第五章 街頭演説

 ――彼女の姿を見たとき、ひどく胸が騒めいたのだ。

 ――時を戻せるなら、俺はきっと、あの人を初めて見たあの日より以前に戻って、あの人と出会わない人生を選択するだろう。

「ジン、すこし頼まれてくれ」とヘールが言い出すのは、これが初めてのことではない。ヘールの従騎士とは彼の従者だということであるのだ。その日もジンはいつものようにうなずいて、ヘールの文書をとある騎士に渡すついでに、日用品の買い物をするため町に出た。

 ヘールの屋敷は丘の上にあり、その下に城下町が広がっている。王城の城下町近くに居城を構えたのはヘールの意志というよりは「王の寵愛を受けている」ことが関係しているようだった。

 丘の下には鬱蒼とした森が広がっており、屋敷の近くに大きな湖があって、そこを抜けてさらにいくとようやく森を抜け町に出るのだが、この森がわりあい広いので、馬がないと難儀する。だからジンは今回、厩から馬を借りて出てきていたが、訓練のない久々の休みを満喫できずに、仕事をさせられていることに対して、少しばかりねていたのだった。

 とはいっても、やはり町に出るのは気分が良い。主人から出される鬼のような鍛錬で、森の中をうろつくこと自体は嫌というほどやってはいたが、それとは違い、ただ使いのためだけに外に出るのは、ジンにとって楽な仕事のひとつであるのだ。

「ついでに本を一冊買ってこい」とヘールがジンに小遣いを持たせてくれていたので、ヘールの言う「本」が勉学や礼儀作法のそれだと知っていても、ジンは町を見るなり不機嫌が吹っ飛んで、気持ちが高揚したのだった。

 まず文書を届けて、つぎに日用品や本を買いに商店のほうへと馬を走らせる。城下は広く、活気があった。すこし見上げれば王城が見えるところで一度足を止めたジンは、そこでひときわ人が集っている場所を発見し、興味本位で近づいた。

 そこは王城真下、噴水広場であり、そこの中心、噴水のそばで声を張り上げているものがある。ジンはその少女を見て、まず驚いた。ふたつに結われた絹のような金髪が風になびく。その宝石のような翡翠色の双眸はまっすぐに民衆を見つめており、その身にまとう服は教会の幹部のものであった。

 彼女の澄んだ高い声はひどく耳に残る。だが、ジンはその声の響きにだけ聴き入ってしまい、その内容を一切聞き取ることができずにいた。

 引き寄せられるように見つめてしまうほど、美しい少女――集う民のだれかが「みこさま!」と彼女を呼んだので、そこでジンはようやく彼女の正体を知った。

 ――祈師いのりのみこ

 ――国教であるアマリアの、その中心人物であり、信仰の対象。彼女はその身に流れる神通力で、この国を守っている、まさに守護神である……

 ジンは「……みこさま」と呟いた。胸に宿った小さなくすぶりのせいで、ジンはその日、ついぞ眠れぬ夜を過ごすことになってしまったのだった。

 珍しく宴ではない用件で屋敷にやってきたトランが「アマリアが王に宣戦布告だと」と、他愛のないことのように言った。それをきいたヘールははっきり眉をしかめ「知っている……王族内でも、そればかりもちきりのようだしな。陛下も面白くないと思っておられるように見える」

 トランが「苛立つのもわかるさ。しかしこればかりはなあ。神通力を持つ祈師だけでなく、アマリアの領土にまで、陛下御自身が手を出したのだから」と頭を掻いているのを横目で見ながら、ヘールは「聖地アインソフィのことか? あそこは場所が良い。あの土地を手に入れられたら、戦争に有利だからな」と顎を触っている。

