第九章 鶏と英雄

 ――最近、あの「聖地」とやらでの出来事を、よく夢に見る

 ジン=アドルフは、以前の活気をすっかりなくしてしまったバザールを、ぼうっと見つめていた。

 ここ数週間、ジンには何の仕事も与えられておらず、それに対してジンのほうもようやく「おかしい」と思い始めた頃には「聖戦が苛烈を極めてきている」という噂があちこちできこえてくるようになっていた。

 することもなく町に下りてくるばかりの英雄の従騎士に優しい民もいれば、奇異の目を向ける民もいる。

 バザールの商人たちも例外ではなく「あれが英雄の、役に立たない従騎士」や「アドルフの暇なお坊ちゃん」だなどと、彼らの話のたねになっている様子であった。

「貴方にだってなにかしらあるのでしょう。周りの戯言ざれごとなんてものは、気にしないほうが良いですよ」

 商人のひとりにそう言われ、その店先に突っ立っていたジンは「俺にはなにもないよ」と呟いたのだった。

「祈師様と陛下、どちらにつく?」

「決まっているだろう。神の意志に背くなんて」

 町中をただ歩くようになって初めて、ジンはトランが以前言っていたように、民衆が教会につこうとしているのを知った。

 王国派の民と、教会派の民が口論したり、そこから発展して取っ組み合いをしていたりするのも、街中でよくみられる。新聞記事で「虐殺」という言葉がおどれば、それもほとんど民衆のなかでも派閥が割れていることが原因であるようだった。

「号外、号外」と叫ぶ記者から新聞を受け取って眺めてみても、聖戦にかかわる内容しかなく、そのほとんども「王国軍が劣勢である」「教会に踏み入ろうとしても、祈師の神通力で叶わない」といった文字ばかりである。

 ふらりと騎士団に訪れたジンは、常と違い人気のない鍛練場に息をついた。

 友人のサーシャ=ロイジも戦地に赴いているのだと本人の手紙で知ったし、飛竜=阿國のほうは手紙こそなくても、緑旗の新米騎士として励んでいると噂にきいたのに、ジンのほうは戦地に向かうこともなく、ただ聖戦を遠巻きに見ているのだ。

「これでは、ただの放蕩息子だった十四歳の頃とまったく変わらない」とジンは思う。しかし、いくらジンがそう思いを巡らせていても、ヘールにジンを出兵させる意志は全くもってないようであった。

 サーシャは手紙でジンを「籠の中の鳥」だというが、ジンは自分のことを「家畜かなにかだ」と思っている。

 ――いつか食べられるだけだと知っていても、なお、この場所から逃げ出すことができない……

 鍛練場の土を踏みつけ、あたりを見回す。人の気配がない鍛練場は、聖戦中であることをありありと示しているようで、ジンには面白くなかった。

 騎士になったというのに、騎士として働くことができないことを不満に思うのと同時に、いまの現状に不安を覚えてしまう。主人のヘールはなにも言わないし、態度が変わったということもないのだが、ジンには「ヘールがすべてを知っているのではないか」としか思えなかったのだ。

「……でも、どうしたらいいのかわからないんだ」

 呟き、ジンは剣を持たなくなって久しい自身の手を見る。自分がどうすれば正解なのかも、一体どうしたいのかも、ジンにはまったくわからない。

 ジンが天秤にかけるものは、どちらもジンにとってとても大事なもので、どちらもどうしても手放したくないものであった。

 ジンにとって祈師は、自分を墜落させていくものだとわかっていても、あの少女が胸に飛び込んでくると、ジンは言いようもなく胸が高鳴るのだ。ジンは「女神」としての彼女ではなく、ただの「少女」としての彼女に、焦がれる普通の少年に戻ることができるのであった。

 対して、ヘールを追いかけ続けることは、ジンにとってどうしようもなく自分の現実を突きつけられる。なにもできず、いつも間違ってばかりの愚かな自分を知るばかりなのだ。だというのに、ヘール自身を知るほどに、ジンの中でヘール=キャリスという英雄の偶像が強くなっていく。しかし、だからこそジンにとって、ヘールは「手放せば自分が道を踏み外してしまうだけだ」と思うに値する、大切なものであった。

 さわりとジンの頬を風がなぜる。冷たい空気に体を震わせ、ジンは顔を上げた。白い絵の具で塗り重ねたような空が、頭上に悠然ゆうぜんと広がっている。

 ――俺は、何のために騎士になったんだろう

 ――これからどこへ向かえばいいのだろう……

 見上げた空は、騎士になってすぐの頃と違い、ぼんやりとかすんでいる。それもなにか物悲しく思えてしまい、ジンは深い息を吐いた。白く上昇して散っていく、吐いた息ひとつにも、どこかやるせないものを感じるほどに、ジンの心は憔悴しょうすいしていた。

