第七章 聖なる森

 深夜の屋敷では、トランとヘールが今日もまた、酒宴をしている楽しそうな声が響いている。ジンは自室で体を休めていたが、今日は一際大人たちが――特にトランの笑い声が大きい――騒いでいる様子なので、枕に顔をうずめて布団にくるまり、蓑虫のようになっていた。

 とはいえ、あのふたりが深夜まで酒を飲んでいるのは珍しいことではないし、ジンとしても平時であれば馴れているのだが、今日はなぜか寝つきが悪い。そのせいでジンも「明日も仕事があるのに、訓練だって……」と、寝付けない自分や大人たちの声に苛立ってしまっていた。しかし文句をいう立場など、ジンにはもちろんないのである。

「ジン=アドルフは寝たか」と酒を口に運ぶトランへ、ヘールは「ジン? 寝たんじゃあないか」とぼんやり視線を合わせる。トランは机から身を乗り出し「ヘール、聞いたか? 王国軍に加勢したいという過激派がいるらしいぞ」

「過激派?……それは、また」

「血気盛んな若者の集団だそうだが、少しばかり素行が悪い様子で、な。こちらとしてはうまく利用したいが……放っておけという者も、もちろん、いる」

「放っておけ、そんなもの……」「ほう。お前はそちら側なんだな」と、酒で赤くなったヘールにトランがくだを巻く。ヘールが嫌そうに背筋を伸ばし「それはそうだろう。そんなもの、王国軍の笠を着てなにをするかわからない」というと、トランが「うまく扱えばいい話だろう」と笑っているので、ヘールも目を細めて「……やっとわかった。お前のたちの悪い冗談だったんだな、トラン」

「おお、俺の冗談がようやくわかるようになったか」

「本当に質が悪いよ、お前は……本気できこうとして損をした」

 ヘールが欠伸をして突っ伏したのを、トランが無理やりその腕を引いて「ほらほら、起きないか。夜はまだこれからだぞ!」と大笑いしているので、ヘールは「……もうとっくに更けている……」と寝ぼけながらつぶやいたのだった。

 万病の森、というのは聖書に伝わる聖なる地であり、そこは、国王が欲しがる聖地アインソフィとはまったく別の、第二の聖地であった。

 ジンは一度だけ、その森の噂をきいたことがある。それも祈師直々によるもので「教会の近くに神聖な森があるのよ。今度、ジンを連れて行ってあげる!」と嬉しそうな彼女の表情が印象に残ってしまったがゆえに、ジンもその話をぼんやり覚えていたのだった。

 ジンの生家であるアドルフ家は、宗教にあまり重きを置いていない。そのためジンも祈師の顔はおろか、万病の森や聖地アインソフィなども全く見たことも聞いたこともないまま、十五を数える年になっていたのだ。

 ヘールの「キャリス」が「聖杯カリス」をもじったものだということも、ジンはいまでも知らないままであった。

 騎士として聖人から名を賜ることや、その加護を得るということも、ジンは興味がなく、また、ジンの父親であるゼナーゼに尋ねてみれば「聖人の加護はお前にもあるぞ」と答えてくれたとしても、ジンはそもそも、そういったものに関する興味が薄いのであった。

「もうすこし、なにかしら知っておくべきだっただろうか」というのはジンにとって、最近、一番の悩みであり、それもここ最近、親しくなってきている祈師とのことが頭に浮かぶからだ。

 ――アマリアの聖人や、聖女に、明るくないまま成長した自分が異端であること……

 そもそも、ジンはアマリア教を信じているというよりも「アマリア教だと言っておけば良い、それが国教なのだから、聖なる日や慣習には一応それなりに従うし……」という気持ちでいたのである。

 だから「父親のゼナーゼも、このぼんくらな息子を僧にするのは」と思ったということに、ジンもたったいま、ようやく気が付いたのだった。

 トランが帰り、しんと静まった屋敷で、やっとジンは眠りにつこうとしていた。窓から入るうっすらとした月明かりを眺めながら、真っ暗な自室のベッドの上、丸まっていた体を伸ばす。

