第八章 ジンの罪

 飛竜の「緑旗の新入りなんて、治療のひとつもいまだにさせてもらえないんだよ。ずっと見学と座学の往復でさ」という愚痴を聞きながら、ジンは「黄旗もそうだって。戦場に行くわけでもなし、ずっと訓練所で稽古ばかりだ」と頷いている。

 昼間の城下町で久しぶりに顔を合わせた飛竜と「少しの間だけだ」と言い訳しながらも、随分と話し込んでいたジンは、今日は休みの日であり、町に下りてきていたのだった。

 のんびりと話に花を咲かせている飛竜を見るに、彼は今日、半休であるらしい。午前いっぱいは主人に「座学をしろ」と思い切りしごかれたと苦笑していたこともあり、ジンは彼と主人の話をし、それから話題は自然と、自分たちの仕事の話に向いたのだった。

「そういえば、戦争が始まるそうじゃないか。俺の主人もこのところ、忙しそうだしさ……ヘール様の様子はどうだ? やっぱり慌ただしいか?」

「屋敷にいることが少ないかな、ずっと王城に出向いているみたいだ。おかげで俺は、騎士の仕事がないとき、ほとんどこうして休みになっているけれど」

「なんだか穏やかじゃないよなあ。それもあって、緑旗は知識があるものを増員したいって、ドグ様も言っていたよ。だから緑旗はいま、みんなほとんど、勉強だ、勉強だって机にかじりついているものな」

「そういえば」と飛竜が「祈師が城下で大々的に宣戦布告したせいで、民衆がほとんど教会側につきそうだって、主人が言っていたよ。弱ったことになるぞ、って。まあ、俺の主人も酒を飲みながらのいつものぼやきだったから、本当に弱ったことになるかはわからないけどさ」

 飛竜がふいにだしたその名に、ジンは一瞬、頬を引きつらせる。その一瞬を飛竜は目ざとく見ていたらしく「ジン? どうかしたのか」と問いかけたあと、すぐになにかを察したようで「……なあ、ジン。お前、まさか、祈師に近づいたりしていないよな?」

「なんて、まさかな。そもそもそんなことできるわけが」と飛竜が笑い飛ばそうとしたが、ジンの表情がそれを遮った。

 図星をつかれて、眉間にしわを寄せたジンは、それでも本当のことをこの友人に告げるわけにもいかず「そうだよ。そんなわけがないだろう」

 目をそらしているジンをじっと見て、飛竜は歯を出して笑った。

「そうか。そうだよな。そんなわけがないよな」

「そうだよ」とジンも笑い、それから飛竜とジンは手を振っていつも通りに別れたのだった。

 飛竜は、離れていくジンの背中を見ながら思案している。それから友人の姿が曲がり角の先に消えたのを確認して、足音を消し、ジンのいく道を追いかけた。

 どうしようもない胸騒ぎに、飛竜はいてもたってもいられなかったのである。

 ジンは町中を普段通りに探索しているだけの様子であったが、どこか上の空とでもいうのか、心ここに在らずである。

「自分と話しているときもそうだった」と飛竜は考えながら、数十分ほどジンをつけたのち「いや、俺は何をしているんだ。友達を疑うなんて」と自分のらしくない思考に頭を振ったのだった。

 人気のない通りを、ヘールの屋敷に帰る道筋でジンが歩き始めたとき、飛竜は「そうだよな。なにもない。そうだよ」と安堵した。しかし、そんなジンと飛竜の目の前がぱっと白く光り、その美しい少女がジンの眼前に現れたとき、飛竜は心臓が飛び出るほどに驚いたのだった。

「ジン! どこへいくの? 私と遊びましょう?」と軽やかな声色でジンの胸に飛び込んだのは、絹のような金髪の美しい少女で、飛竜はその少女がだれなのか、見間違えることなどありえないのをよく知っている。

「祈師だ」と飛竜が心中で叫んだ瞬間、祈師の翡翠の瞳が一瞬こちらを向いた気がして、飛竜は慌てて建物の影に身を隠した。

 この世の者ならざるほどに整った美しいその少女は、その美しさゆえに崇められており、その身には神通力が流れているのである――その噂が本当であるのなら、少女がなにもない場所から出てきたのは、祈師の証拠であるようにしか飛竜には思えず、また、飛竜は信仰心のあつい家で育ったこともあって、祈師の外見もよく見知っていたのだった。

 ――しかし、祈師は簡単に近づけるような相手ではない!