「聖地と祈師を手に入れようとすれば、それはアマリアも反旗を翻しもする。しかしどう思う」

 ヘールに顔を突き出すトランに、ヘールは「どう、とは?」と静かに尋ね返した。

「あの幼い祈師殿が、街頭で宣戦を布告したが、な。それは俺もよく知っているよ。しかし俺は、あれは司教なりの趣味の悪い見世物だったのではないかと思うわけだ」

「本気ではないと?」

「いや。本気だろうさ。そこまで馬鹿ではないだろうよ……だが、宣戦布告に祈師を使うのがまずい。あれのせいで民衆は教会につきはじめている。革命軍にもやる気が満ちているようだし……だから趣味の悪い見世物だと言っているんだよ、俺は……」

 その会話を横できいていたジンは、じっと窓の外を眺めていた。

 窓の外は森が広がっており、その下に小さく城下の街並みが見える。外では今日もいつもの日常が過ぎて行っているのだ。しかし、祈師様と呼ばれていたあの少女の姿が、ジンの脳裏に焼き付いて離れないでいる。

 加えて、あのときの演説の内容がまさか宣戦布告だったとは……とジンも、上司たちの話にいささか驚いてもいたのだった。こんなにのどかな城下町で、内戦の布告が行われていたなどと、平和になれきった少年のジンには思いもつかなかったのである。

「陛下がどう出るか……血なまぐさいことになるのは、避けられないだろうな」

 トランが声を潜めたのを、ヘールが「そのときはそのときだ」と一笑に付した。

 トランはヘールの肩に手を添え「お前が出ることになるのだろう、と俺は思うわけだ、英雄殿」

「戦争に行くことが怖いなどと思ったことは一度もない。陛下の手駒に殉ずる以上の幸福が、騎士にあるというのか?」

「聖戦で散るのは本望か」と問うトランに、ヘールは上機嫌である。

 トランが去り際に残した「お前の忠犬ぶりにはついていけないが、騎士道は見上げたものだと思っているよ」という言葉が、ジンの胸に小さく突き刺さったのであった。

 数日後、ヘールから渡された資料を手にして、ジンは唸っていた。

 今回、ヘールがジンに命じたのは騎士の配置図の暗記であり、小さな建物を中心に、隙なく騎士たちが配置につくように描かれている。それはまさしくジンの初仕事であり、きちんとやり遂げるために、ジンは悪戦苦闘していたのだった。

「そもそも、これはいったい、なんだ? 聖戦が始まるのか?」と思っても、それをヘールにたずねることもできぬまま、日付だけが経っていく。

 ある日、ジンは飛竜と久しぶりに訓練所で会った。ジンはヘールに「この任務は極秘」と言われていたため、配置図の暗記のはなしこそできなかったが、近況として、飛竜には少しだけ、祈師を見たあの日の話をした。

 その話を聞いた飛竜は最初こそ頷いていたのに、ジンの、どこか心ここにあらずの様子を見て思うところがあったらしく「ジン、祈師を気に入ったのか?」と彼らしい勘の良さでジンに尋ねてきたので、ジンのほうが鼻白んでしまった。

「どうして、そう思うんだ」とジンが顔をこわばらせる。飛竜はそんなジンに対して、訝しく眉を寄せ「いや……」と一度濁してから、意を決した様子で「ジン、余計なことは考えるなよ」と不思議な忠告をした。

 ジンは、その飛竜の言葉にはさすがに「余計な事って?」と首を傾げたのであった。

「戦争になれば、間違いなく祈師は敵方だ。うかつには近づくな」

「近づくも、なにも……」と飛竜の言葉に濁った返事をして、ジンはこの友人から目をそらした。

 それから、飛竜の言葉の意味を考える暇もなく、ジンは日々を配置の暗記に費やした。

 配置図の作戦の決行当日、深夜に主人にたたき起こされ、ジンは目をこすりながら、知らない森の中、主人の背を追いかけていた。

 いまだヘールからは、なにが行われるのかをきいておらず、ただ、ヘールは今日、甲冑を脱いで顔だけを覆い隠しており、ジンも頬から下だけを布で覆い隠している軽装であったので、ジンも、うすうすと、不穏を察し始めていた。

