第六章 聖戦勃発

 私室で体を休めていた王は、ころもが床を滑る音で顔を上げた。にっこりと笑う少女に、王は「いったい、何用か」とたずねる。彼女はいつもの無邪気な笑みを崩さず、しかしおごそかに告げた。

「神はあなたに罰を下す。ふふ、愚かな国王陛下……」

 彼女が王のそば、寝台に腰掛け、王の頬に滑らかな指をあてたとき、にわかに寝室の外が騒がしくなった。

 部屋に戻ってきたのだろう王妃の叫び、近衛兵の黒旗トオネラ騎士団たちが防戦しているのだろう破壊音、もがくような音、黒旗騎士団長の凛とした「殿下!」と王妃を呼ぶ女性の声……

「全くもって奇異だな、お前の持つその力は」

絶対ぜったい守護力しゅごりょくというのよ、王様? こういうときにこそ使わなくては……でも安心して。カルカはこの寝室にはいれないし、私のこの腕では、あなたを殺すこともできないのだから」と彼女が笑うのを、王は冷たくみすえている。寝台から足を下ろし、彼女が頬を触る指を強く握った。彼女が表情を歪めたのと対照的に、王は顔色ひとつ変えない。

「お前の腕とはこの細腕のことか? その力を使えばこの私ひとりくらい、どうとでもなるだろう、祈師様?」

「私は神罰のお告げに来ただけなのよ、その手を放して頂戴。あなたからなにもかもを奪いましょう、欲深い国王陛下……民草たみくさも、土地も、その地位も……なにもかも、すべてを。司教はあなたの座を望んでいるのよ、それってとっても楽しいことだとは思わない?」

 祈師は寝室の外に目をやり「ねえ、カルカ。そろそろ帰りましょうか……」と呟いて、微笑む。

 部屋中が白い光に包まれ、王が咄嗟に目をつぶった。

 一瞬の間に祈師の姿は部屋からこつぜんと消えており、黒旗の騎士の「化け物が! 消えやがった!!」という罵倒で、王は部屋の外にいただろうあの護衛も、その主人である祈師とおなじように、まぼろしのように消えたことを知ったのだった。

 黄旗の騎士となったジン=アドルフは、黄旗に入団した貴族たちが入る寄宿舎に、友人に呼ばれてやってきていた。

 ジンが黄旗で最初に知り合ったサーシャ=ロイジは、年の頃は十七、ロイジ家の次男坊であり「ロイジ家にはまだあと三人、弟妹がいるのだ」という話で盛り上がったのをきっかけに、ジンにとって、飛竜と同じぐらい気心が知れた仲間となっていた。

 サーシャが特に気に入って話すのは三男のマルタの話であり、この三男坊が年のころはまだ十を数えたばかりで、ドジばかり踏むが、持ち前のその明るい気性で、ロイジ家では一番の人気者であるらしい。

 サーシャが「またマルタがドジを踏んだと、妹の手紙に書いてあったよ」だとか「弟が騎士になりたいというから、やめておけと言っているんだ」などというのを、ジンは眩しい気持ちできいていたのだった。

 ロイジ家は貴族ではなく商人の家柄であるが、なかなか繁盛している商売人の一家である。

 サーシャは父親のつてで黄旗に入団したようである。貴族の次男や三男ばかりの黄旗騎士団のなかで、英雄の従騎士だと言われて遠巻きにされていたジンと同じく、サーシャもひとりでいたので、このふたりが仲良くなるのは自然な流れでもあったのだった。

「ジンになら、うちの妹でも弟でも譲りたいな。すげえ良い奴ばかりだし、きっとジンも気に入るよ。マルタも騎士になりたいらしいから、ジン、もしよければ従騎士に貰ってやってくれ」というのがサーシャの口癖なので、それにはジンも困ってしまい「いや、俺はいいよ。まだ俺自体が従騎士だし」と返すのがお決まりである。

 この日も自室にジンを呼んで、サーシャがそんな話を持ち出したので、ジンはほとほと参ってしまい「サーシャ、気持ちは嬉しいけどさ」と断ろうと口を開いたが、サーシャが取り出していた弟妹たちの写真を大切に箱にしまい込んだ後に「英雄の従騎士か、いいよな。ヘール様はやっぱり格好いいもの、な」と呟いたので、ジンはつい「うん?」と断りの返事を忘れて首を傾げたのだった。

