押された。
振り替えると、そこには逃がした筈のシエルが立っているではないか。何故ここにいるんだという思いとは裏腹に、とっさのことで声が出なかった。
俺という餌に目掛けて突進してきたドラゴンは、スピードを殺すことなく、まっすぐに突っ込んでくる。
――幻聴だったのかもしれない。こちらを振り向くシエルの言葉が聴こえた気がした。
「絶対外の世界に行ってね」
ドラゴンはその大顎で彼女に食らい付く。俺は理性が吹き飛び、敵いもしない相手に飛び掛かってひたすら刃を刺し続けた。幾度も幾度も、世界が真っ赤に染まるまで。
正気を取り戻すと、そこには息絶えたドラゴンと、辛うじて息をしているシエルが横たわっていた。
「シエル大丈夫かっ!」
心臓が張り裂けそうなほど取り乱し、シエルの手を取る。命が消えていくのが、体温が消えていくことで嫌でもわかってしまう。
「……クロ……私……もうダメみたい……」
「大丈夫だっ!俺が街まで運んでやるから!」シエルを背負って必死に走るものの、わかっていた。どうあがいても、体の半分も無くせば生きてなどいられないことを。それでも事実を受け入れられずに、必死に走った。
「……私……クロがずっと我慢してたの……知ってたよ……私の事……餌としてじゃなく、女として見てくれたの……嬉しかった……」
背中で途切れ途切れに声を振り絞る。その度に命の灯火が消えていくにも関わらず。
「ああ。シエルが大好きだ!だから一人残さないでくれ……」
「最後に……一つお願いしていい?」
「……最後なんて言わないでくれ。俺が助けるから!」
「私の事……食べて」
「何言ってんだ!そんなこと出来るわけないだろ!」
「とっくにね……思い出したの……私は空を自由に飛べる存在だったんだって。あの胡散臭い男に聞いたんでしょ?あれは……本当だよ。一人で外に羽ばたいて行けたの。でもね……クロとずっと一緒にいたかった……ずっと旅を続けたかった。羽なんか使わずに……二人で……」
俺はその告白に驚き固まった。あの胡散臭い男の言った通りだったのだ。その羽は空を飛ぶ為の物だったのか。
「……貴方に捕食される側の存在だってこともわかっていた……クロは気づいてなかったけど、その好意は……食欲と一緒なの……」
それに否定できない自分が愚かで、情けなかった。旅の間、何度もシエルを食べたいと思ったが、愛だと勘違いしてたそれは、性欲と食欲がない交ぜになった醜い俺の姿に過ぎなかった。
「それでもいい………私はクロが大好きだよ。だから私の願いを叶えて」
シエルはそう言い終えると、何も思い残すことはないといった表情で、二人で目指す筈だった楽園に、一人旅立っていった。
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