 冬の気配がする夜はひときわ冷え、ジンは布団を肩までひっぱりあげて目をつむった。

 ようやくあくびをして、意識を手放そうとしたその瞬間、ジンの手をすべらかな指がなぜた気がして、ジンはぼんやりとまぶたを上げた。

「……ん?」と寝ぼけまなこをこすり、起き上がったジンに、法衣のすそをなびかせて、彼女は笑う。

 月光に照らされた顔は暗く、ジンには彼女の姿が妖精かなにかのように思えた。

「ほら、起きて、起きて。お寝坊さん!」

「……みっ、んぐっ!?」

 驚いて、つい彼女の名を叫びそうになったジンの後ろから、男の手がジンの口をふさいだ。ようやく理解したジンが「はなせ!」と鋭く声を荒げて、自分の背から抱え込む男をきっとにらみつける。

 月に照らされた、美しいジンの思い人と対照的に、彼は暗闇でその目を光らせているように見えた。

「カルカ、いったい全体、こんな遅くに何の用……!」

「ジンったら! もちろん、カルカじゃなくって、私がジンを誘いに来たのよ」

 声をもらして笑い、彼女――祈師はジンの顔を見上げるように、ベッドに肘をついた。

 ジンは「誘いに?」と繰り返す。そんなジンに対して、嬉しそうに弧を描く祈師の瞳を見ていた。

「聖地に行きましょう、ジン! こんな日の夜は、聖なる森の星空がとっても綺麗なのよ!」

「聖地?」と目を丸くしているジンに「そうよ。一度教会にいらっしゃい、ジン。着替えないといけないものね」と祈師は顔を寄せる。

 彼女の言葉の意味が分からず、目を白黒とさせているジンに、祈師が可憐に微笑んだのを最後に、ジンの部屋は、まばゆく白い光に包まれたのだった。

 闇に包まれた聖堂は、ひときわ、もの寂しく、どこか不気味である。祈師はジンの手を引いて、彼を小さな聖堂に連れていくと、そこで「これに着替えて!」と彼に衣服を渡し、自分はカルカを連れ、聖堂の隅に備え付けられたオルガンに座った。

 しぶしぶジンもいわれたとおりのものに袖を通したが、その衣服の勝手がなにやらおかしいとは思っても、鏡も明かりもないような室内ではそれが何なのかを確かめるすべがない。

 着替え終わったジンを呼び寄せて、祈師は彼をしゃがませると、その頭にかつらを被らせて「これで大丈夫ね。いまから馬に乗るから、ジンはカルカと私の後ろをついてきてちょうだい。聖なる森も、もちろん、とっても綺麗だけれど、そこまでの道中もすごく美しいのよ」

 いつもの自分の短髪よりも長いかつらの毛先に触れて、ジンは戸惑いながらも「はあ……?」と返事をしたが、ジンは現状で理解できていることはほぼない。

 ジンは気が付くと「聖なる森」とやらに向かう、祈師とカルカの後ろをついて、馬を走らせていたのだった。

 鬱蒼としていた木々の葉がぱっとひらけたとき、そこに広がる満天の星空と、その下の墓地にジンは目を見開いた。

 ――これは……これはなんだろう?

 転がる墓石をまじまじと見て、それからジンは、再び頭上の星空を見上げる。そこはまさしく異空間のように美しく、その奥にそびえ立つ大きな傷だらけの十字架に、ジンは息をのんだ。

「聖なる森……万病の森。ジン、ここにくれば、ジンの願い事がなんでも叶うのよ」

 うたうように祈師が言う。ジンは夢見心地で「なんでも?」と問い返し、それから「そう。なんでも――あなたの悲しみ、あなたの苦しみ、あなたの喜び。ここにはすべてを置いていける……この十字架が、あなたのそれを背負ってくれるの」という、祈師の朗々とした声に聞き惚れる。

 ――あのときみたいだ

 ジンは、祈師の美しい伸びやかな声を聴いてふと思う。

 初めて自分が祈師を見たときの、あの凛と伸びた背筋、歌うような声の美しさ、そのすべてがいまここに在るのだ。

 星の天蓋の下で、祈師が法衣の裾をなびかせるさまは、まるでいつか見た異国の天使のようであった。

「ふふ、でも、いまはジンもきっと、この地で願うことなんてなにもないかもしれないわね。ねえジン、きっとなにか、願い事ができたとき。ジンはきっと、この地を思い出すわ! ここには神が居るの。私がいるのよ……」