 ようやくヘールが足を止めたのは、目的地であるはずの小さな建物より離れた場所であり、そこからぼんやり明かりが漏れているだけで、あたりの見通しは悪い。ジンが横目で見ると、配置図の通りに赤旗の騎士と黄旗の騎士が配置されているようではあるが、皆、気配を消しているようでもあった。

「いったいなにが始まるのだろう」

 ジンは、たったひとりで騎士たちとは別の場所、すこし遠い茂みのなかに身を隠している。どうも「もしものとき用の捨て駒」という役割を与えられているようであった。

 ジンの背後の茂みががさがさと音を立てた。ジンがそちらを振り向くと、たいまつの明かりを掲げた二人の男女が、仲睦まじくはなしながら、近くの湖のほうへと向かっているようである。

「まさかこんな場所で、祈師様に会えるなんて、な」

「本当に。とっても素敵……」

 ふたりの話をきいて「祈師様?」とジンは首を傾げた。

 瞬間、騎士たちが一斉に動いた。

 祈師は、高級な宿の一室で体を休めていた。護衛の聖騎士――だろうか、しかし聖騎士には似合わないような、華美な装飾で飾り立てている青年である――は今日も、祈師の隣に立って窓から外を眺めている。

「……なにか、嫌な予感がする」というのは、この宿に入ってからずっと、この護衛が口癖のように呟いていたのだが、しかし肝心の祈師は「そうかしら」と笑みを浮かべるばかりであった。

 煙の臭いが祈師の部屋まで届いたとき、祈師はのんびりと温かい牛の乳を飲んでいた。その祈師の飲み物を奪い取った護衛に、祈師は胡乱な目を向ける。護衛は「祈師様」と彼女を呼んだ。

「ここの窓から飛び降りてください」

 護衛の突然の言葉に、祈師は「え?」とさすがに目を丸くしたが、煙が扉から中へ侵入し始めたのをみるなり、立ち上がって「カルカはどうするの?」

「二手に分かれましょう。私は祈師様のおとりになって隠し通路を走ります。祈師様は窓から飛び降りてください」

「神通力でうまく降りろということ? うふふ、うふふ! とってもとってもたのしそうだわ!」

 そう祈師が笑うがはやいか、ひらりと彼女は窓から飛び降りる。カルカと呼ばれた護衛が隠し通路の戸を開いた瞬間に、王国軍の騎士たちが到着したのであった。

「ヘール様、あちらです。あちらから音がする」とグレイルがヘールに耳打ちしたのは、カルカが走り去った隠し通路のほうである。そちらに狙いをつけて、ヘールは赤旗の騎士たちを先導し、通路を走り抜ける。そのあいだに祈師は三階から飛び降りており、うまく着地して――膝を擦りむいただけである――森を抜けるため、走り始めた。

 屋敷の方向から漏れる光が強くなり、風に吹かれてジンの鼻でも煙臭さを感じ取った時、建物の中に赤旗の騎士が数人入っていくのが遠目に見えた。

 炎が揺れている……それで、ジンもようやく――あの建物に祈師様がいるのか!? 暗殺か!?――と理解した。

 そして、ジンは一目散に燃え盛る屋敷へと走り出していたのだった。

 ジンはヘールに配置を叩き込まれている。いやに冴えた頭で配置図を思い描き、騎士たちの配置の隙をついて建物の中に入り込む。それはほかの誰よりも、ジンにとってなおいっそう、簡単な仕事であった。

 どこが一番手厚に騎士が配置されていて、どこにヘールがいるかを考えれば、祈師の部屋を割り出すのも難なくできる。ジンは屋敷の見取り図もヘールの命で暗記していたので、隠し通路らしき場所も知っていた。

 建物の中は燃えており、至る所から叫び声が聞こえていた。ここは高級な宿であり、祈師はここの一番奥の高価な部屋にいるのだ。

 ジンが混乱に乗じて、祈師のいたはずの部屋に入り込んだとき、そこは、もぬけの殻であった。隠し通路の戸が大きく壊されているのを見て、ジンはふと「この通路を使ったのであれば、祈師様の命はもうないだろう」と考える。ぐるりと室内を見渡すと、窓が開いているのに気が付いた。三階から飛び降りるなど考えられはしないが、もしかして……