「黄旗でも、ほとんどのやつらがヘール様に憧れているよ。赤旗の団長だし、あの戦いぶりを見ると、どうしてもなあ……あんな風に自由に戦場を駆けられて、ライリオン様にも背中を預けてもらっていて……羨ましいよな」

 ジンが「ライリオン様か」と問い返すと、サーシャは「そうだよ」と頷く。

 ライリオン・レオハルト=キングストーンは将軍であり、王国軍の頭であって、この国の第二王子であった。ジンは彼のことを、もしかしてヘールよりも美しい人なのではないか、とこっそり思っている。そして、彼の隣に立っているヘールの姿を、どこかで見たことがある気がしていたのだった。

 サーシャと別れ、寄宿舎の厩につないでおいた馬を迎えにいくジンの袖を、誰かがついと引いたので、ジンはそちらを振り向いた。

 ジンの顔を覗き込む翡翠の瞳に、ジンはぎょっとする。声をなくしたジンから軽快な足取りで、一歩、後ろに引いて見せた少女は、ジンが焦がれたその声で「ジン=アドルフ!」と名乗ったはずのないジンの名を呼んだ。

 そのせいで、ジンはますます混乱してしまったのだった。

 にっこり、彼女――祈師が笑った瞬間、ジンの周囲がまばゆく光り、気が付くと厩から庭園に周りの景色が一変していたのだった。

 ジンが目を回しているのを横目に、祈師が屈託のない様子で「ジン、この間は助けてくれてありがとう。お礼に私とお友達になりましょうよ!」とジンの手を取ったので、ジンは祈師の顔を凝視した。それからすぐに我に返って頬を染め、慌てて目をそらす。

「祈師様、あの、俺は夢を見ているのでしょうか?」とジンがたずねると、祈師は目を丸くして「夢? どうして?」とジンの頬を思い切りつねった。

 驚いたジンが「いたっ!」と声を上げる。

 祈師が「カルカがときどき、頬でもつねればいいのでは、というのよ。ねえ、痛かったでしょう? ジンは夢だと思う?」

「痛かったです……えっと、これはどういうこと……」

 ジンがあたりを何度見回しても、いままで自分がいたところと、まったく場所が違う。

 風が一面の花を揺らし、植物のにおいがしている。空は真っ青で高く広がっており、遠くに庭園の入り口だろう門まで見えたので、ジンもやっと「ここまで具体的な夢を見ることはないだろうな」と、別の場所にいつの間にか移動したということだけ、理解し始めていた。

「ここは私の庭園よ。秘密の庭園! とってもいいでしょう? 私とカルカだけの花園だったけれど、もうジンも私のお友達だものね。ここは三人の場所。とってもいいでしょう、ねえ、カルカもおいでなさいな」

 祈師が見た方向から、土を踏む音がしたので、ジンもそちらを振り向いた。

 あの日見た金髪の青年が、腰に差した剣の柄に片手を置いたまま、ジンを見下みくだしたように笑っている。

「祈師様の気まぐれ」と呟いた彼の低い声に、ジンは一歩、後ろに退く。

 祈師が「カルカ」と青年……カルカを呼び、その腹に勢いよく抱き着いても、カルカは顔色を、一切、変えないでいる。

 そんなふたりの様子を見て、ジンが一瞬、眉をはね上げたことに、カルカだけが気が付いている。

「祈師様の神通力で連れてこられたんだよ、小僧。あの日、祈師様にその生意気な顔を見せたのが、功を奏したんだ。よかったな、ジン=アドルフ」

「どうして俺の名前を……」とジンが一歩後ろに退く。カルカはジンを馬鹿にしたような笑みを浮かべたまま「主人と同じような顔をしているからな、お前は。アドルフらしいその嫌な目の形」

 同じ顔、と言われてきょとんとしてしまったジンに「おなじ顔だったわ、ジン。カルカのいうことは本当よ。英雄伝に載っている肖像画を見たけれど、ジンの主人とジン、たしかに面影があるもの。うふふ、私とローディアみたいにね」

「ローディア?」とジンがつい問い返したのを、カルカが嫌そうに「聖女様のお名前だ」と返答する。ジンがカルカの顔を見上げると、彼は不機嫌に「なんだよ、ガキ。聖女様のお名前も知らずに、よくいままで生きてこられたものだな」