 聖戦にもおもむけず、騎士として生きる理由を間接的に剥奪はくだつされてしまっているジン=アドルフは、いまも戦地で戦っているだろう仲間や、主人のことを思うほどに、腹の奥に重たいものが溜まっていくのであった。

 そんなある日、ジンもついに聖戦に騎士として参加するようにと、ヘールからの命令が下りた。

 それは主人らしい簡素な文での命であり、ジンはその文が届いてすぐに屋敷を出発した。戦地にたどり着いたのは夜更けであったが、周囲の騎士たちはみな憔悴しており、しかしその目だけがらんらんと輝いている。

「士気が落ちていないのは、将軍であるライリオンと英雄であるジンの主人のおかげなのだ」と、ジンは数少ない食事にようやくありついているらしい騎士のひとりから聞いた。

「戦況は思わしくない。いや、聖騎士自体は大したことはないのだが、教会の本部に攻め入ることができない。戦場に出てきている司教の首は明日……だが、肝心の祈師に手が出せないとなると……」

「司教の首は、私がかならず討ち取ります」

「そうだな。それを陛下も望んでいる。よろしく頼むよ」

 ライリオンとヘールが話すすぐそば――従騎士であるジンは天幕の外ではあるが、王子殿下と主人の声がきこえるほど近くに立っていた――でその静かな声をきいていたジンは「もうそんなところまで、戦況は変化していたのだ」と我知らず体が震えた。

 天幕から出てきたヘールがジンを呼び、ジンが「はい」と顔をあげると、ヘールはジンの目をしかとみすえ「お前は明日、俺の後ろをついてくること。遅れたならば死ぬだけだ。こちらもお前の手助けは一切しない。できるな? ジン=アドルフ」

「えっと……」

 返事に窮したジンの頬を高い音を立てて打ち、ヘールはそれでも淡々と追い打ちをかけるように「できるな、ときいている」とジンに尋ねる。

 そのヘールの様子に、ジンは「これは、考えるのではなく、用意された答えを言わなければいけないのだ」と気が付き「できます」と震える声で言う。

 ヘールは再度ジンの頬を打った。

「声が小さい」

「……できます!」

 常とは違う様子で叱責され、ジンは困惑しながらも大声ではっきりそう返答する。ヘールはそのジンの様子を見て、無表情のまま背を向け、自分の天幕へと戻っていった。

 ジン=アドルフは、はじめての戦場に到着してすぐ、主人であり英雄である上司に頬を打たれ、よくわからないままに「もしかしたら明日、俺は死ぬのだろうか」という予感がしていたのだ。

 聖戦は、血の匂いがあたりに充満し、死体があちこちに落ちている――ジンが思っていた以上に――凄惨なものであった。

 ジンはヘールの後ろを必死で追いかけ、眼前に立ちふさがる騎士たちを、虫けらのように払いのける主人の背中を見ていた。

 血と、怒号と、悲鳴が広がっていく。このなかを駆けてきたのがこの英雄なのだとようやく理解したとき、ジンの胸中に広がったのは尊敬の念よりも、この英雄に対する恐ろしさや、得体の知れなさであった。

 敵の本陣についたとき、ヘールはちらりとジンを見た。それは「本陣の中に入ってくるな」という合図であり、一瞬の視線が離れてすぐに、ヘールは勢いよく天幕に入った。

 ジンは前もって言われていた通りに、天幕に火をつける。

 中からあまたもの鋭い悲鳴が聞こえてくるが、ジンには主人を心配するような余裕はなかった。できる限り身を隠し、天幕の至る所に火を放っていく。

 聖騎士が天幕の燃える匂いに気が付き、騒ぎ始めた瞬間に、中から司教の名を叫ぶ声がした。

 ジンが天幕の外で「なにが起こっているのか」「ヘールさんは無事か? 司教の首は討てたということか」と考えているとき、ジンが近づいていた天幕の、その内側になにかがぶつかったようだった。慌てて体を離したジンは、そのあとかすかに聞きなれた唸り声がしたことに気が付き、頭が真っ白になった。

 しばらく誰かがもがくような音も、それに続く。しんと静まり、燃えはじめた天幕から、首をなくした司教をかついで血まみれの聖騎士たちがでてきたとき、ジンは最初に出てきたのがヘールではなかったことに嫌な予感がした。

 燃えていく、人のいなくなった天幕に、ジンは人目が付かないように慌てて忍び込む。中にいたのは、首から大量の血を流し、体を投げ出し横たわる、かつての師であった。

「ヘールさん」

 ジンは、ヘールの変わり果てた姿とあたりに充満する煙に、自身の思考が狂っていくのを感じていた。主人の肩を寄せ、ジンは「まだ大丈夫だ。生きている」と確信したが、ヘールに息はない。