 祈師の背で十字架が、一瞬、光った気がしてジンは目を擦った。カルカが祈師に近寄っていく足音で、ジンも現実に引き戻される。

「……やはり夜は冷える。祈師様、そろそろ――」とカルカが祈師の肩に手を置こうとした瞬間だった。祈師の背後で十字架が激しく光ったように見え、カルカとジンが驚いて顔を上げるのと同時に、がつんとなにかが墓石にあたる激しい音がした。

「何奴!」とカルカが短く叫んで、すぐさまにその腰に差した剣の柄に手を添える。

 ジンも体勢を整えてきっと周囲を見据えた。

 なにが起こったのか、察するだけの間もなく「聖騎士か!? 祈師を連れて、不用心にもほどがある!」という荒々しい男の声に、ジンは一瞬、身をすくませた。

「聖なる地を祈師の鮮血で染められるなんて、上々だな……」と笑いあう男たちが、墓場の奥からぞろぞろとでてくる。ジンは状況がわからないなりに、自分の身と祈師の身を守るためには、剣を抜かねばならぬことだけ理解し始めていた。

「祈師を殺せば一攫千金ではないか。司教への見せしめに、お前たち聖騎士も無残な殺し方をしてやろう」

 暗い森の奥からきこえる男の声に、ジンは目を細める。ジンの目は暗闇に慣れてきており、じっと見据えれば、何人の男がどこにいるのかを見て取ることができた。奥に三人、背後に二人――とジンが数えている間にも、カルカはすでに、刃を抜いている。

「ジン! 走れ!!」とカルカが叫んだのを皮切りに、ジンも走り出して剣をすばやく抜いた。前方に迫る敵を刺すつもりで剣を振り、男の背を突き刺した思わぬ感触に、ジンは目を見開く。

 男が膝をつき、墓石が血でぬれるのを、ジンの目は捉える。

 カルカがジンと背中合わせに立ち「思い切り剣を振れ。祈師様が勝手に奴らを吹っ飛ばしてくれるからな……女神の加護はこちらにある」と囁いた。

 その言葉の意味を、ジンはカルカの戦い方を見て理解した。カルカが剣を振った方向に、なぜか男の体が現れ、ジンと男たちが、気付いたときには串刺しになっている。その奥、十字架の傍にいつの間にか腰かけている祈師が、それを見て楽しそうに笑っているのだ。

 ――祈師様が力を使っている……!

「ひい、ふう、みい、よ……あとひとり」と祈師が呟いた瞬間、その「最後の一人」が墓石に頭をぶつけた鈍い音が聖地に響く。その音にカルカは剣を鞘に戻し、ジンの背から離れた。

 祈師は声を漏らして笑う。

「うふふ、うふふ、とっても格好よかったわ! ねえ、カルカ、聖地にまたお墓が増えちゃったけれど、お父様はきっと許してくれるわ。そうよね、ね、だって、仕方がなかったもの……まさかこんなことになるなんて……でも、見世物にはとっても良かったわ……」

「祈師様」とジンは茫然と祈師を呼ぶ。祈師は美しい笑みで嬉しそうに肩を震わせている。

「ジン、勿論、ジンもとっても格好よかったわよ! 私のお友達は騎士ですもの。私だけの聖なる騎士様」

 祈師がジンの傍に寄り、その胸に顔を寄せるのを、ジンは拒めずにいる。それどころか、この妖しく美しい少女に、胸がどうしようもなく高鳴ってしまうのだ。

「ジン、ジンはもう刀礼とうれいは済ませたのかしら? 英雄様から一人前だと認めてもらえている?」

「えっ? い、いえ。俺は一応、黄旗としての刀礼はしましたが、ヘールさ……主人からは、まだ……」

 刀礼というのは、一人前であると主人から認められる、騎士としての大切な儀礼のことである。

 ジンは、黄旗として――王に忠誠を誓う刀礼には新米騎士のひとりとして――大人数のなかに混ざってであればおこなっていたが、ジン=アドルフとして――ヘールに一人前と認められたという証の――刀礼は、いまだに行ってはいなかったのだ。