「俺はあんたみたいに、聖騎士じゃないから……!」

 言われっぱなしになり、腹に据えかねたジンがつい言い返しても、カルカはどこ吹く風である。そんなカルカの様子に、祈師が「カルカは聖騎士じゃなくて、私の護衛よ。騎士でも何でもないの。ただの護衛……」

「護衛」と繰り返したジンに、カルカが祈師についで「俺は元男娼だ。遊郭から好きものの聖職者に買われたところを、祈師様が拾っただけの、な」

 ジンはつい「男娼?」と鼻白む。

 育ちの良いジンだって、男娼くらい知っているのだ。それがどれだけ貴族たちの間で軽んじられているのか、聖職者に買われた、というカルカの言葉の意味でさえ、なにもかもが子どものジンには特別汚らわしい。

 ジンがカルカに対してありありとその表情を歪めたので、ジンの顔を見たカルカのほうがジンに鼻を鳴らした。

「なんだ、俺のことを汚いとでも思ったか? やはりガキは潔癖だな」

 ジンを嘲笑あざわらうカルカを見上げて、祈師が「カルカが汚い? どうして? カルカはこんなに綺麗じゃない」と首を傾げたので、ジンはそれ以上、なにも言い返せずもくしてしまう。

 そんなジンの様子にのどを鳴らして笑うカルカに、ジンはますます腹を立てた。

 顔を真っ赤にしたジンの顔を覗き込み、カルカが「ガキだなあ、ジン=アドルフ。揶揄われたこともないか」と囁いた。

「こいつの横面よこつらを殴りたい」という思いを我慢しているジンに対して、カルカはさらに挑発する。

「あの野蛮な英雄も、どうしてこんなガキを従騎士にしたんだろうな。ねんねもいいところだ」

「誰が野蛮だって?」とジンはカルカを睨みつける。カルカがそんなジンに「はっきり名前を言ってほしいのか?」と言い返したので、ジンはついに、頭に血を昇らせた。

 しかし、祈師がカルカとジンの腕を取り「カルカ、ジン、だめよ。仲良くして」と花のように笑ったので、ジンはカルカに手を出す機会を逃してしまったのだった。

 謁見室の玉座にどっしりと腰を据えた国王を見上げて、ヘールは膝をついた。国王は蓄えた黒い口ひげを触りながら、その青い瞳でヘールをなぶるように見下みおろしている。

「余の眼前からアマリアを消せ」

 ずらりと左右に並んだ王国の騎士たち、その幹部のなかでも、赤い絨毯の上、国王の前で首を垂れているのはヘールただひとりである。

 王が「顔を上げよ」というと、やっとヘールは顔を上げ、その橙の瞳に王を映す。

 王は厳粛に「ヘール=キャリス」とヘールの名を呼び「また競争をさせるのもまた一興。そうだろう? お前が司教の首を取るか、お前以外の誰かが首を取るか……また賭けようじゃないか。お前が首を取ってくればお前に土地でも財でも与えてやるが、お前以外であればお前の首を落とす」

「余の言葉の意味が分かるか?……司教の首を取ってこい、ヘール。これは余からの命令だ」

 顔を上げたヘールは、表情一つ歪めずに「御意」と言って一礼する。ヘールを見ている騎士たちは、この美しい英雄への強い羨望を抱いているのだった。

「これはまた大変なことになったなあ」と謁見室から出てきてすぐにトランがヘールに声をかけたので、ヘールはトランをちらりと見てからすぐに視線をそらしたのだった。

「今度はアマリアの司教の首か。隣国の王の首、蛮族の長の首……、お前の屋敷には一体いくつの首が転がっているんだろうな」

「それはお前がよく見知っているだろう」

 トランの軽口にヘールが言い返すと、トランは「いくつだったかな。あまりにも沢山で、一度や二度では数えられなくてなあ」とのん気に返したので、ヘールのほうが呆れたように目を細めた。

 少年のような女性――桃旗シェーン騎士団長のユリア=レインズが「ヘールの屋敷にはそんなに趣味の悪いものが転がっているのか」と笑う隣で、緑旗騎士団長のドグ=ヘイオールがトランに「趣味の悪い冗談だな」と呟いている。

「俺らしいとはいささか失礼じゃないか? ドグ」とトランが冗談めかして言うと、ドグは眉間にしわを寄せ「その心を読む癖も、趣味が悪い。読んだなら、読んだ、で黙っておかないと、自らの手の内を晒すことになるぞ」