「……聖地」

 よぎったのは、最近よく夢に現れていた、あの祈師に連れられて行った墓地――あの聖なる森の光景であった。

 ジンはいまこのとき、自分がこの森にどうやってやってこれたのか、まったく覚えていない。しかし体全体が重たく、息苦しく、ヘールの首からしたたる血がジンの肩を真っ赤に濡らしていることだけははっきりと認識していた。

 ――このひとはこんなに重たかっただろうか、このひとはこんなに硬かっただろうか。こんなに冷たかっただろうか……

 ようやく聖地なる森にたどり着いたとき、ジンははたと「この場所に墓石が転がっている理由」がわかった気がした。この地に無数に捨てられた墓石こそ、騎士や聖騎士たちがこの地に最期の望みをかけた証拠であったのだ。

「……お願いします」

 十字架の前にヘールの体を横たえ、ジンは祈る。

 ――お願いします、なんでもします、俺ができることはすべて祈師様に与えます。だから……

「……ヘールさんを助けてください……」

 ジンがうろんに呟いたとき、十字架が眩しいほどに白くかがやいた。それに目をつぶったジンは、そこから数時間、気を失っていたようだった。

 ジンは、夢を見ていた。自分の中にヘール=キャリスが入っていき、ほのおが燃え盛るほどの熱さを感じた、不思議な夢だった。

 小雨が頬を濡らし、それでようやく目が覚める。目をこすり、あたりを見回して、そこにまだまぶたを固く閉じたままの死体を見て、ジンは笑った。笑いながらぼたぼたと頬を涙が流れていく。

 ヘールさん、と呟いた声は、この場で誰一人にも届かない。

「ヘールさん……」

 ジンはヘールの首を濡らし、固まった血を、自分の着ていた黄旗の団服の袖を破いて拭いた。もとの美しい顔に戻ったヘールを見つめながら、ようやくジンはヘールの死を認識し、その場で崩れ落ちるようにして泣いた。

 なにもかもが終わったのだと、自分の生でさえ、この瞬間が「最期」なのだと、ジンはその瞬間、心の底から思ったのだった。

 英雄の葬儀は、行われることはなかった。それと同じく、司教の葬儀も行われることはなかったようである。

 精神的なものから、床にふせっていたジン=アドルフを、グレイルが引っ張り出した。

 風呂に入り、もそもそと着替えるジンの脇腹を、グレイルが指さした。ジンはそれを見て、すぐにグレイルの視線の先を察し、服で隠す。グレイルはそんなジンの手を取り「ジン=アドルフ」とジンの名を呼び「……あの森に行ったのか? その紋章は」

「……どうしてお前に、赤旗の紋章が浮かび上がっている?」

 グレイルの問いに、ジンはちらりと背後の鏡を見る。そこに映った情けなく泣きそうな顔の自分と、慌てて裾をひいたせいで、隠れ切れていない脇腹に浮かぶ赤旗の紋章があまりにも似合わず、ジンはますます泣き叫びたくなる。

「万病の森にいったのか、ジン」

「あの森は、俺の願いをかなえてくれなかった」

 ジンの答えは、グレイルには不思議なものだったらしく、首を傾げているので、ジンは「ヘールさんは、生き返らなかった」と言い直した。

 それから、ジンは涙を止めることができなかった。鼻をすすり体を震わせる少年をグレイルはしばらく黙ってみていたが、やがてゆっくり口を開く。

「……生き返っていたら、アドルフ一族が亡き者となっていただろうな」

 そのグレイルの言葉に、ジンは理解が及ばず、目を丸くしてグレイルを凝視する。グレイルは静かに続けた。

「団長は、司教の首と自らの首を王に差し出すことで、アドルフを救った。お前のせいだよ、ジン=アドルフ。お前の裏切り行為が、団長の命を奪ったんだ……それなのに、そんなお前に、団長が持っていた赤旗の紋章が浮かぶだなんて、なんという運命の悪戯だろうな」

 グレイルの言葉に、ジンはグレイルから顔をそらし、紋章のある腹を隠すように両手で服の裾を引っ張った。グレイルはなお「ジン=アドルフ。王のために忠誠を誓え」と言葉を続ける。

「私がいま、なにを考えているかわかるか? ジン。お前への激しい憎しみで、頭がいっぱいになっている。いますぐにでもお前を切り裂いて、その首を晒したいと思うくらいにな。だが最後の機会をやろう。……生きたいのならば、赤旗の騎士になれ。王に忠誠を誓うんだ。忠誠を誓うと陛下の御前で宣言し、しかるべき処罰を受けろ。それがその紋章を持つものに与えられる権利だよ」

 ジンは「はい」と答えることができなかった。ただグレイルの言葉を聞いている間中、自分の胸中なのに、自分ではないような心が、めらめらと燃え盛っているのを感じていたのだった。

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