 ――なのに……なぜ、一介の騎士であるだけのジンと、あんなにも親しく……

 そこまで考えて、飛竜は再度首を振る。理由はなんであっても、いまここでジンと祈師が会っているのは事実なのだ、と思い直し、祈師がジンを連れ、再び消えたあとを、追いかけてみようと飛竜は心に決めたのであった。

 祈師の行く場所に、飛竜が思い当たるところなど、教会くらいしかない。教会にいなかったとしても、ジンがその先でなにをしているのかなど考えたくもなかった。嫌悪感よりも、失望のほうが飛竜の胸中をしめており、しかしそれでもどこか情を忘れられずにいたために「教会に居たら、なにをしているのか見定めよう」と誓っていたのだ。

「教会にいなければ……」というのは、飛竜にとって最も考えたくない事柄であり「もし教会にいなかったら、一瞬見た事実だけで、友人を裏切者だと決めつけなければいけない」と思うだけで、飛竜は悲しくて叫びだしそうになってしまう。

 ――教会にいてくれ、ジン=アドルフ!

 ――きっと、なにか事情があるんだよな?

「そうだよ」と自分の考えにひとり頷き、飛竜は前を見据える。

 城下町の中からであれば、教会へはわりあい近い。もしかすればジンの姿を見つけられるかもしれない、と一縷の望みをかけ、飛竜は教会へと走ったのだった。

 教会についたとき、飛竜は「この広い敷地内のどこへ、まず行けばいいのだろう」と途方に暮れた。自分にとって一番なじみがあるのは大聖堂であるが、ジンが祈師と連れ立って密会しているというのであれば、祈師が人目につく大聖堂を選ぶ可能性は低い、と飛竜は思う。それではどこへ、と考えて、飛竜はふと、とある礼拝堂を思いついた。

 その礼拝堂は古びていて、小さく、教会の敷地内でも一番端に追いやられているような場所である。母や父によると、その場所は「祈師様のお気に入り」であり「家族しか立ち入れない」と、明確にではなくとも決められているようなところであるらしい。

「ときどきオルガンの音が聴こえてくるのは、聖女様が弾いているからなのよ」という母の言葉をきいて、いまだ少年だった頃の自分が「人形のように美しい、あの聖女様がオルガンを弾いているなんて、きっと絵画のようにきれいな光景なのだろうな」とぼんやり思ったことを、飛竜はふいに思い出したのだった。

 ――ジンが祈師のお気に入りかどうかはわからないけれど、あの親しそうな様子からすれば、もしかすると……

 飛竜は礼拝堂の扉に手を触れる。

 重厚だが、堂そのものと同じく古びた扉は、開けようとすればきしんだ音を派手に立てそうだ。飛竜は扉を開くのをやめ、裏手に回った。幸運にも建付たてつけの悪い窓が、ほんの少しだけ開いている。

 飛竜はそこに身をひそめ、耳をそばだてた。

「ふふ」と、祈師のものだろう、澄んだ笑い声が聞こえたのは、そのときであった。

「可愛い私のジン。とっても素敵な騎士様」と祈師がジンの名を呼び、ジンがそれに「……祈師様」と困ったように答えるひそやかな声を聴いて、飛竜の頭にかっと血が昇った。飛竜はジンを疑ってかかっていたわけではなかったのだが、それでもジンが寝返っているのだと判断するのに充分なほど、ジンの声は愛しい相手への、優しいそれであったのだ。

 飛竜は勢い余って近くの木桶を蹴り倒してしまい、大きな音を立てた。その音に気が付いた、ジンとは別の男性――きっと、祈師の護衛も堂の中にいたのだろう――が「誰だ」と鋭く叫ぶ。

 飛竜は口元を押さえ、足をたたみこんだが、裏口から出てきたらしいその男性とジンに、飛竜はあえなく見つかってしまったのだった。

 飛竜の姿を見たジン=アドルフは、まず目を丸くして、それから徐々にその顔が青く染まっていく。それと反対に、飛竜はジンの姿にますます激昂した。口元を覆っていた手を外し、飛竜はゆっくり立ち上がる。ジンが一歩後ろに退いたのも、飛竜にとって許せなかった。

「……ジン」

 この友人に見せたことがないほどに冷たい目をして、飛竜はジンの名を呼ぶ。ジンは「飛竜、どうしてここに」と呟いたが、その問いかけも、飛竜には到底許せるものではなかった。