「主人からされていないのであれば、まだ大丈夫ね。今度は私がジンを聖騎士にしてあげるわ! ねえ、きっとよ。約束しましょう、ジン=アドルフ。アドルフの姓を捨てて、聖騎士として私に殉ずるの。とっても素敵だと思わない? ねえ、カルカ」と祈師がジンをいざなう。それを隣で見ているカルカは「そうですね、祈師様」とジンを嘲笑うように口角を上げていた。

 夜風が、ジンの頬を撫でる。ジンの胸に頭を寄せ、その腕に自分の腕を絡ませる愛しい少女の願い事に、頷きそうになったジンは、はたと先ほど浴びた鮮血が目に入り、我に返った。鞘に戻した剣を腰から外し、着ていた服――星空の下でやっとわかったが、それは聖騎士のものであった――を脱いで、かつらも剥ぎ取り、祈師に突き返す。

「俺、屋敷に戻ります」

「えっ?」と祈師が驚いた声を上げる。カルカは口角を上げたまま「騎士としての矜持を保ったな、ジン=アドルフ」と呟いたが、それはジンには届かない。カルカはそれも知っていて、なお、目を細めたまま、祈師を振り返り「祈師様、我々も戻りましょう。そろそろ夜が明ける頃です」

 夜が明けたとき、ジンは屋敷に戻って風呂に入り、自分の服を洗濯していた。

 起きてきたヘールがジンの姿を見て「どうかしたか?」と尋ねるので、ジンは静かに首を振る。

 ――アドルフの姓を捨て、聖騎士として祈師様に……

 桶の中の水が波紋をつくるのを眺めながら、ジンはこみあげるものに目をこする。洗濯に使っていた石鹸が、ジンの目に入り「いてっ」とジンが声をあげたのを見て、ヘールは怪訝そうにしていた。

「ヘールさん」と、ジンは背後のヘールを振り返った。ヘールが「なんだ」と問うと、ジンは途端に目をそらし「……えっと……」と言葉を詰まらせて「俺に、その、刀礼を……」

「なんだ、刀礼?」と聞き返すヘールに、ジンは首を振り「いえ。なんでもないんです」と桶の中に再び視線を落としてしまった。

「……まあ、お前がもう少し、立派に武勲を上げればな」

 ヘールが呟いた言葉に、ジンは「でも、今でないと」と心中で反論する。しかしそれはついぞ言葉に出せぬまま、ヘールが去っていく足音を、ジンはじっと黙して聞いていたのだった。

 王国の過激派が聖地で死んでいたという噂をきいて、まず動いたのはトラン=マクベリー率いる青旗マクラン騎士団であった。血がべったりと墓石を濡らし、中には頭を打ちつけて死んでいるものもいたという報告に、トランは「場所が場所だ。もしかしたら」と頭を掻いていた。

 その報告を持ってきたトランを、一笑に付したのはほかの騎士団長や副団長たちであり「まあ、過激派が死んだというだけ。きな臭いはきな臭いけれど」という者がほとんどで、中には「王国軍が同じことになれば、聖戦がより苛烈になりますね」と笑っている者もあった。

「向こうが手を出すのなら、こちらも手を出すだけ。そうではないか?」

 トランが宣言するように声を張り上げた先で、ヘールは腕を組んでそれを眺めている。

 トランが「お前はどう思う、ヘール」と言ったとき、ヘールは「そうだな」と短く答えたきり、じっとトランの目を見つめていた。

「なにか隠し事がある様子……」と軍議が終わったのちにトランがヘールに声をかけると、ヘールはトランをちらと流し見て、すぐに目を前方に戻し「いや」と首を振るにとどめた。

「なんだ? ジン=アドルフの顔がちらりちらりと浮かんでいるようだが」

「まだ確定してないことだ。悪戯に漏らしたりするなよ」

「それは、それは……」と青いマントを広げるトランに、ヘールは視線を投げる。その瞬間、トランが影に飲み込まれるように消えたので、ヘールは細い息を吐いた。赤い前髪を掴み、背面の壁に背をつける。

 ヘールがちらりと横を見ると、塔の窓から、生い茂った森、その奥に城下が見えた。太陽がさんさんと照らす町並みは、いまも平和そのものに見える。

 ――ここに戦火が届くかもしれない……

「……英雄とは、なんだろうな」と呟いた言葉だけは、誰一人にも、きこえないでいる。

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