「自らの手の内を、ねえ」とトランが頭を掻いているのを、ユリアは「仕方がないよ、ドグ。トランの性質の悪さは皆が知っていることだろう」と笑い飛ばす。そこに低い声が「お前たち、陛下からの勅命だ」と割って入り、場の視線はその声の主、第二王子ライリオンにそそがれた。

「司教は殺し、祈師は生かしたまま連れてくること――これは戦争だ。方法は問わない」

 騎士たちが「御意」と声をそろえ、背を向けたのち、ライリオンは「ヘール」とヘールを呼び止めた。靴底を鳴らしてヘールに近寄り、まず「すまないな」と最初に詫びてから「父上の気まぐれに命を賭けられたほうは、耐えられるものではないだろう。しかしお前はいつも、父上の欲しがるものを持って帰ってくるからこそ、父上もお前に期待しているんだよ」

「お気遣い感謝いたします、殿下。陛下のお心づもりはよく存じておりますゆえ、私なぞのことはお気になさらず」

「首を取ってこなければ、首を落とすか。お前は、よく、あの父上についてきてくれるな……有難う」

「もったいないお言葉」と目を細めるヘールに、ライリオンはようやく安堵したかのように表情を緩めた。

此度こたびはきっと、聖戦と名の付く戦いになるだろう。お前の働きに私も期待しているよ」

「有難き幸せでございます」と頭を下げたヘールの前を通り、ライリオンが去っていったのを見計らい、遠巻きにふたりを眺めていたトランが「ヘール」と名を呼んだ。

「こわい、こわい……」とわざとらしく肩をすくめる友に、ヘールは鼻から息をひとつ吐く。

「トラン。ジンのことだが」とヘールが言うと、それだけでトランはヘールの言葉の先を読み取ったらしく「……ああ。そうか、ジン=アドルフには何の変化も見られないか」と言って腕を組み「しかし、見張っておくにこしたことはない、そうだろう」

「ジンがなにかしでかすなんて、きっとないだろう。あれは愚かではない」

「愚かではなくても、人を狂わす魔性などいくらでもあるんだ。そのひとつが働いているのでは、と俺は思うんだよ」

「魔性とは」とヘールが首を傾げるのを、トランは小さく「祈師と会ったことがあるか?」と短く尋ねる。その問いかけにヘールはやや黙してから「……あれが、か? いや、どうだろうな。アドルフはそこまで信心深くはないはずだ」

「そうか……魔性だよ、あれは。まさしく魔物だ」

「祈師を欲しいものなど、星の数ほどいるということだ」と笑って背を向けたトランに、ヘールは再度ため息をついたのだった。

 姉にオルガンを弾いてやりながら、ローディアは「お姉さま」と姉を呼んだ。姉……祈師は「なあに」とオルガンのそばに腰をかけてローディアの顔を覗き込む。妹の目線は鍵盤に落とされ、その長いまつ毛が目元に濃い影を作っている。

「英雄の従騎士がお気に召したの?」

 静かな妹の声は、オルガンの音のせいで響かない。唯一肌が触れるほどそばにいた祈師にだけ聞こえたその言葉を、祈師は機嫌よく笑い飛ばした。

「よくわかったわね、ローディア! どうして気が付いてしまったのかしら?」

「お姉さまがご機嫌なのと……あの美しい殿方によく似た子を、庭園につれていらしたでしょう」

「あら、どこから見ていたのかしら」「私の部屋からよく見えるのよ」と言い合って、美しい聖女は、女神である姉と目を合わせる。ふたつの翡翠の視線が交わり、そのどちらもがたのしげに笑い声を漏らすのを、この小さな聖堂の扉を背にして、カルカがじっと見つめている。

「誰にも言わないでね、ローディア。あのお庭は私の人形の家なのよ。すてきな、すてきな、おもちゃのおうち……誰にも邪魔されては嫌よ……」

 うたうように呟く姉の顔を見て、ローディアは一瞬、なにかを考えていたが、それをすぐ隠して「ええ、お姉さま。もちろんよ」とにっこり微笑んでみせた。

「私はお姉さまが大好きだもの。大好きなお姉さまには、きっと幸せになってもらわなくちゃ」

 たった三人しかいない小さな木製の聖堂に、聖女の声はオルガンの奏でる讃美歌でかき消される。声をこぼして笑う妹の美しい横顔を、祈師は夢見る心地で眺めていたのであった。

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