 飛竜がジンに近づくと、ジンは観念したのか、なにも言わず、またそれ以上逃げることもしなかった。ただなにかを避けるように目をそらしている。飛竜はそんなジンの頬を、高い音を立てて思い切りぶった。ジンがよろめく。

 飛竜はそれ以上、ジンを責めることができなかった。感情がたかぶったせいで泣きそうになる自分をりっし、怒りで真っ白になった頭の中で、ジンのことを「情けない」「誰に忠誠を誓っていたのか」と散々になじりながらも、そういったジンを一番傷つける言葉を、どうしても発することができない。

 やがて、飛竜はジンから目をそらし、彼に背中を向けた。去っていく飛竜を追いかけなかったジンの様子は、飛竜にとって、この友人が陛下に不信行為を働いていたのだと判断するに足りるものになった。

 それでも、飛竜はその足で、すぐさまジンの主人であるヘールに報告する気にはなれずにいた。

 日が落ち、一番星がでたころ、己の主人の屋敷に戻り、もう休んでいいはずなのに、飛竜は気が付くとぼんやりしたまま従騎士としての仕事に取り掛かっており、主人が散らかした執務室中を掃除していた。

 主人が帰ってきたという鈴の音が遠くに聞こえる。

「執務室に飛竜がいる」のだときいた主人が、明かりもつけず、静かに机を拭いている飛竜に声をかけ続けていたようである。数度目に飛竜の名を呼んでから、主人はがっと飛竜の肩を強くつかんだ。

 主人の顔を見て、みるみるうちに飛竜の目に涙が溜まる。飛竜は気が付くと、頬を涙で濡らしていた。

 数日間思い悩んだ末に、飛竜はヘールを訪ねるために赤旗騎士団の団長室にやってきていた。

 赤旗騎士団の団長室は、王城西の塔、その最奥にずらりと並んでいる団長室のなかでも、一番中心に位置している。

 左から桃旗、緑旗、青旗、赤旗、黄旗、黒旗という順で部屋があるのだ。

 飛竜が部屋を訪ねたときには、ジンの主人であるヘールは団長としての職務をこなしながら、隣室の長である青旗騎士団長のトランがヘールの部屋にいて、ふたりはなにかを話している様子であった。飛竜の深刻な顔を見て、ヘールがちらりとトランに目配せをすると、トランはすっとその場を離れ、部屋を出た。

 飛竜がヘールの傍に寄ってもいいか尋ねると、彼が頷いたので、緊張で体をすくめながらも、飛竜はゆっくりとヘールの目の前に立った。

「……ジン=アドルフのことで、ご相談があります」

 飛竜の第一声で、ヘールは片眉をぴんと跳ね上げたが、飛竜はそれで臆しても、ここで言葉を途切れさせるわけにはいかないことを誰よりも理解していた。

「ジンが祈師と懇意にしているところを、私はこの目で見ました。ジンは陛下を裏切るかもしれない……いや、もうすでに裏切っているかも……」

 飛竜が、それから静かに、ジンの動向を事細かに話している間、ヘールは飛竜から視線をそらさなかった。なにもかもを話し終えて、ヘールが平坦な声で「そうか」といったとき、飛竜は体から力が抜けるのを知った。

 ヘールは「報告、感謝する。あいつの処遇はこちらで判断するから、お前はもう下がっていい」と飛竜に告げ、最後に、付け足したというより、本音を漏らしたかのような悲しそうにも聞こえる声で「……ありがとう。そうか、ジンが」とつぶやき、再度飛竜を見て「つらい思いをさせたな。すまなかった」

 その言葉に、飛竜はこみあがってくる涙をぐっと我慢したが、それでも抑えきれなかったのは「ジンを許してください。お願いします。あいつは悪い奴じゃないんです、きっとなにかあるんです……」という、自分でもなにを言っているのか、と思うようなちぐはぐな懇願であった。

 ヘールは自分に頭を下げて、泣き言のようにそんなことを必死に言うこの子どもを見ながら「下がれ、飛竜=阿國」とだけ、今度は冷たく一言告げる。

 飛竜は部屋を出た。最後に発してしまった願いを、あっさりと拒絶されたことよりも、最後の最後にそんなことを願ってしまった自分の優柔不断さに、頭と体が離れていくような感覚を覚えていたのだった。

 国王との謁見を申し出たヘールを、国王は無下むげにしなかった。

 この臣下しんかが自分と話したいと言い出したことなど、いままででも数えられるほどしかなかったことと、その数回のどれもが重要な話であったので、国王は謁見室の玉座に座り、ヘールを見下ろして「今度はなにが起きたのか」と尋ねながら、うすうすとこの臣下の覚悟を感じ取っていたのだった。