 ジンは近くの太い木の枝に飛び移ろうとして、落下した。はげしい音を立てながらも、木々が茂っていたおかげでそれが緩衝材になったらしく、体中の痛みと擦り傷はできたが、なんとか地上に降りることができた。

 ジンはいそいで森の中を駆ける。誰かが一度通ったらしい足跡を見ながら走れば、金髪を振り乱し、美しい頬に軽い火傷を負っているらしい少女が、膝にできた擦り傷をかばって足を引きずっているのが見えた。彼女に近寄ったジンは、その肩を抱きすくめる。

 驚き振り向いた彼女の緑の目は、翡翠の宝玉のようである。ジンは彼女――祈師に向かって微笑み「祈師様、もう大丈夫です」

 燃え盛る宿を抜け出し、祈師をつれてジンは森の中を駆ける。後ろから「祈師様!」と誰かが祈師を呼んだ。

 祈師はぱっと振り返って、その声の主に「カルカ、ここよ!」と手を振った。その声をききつけて走り寄ってきた祈師の護衛に対して、ジンは「聖騎士にしては派手な身なりだ」と思う。

 護衛の男はひとつに結った長い金髪を振り乱したまま、その鋭く光る青い目でジンをにらみつけた。

「こいつは……」と剣の柄に手をそえた護衛――カルカに、ジンはなにも答えない。ふたりの間にはいった祈師が、ジンの手からすっと腕を引き抜くと、彼女はそのまま、カルカに走り寄り、カルカに懐いた様子で、思い切り抱き着いた。

「カルカ、カルカ! 無事だったのね、よかった!」

 祈師の言葉に、カルカは「祈師様こそ、御無事でなによりです……ところで、このガキは一体?」とジンをさして眉をしかめる。

 ジンはそれでも名乗らなかったが、顔を覆っていた布を下げてみせ「はやく森を抜けてください。北西のほうへいくといいと思います。そちらなら、騎士たちが手薄なはずだから」

「……ガキ、お前。もしかして」

 カルカはジンの顔を見て、ふっと冷笑し、祈師にはなにもいわずに「祈師様、いきましょう」と彼女の手を取って走り去った。

 ジンは祈師の姿が小さくなっていくのを確かめてから、騎士たちがいるだろう元の場所へと急いで戻ったのだった。

 あたりには霧雨きりさめが降り出しており、煙の臭いが充満していた。

 ジンの頭は、自分でも不思議なほどに冴えていた。祈師を救った高揚感もなければ、仲間を裏切った恐れもなく……しかし、こんなにも大それたことをしてしまった理由に関してだけは、いまだにジンは納得がいかなかった。

 主人のヘールを裏切ったという事実は、むしろジンの冷酷さを覚醒させているようであったが、しかし、祈師の遺体を探す仲間たちの様子がだんだん緊迫していくのを感じたときに、ようやくジンも体が恐怖で震えはじめた。

「ジン=アドルフ」と、トランがジンを呼ぶ。

 体の震えを抑えるので必死で、呼び声に気が付かなかったジンの肩を、トランは無理に掴んだ。

 ジンの怯えようを見て黙し、小さく「お前」と言ったきり、トランはジンから背を向けた。そのとき、ジンはなにも考えられず、自分から離れていくトランの、その表情の変化を察することができなかった。

 ジンの頬を、冷たい雨が打つ。きりのかかる視界のなか、死体を探す、ぼんやりとした騎士たちのすがたから視線をそらし、ジンは祈師の腕を取った手のひらに目をやった。稽古で肉刺まめができ、固くなったこの騎士の手で、ジンは祈師を救い出したのだ。

 カルカと呼ばれたあの聖騎士――きっとあの青年は聖騎士かなにかだ、とジンは思い込んでいた――ですらない、祈師を暗殺しようとした「王国の騎士」なのに、と考えるほどに、ジンの体はひどく震える。

 しかし、ジンは「なんてことを、俺はしでかしたのだろう」と思うことができなかった。真っ白な頭の中に浮かぶのは、祈師の翡翠の瞳と、視界にうつる、仲間だったはずの騎士たちの姿だけだったのである。

「ジン=アドルフに気をつけろよ、英雄殿」

 トランがそうヘールに耳打ちしたとき、ヘールにしては珍しくはっきり表情をゆがめた。

 トランに「ジン?」と問い返したヘールは、ひどく不快な様子である。

「あの子供は、お前を破滅させるかもしれない」とトランが呟くと、ヘールは低い声で「なぜ」と短くたずねた。トランは肩をすくめ「あの子供の口を割らせる任を、俺に託すというのか? ヘール=アドルフ」

「トラン、俺には陛下から賜った名がある」

「陛下から賜った名(ヘール=キャリス)で呼ばれていたいのであれば、お前があの子供の口を割れ。あれはなにをしでかすかわからない。あの目を見たか? 怯えているというよりも、こちらがぞっとする目だったぞ」

 ヘールはトランの言葉に黙り込み、彼をじっと見据えている。だいだい色のヘールの瞳が揺れると、トランにはまるで本物のほむらのように思えてくるのだ。酒を食らって寝込むという、この英雄の弱点の根底には「陛下からの寵愛の重さ」があることも、トランはよく知っている。

 ヘール=キャリスは国王の右腕、そして誰よりも忠臣である。だからこそ彼は「陛下のための死」をいとわず、だからこそ国王も彼に目をかけている。

 しかしそれは同時に不安定なもので「陛下がどれほどヘールを傷つけたとしても、ヘール=キャリスは嫌がるそぶりも見せず、それを受け入れる」ということであり、トランはこの英雄の一番の弱点がそれだということを理解していたのだ。

 国王が「死ね」といえば、ヘールは迷いなく、その首を掻き切る男なのである。

 ――そんな男の「従騎士」が「国王陛下」を裏切ったとしたら……

「お前は戦場で死ねよ、ヘール=キャリス。そのキャリスに恥じぬ死に方をしろ」

 ヘール=アドルフは、アドルフ家の三男坊として生まれた。

 英雄として名を馳せ、陛下から「キャリス」という姓と爵位を貰ったのだ。

 キャリスの名は、彼が騎士であり英雄であることを表し、だからこそ彼は、その名に恥じぬ「英雄の偶像」を保つのである。

 彼が酒を浴びるのは防衛本能にほかならず、なにもかもを背負うわりになにもかも吐き出せない彼は、自分を守るために酒を飲んで、一時でも重責から逃げていたかったのである。

 トランの言葉に、ヘールは眉をはね、すぐにトランから背を向けた。

 ヘールの喉に詰まった「もちろんだ」という言葉は、心が読めるトランには、はっきりと聞こえているのであろう。

 教会に戻った祈師は、埃にまみれた服を脱いで下着の白いワンピース一枚になると、勢いよくカルカを振り向いた。

 金髪がなびき、下着の裾がふわりと揺れる。そこから伸びた足は華奢きゃしゃであり、彼女が気付かないように、カルカはそっと目をそらした。

「ねえカルカ、あの子を知っているの?」

 祈師の問いかけに、カルカは「あの子?」と尋ね返して「ああ」と頷き「……あの子供のことですか。あれは野蛮な英雄の従騎士ですよ、甥だとかなんとか……、あの子供は、アドルフ男爵家の顔をしていましたから」

「野蛮な英雄?」

「ヘール=キャリスですよ、祈師様。しかしあれは野蛮に他ならない。いったい何人殺してきたのか、戦場でのあれはさながら鬼神です」

 カルカの言葉に、祈師は長い髪を揺らし、笑い声をたてる。

「それでは、その英雄様のために祈らなければね、カルカ。私が彼の残虐さを取り除けば、きっと私はもっと神になれる。そうでしょう? だって私は祈師だもの。祈師はみんなを救う神だと、経典にもあるものね」