「私の従騎士であるジン=アドルフが、祈師と懇意にしていると、報告がありました。従者の罪は私の罪です」というヘールの静かな言葉に、王は目を細め「アドルフ家の者か……あの家を一族皆殺しにするか、お前が死ぬか。どちらを選ぶ? ヘール=アドルフ」

 王に昔の姓で呼ばれ、一族根絶やしか、自分が死ぬかと問われても、ヘールは表情ひとつ変えない。むしろ一瞬、彼はほっとしたような顔をして「わが命を絶つことで、お許しを頂けるのであれば、これ以上の僥倖ぎょうこうはありません。有難き幸せと存じております」

「……下がれ」と王が謁見室の扉を指さし、ヘールは頭を下げて部屋を出る。

 ヘールが窓から外を眺めているとき、後ろから彼に声をかける者があり、ヘールが声のほうを見ると、思った通り、そこにいたのは将軍であり、第二王子でもあるライリオンであった。

「ヘール。父上からの勅命だ」

「戦場で散るように、と。司教の首を取って、そのまま己の首も落とすこと。もしそのどちらか片方しかなし遂げられず、またどちらも成し遂げられなかったとしても、アドルフの一族は根絶やしにする」と告げながら、ライリオンはヘールの肩に一瞬触れ「……父上からの最期のはなむけだ」

「有難き幸せ」と頷き、ヘールはライリオンが離れていくのを見送る。

 王子の背が柱の陰に消えるのを見ながら考えていたのは「騎士として散れるのだ」ということと「陛下に感謝するほかない」ということであった。

 雨がひどく降っていたので、ジンは侍女たちと一緒に慌てて主人の洗濯物を取り込むのを手伝っていた。

 シーツに泥が跳ねてしまったと落ち込む侍女に、ジンは声をかける。

 ひとしきり体が濡れたせいで、ジンはくしゃみをした。鼻をすすってジンが空を見上げた時、稲光が遠くで光ったのが見え、一瞬のちに雷が落ちる激しい音が鳴り響いたので、音に慌てる侍女の隣に、ジンは何気なく座ってやった。

 侍女が落ち着くまで、そうして一言、二言かわしながら、己の胸の奥がざわざわと、嫌なものを感じているのに、ジンは気が付いていた。

 妙な胸騒ぎはこの雷雨のせいだろうか、と再び窓の外を見る。窓をたたく激しい雨に、その奥で再び――今度はもうすこし遠くから――雷が光っている。

「ジンさん、こちらにおいでなさい。体がすっかり冷えてしまっては、仕事に支障をきたしてしまいますよ」と老いた執事がいうので、ジンは彼が指した台所のかまどの傍に縮こまりまきが燃えるのを見つめていた。

 帰ってくるはずの主人のために作っている温かいスープのにおいに「以前は自分も、こんなに豪華なものを食べていたのだ」とふと思い出す。

 自由な男爵子息の座から、こんな場所に来て、騎士になって……しかし、気が付くと、自分が転落してしまったのだということを、ジンは知っていた。

 祈師と会っているところを飛竜に見られたとき、その飛竜に殴られたとき――ジンが考えていたのはなんだったのだろう。自分でもわからずにいても、あのときの飛竜の表情が、ひどく悲しそうに歪んでいたのをジンははっきり見ていて、こうしてかまどの火を見つめているときでも、その痛ましい顔が思い出されるのだ。

 しかし、ジンはそんな友人にかけるべき言葉を、いまだに見つけられない。謝るにはもう遅すぎることもわかっているし、謝ったところでどうするのかとも思うのだ。

 そもそも、とジンは目を閉じ「飛竜に謝って、それで許されるようなことではないのだ。俺は、みんなをあざむいているのだ」と、暖かな部屋で薄らいでいく意識のなか、ジンはずっと考えている。

「それでもやめられないのはなぜだろう。祈師様と会うのをやめれば、きっと済む話だったのだ」と、ジンは目を開ける。それでもやめられないのは、と声には出さずとも唇だけわずかに動かして、目を細めた。

 ――祈師様

 白くはじける光の後、自分の胸に飛び込んでくる少女を思い描く。それでも会うのは、きっと、とジンは思う。

 しかしそのさきにある感情を、自分に対してであっても、決してジンは告げるわけにはいかないのであった。

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