 がちゃり、と戸を開けて、部屋に入ってきた、でっぷりとした体つきの男性――祈師の実父じっぷ、司教である――が「祈師様、いらないものは捨て置くようにいっているでしょう。なにもかも救うなど」と憎々にくにくしく言いながら、その茶色の目で祈師をちらりと見て「はしたない。はやく祈師様に服を着せないか」と鼻を鳴らしたので、カルカはわざと仰々しく、彼に頭を下げた。

 そんなカルカに司教は片方の眉をはね上げたが、すぐに「まあいい」と息を吐き「このたびは、よくぞ無事に帰ってこられましたな、祈師様。その御身おんみ、よもや傷などつけてはおられませんな?」

「なにかあったとしても、私の神通力でなんとでも。そうでしょう、お父様」

 そう彼女が笑った背後で、空が光る。司教は頭を抱えて「やめなさい、力を無作為に使うんじゃない」

「あら、いま聖騎士が教会に無事に帰りたいといったのよ。私、きこえてしまうのだもの……」

「そうか、そうか。まあ、まあ、それならば、祈師様。いまこちらでも聖騎士は入用ですからね。しかし、宣戦布告を王が受け取れば、この周辺にも矢が降ることになる。御身を癒して力を溜めておくのが先決ではないかね」

 祈師が「はあい……つまらないわ。ねえカルカ、おはなしでもしましょう」と退屈そうにカルカを振り向くと、カルカは「はい、祈師様」と笑って見せた。

 光が心地よく差しこむはずなのに、祈師の私室はなぜか、いつも薄暗く、冷たく感じるのだ。それも、教会のなかがいつも静かで、特にこの部屋には、カルカと司教以外にほとんど他人が寄り付かないせいであるのかもしれなかった。

 祈師はふわりと裾をひるがえし、窓辺に据えられた椅子に座って足をぱたり、ぱたりと動かしている。

 祈師は椅子の背を両手で持って、そこにあごを置き、カルカと目を合わせて微笑んだ。

「カルカの昔話をして。遊郭のお話よ」

「遊郭の話のなにが面白いのか、俺にはわかりかねますが」

 祈師の楽しそうな様子とは反対に、カルカは不快をあらわにする。祈師はそんな彼にも、ふふ、と笑って「カルカが怒るもの。カルカが怒ったり、悲しかったり、もちろん笑っていても、私はうれしいのよ。カルカは私の大事なお人形ですもの……」

 そういって立ち上がり、自分を抱きしめる祈師に、カルカはため息をつく。

 この部屋も、この教会も、この世界すら、祈師にとっては自分とカルカだけの箱庭であり、カルカにとっては、道化の芝居場であるのだ。

 祈師がカルカに覚えている親愛の情を、カルカは一切受け付けないことにしている。

 それは、カルカにとって「そうしないと面倒」だからであって、対する祈師は、お気に入りのおもちゃの従者がなにを考えていようと、一切興味を持っていないのであった。

 カルカと祈師を知る聖騎士や教会の小僧たちは、みな一様に「祈師様のひとりあそび」と笑っている。

 祈師の妹であり聖女でもある幼い少女が、祈師の部屋を見上げて、窓の外からふたりの様子を見つめていた。

 さめた目をした彼女は名をローディアと言い、祈師そっくりの外見に薄っぺらな笑顔を張り付けて、今日も身の回りの世話をたくさんの小僧に任せている。

「お姉さまのお人形遊び(おままごと)……」

 ローディアの言葉は、小僧たちに聞こえぬほど微かで、だれの耳にも入らない。ローディアはその独り言をかき消すように笑い声を立てて、窓のほうに手を振り「お姉さま!」と快活な様子で姉に声をかける。

 祈師が窓から嬉しそうに顔を出したのを、彼女も満面の笑みで迎えてみせたのだった。

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