第四章 黄旗の騎士

 トランの思い付きで、ジンは珍しく酒場に連れてこられており、二時間後にはすっかり酔って眠りこけてしまった師の相変わらずの様子に、本日何度目かわからないため息をついた。その隣でこれまたいささか酔っているらしいトランが、上機嫌に笑っていることにも、さすがのジンも心底うんざりしてしまう。

「飲めよ、ジン=アドルフ。酒は良いぞ、嫌なこと全部、忘れさせてくれるらしいからな」

「らしいとは?」と眉をしかめたジンを、トランがけらけらと笑う。

「お前の師にきいてみろ」

 トランの言い分に、ジンが「ヘールさんに、ね……」とぼやいているので、トランのほうもそんなジンの様子が面白くて仕方がないようである。

「どうして俺を酒場に?」とジンがトランに何度目かわからない質問を投げたが、トランは「まあまあ。もうすこしでわかるさ」としか言わないため、この飄々とした男に対しても、ジンはついに頭を抱え始めていた。

 トラン=マクベリーは、ヘールにとって無二の親友であるらしい。

 この場に連れてこられて、初めてジンはそのことに気が付いた。ヘールは酒場では饒舌で、トランにも気兼ねしておらず――対するトランはいつもと変わらない態度ではあったのだが――トランの前ではあの凛としたヘールも、腹に溜まったものを出せるようだったのだ。

「なるほど、だから、ヘールさんは酔い潰れるまで飲むのだ」と思うのもそこそこに、それを「一、従騎士でしかない自分に見せる必要があるのだろうか、しかしそのほかに理由などなさそうだし」と、ジンはトランが自分を酒場に連れてきた理由に、首を傾げている。

「しかし、お前は本当に無口というか、面白みがないなあ、ジン。なにか面白い話でもしてみろ……そうだ、お前はどんな従騎士がほしい? 将来、お前にも誰かしら従騎士は宛がわれるからな」

「俺の従騎士?」

「そうだ、どんな奴が理想なんだ、言ってみろ」

「トラン様の従騎士は、いったいどんな方なのです」と、返答に困ったジンが問い返すと、トランは一瞬、眼を丸くしてから、はじけるように「俺の従騎士が気になるのか?」と笑った。

「気になるというか……」と口の中で言葉を詰まらせるジンを気にもしていない様子で、トランは言葉を続ける。

「俺の従騎士はもう立派に育っているよ。育て甲斐、というものが俺は嫌いだからな。最初から秀でた才能というものが好きなんだ。そのおかげで、もうあいつは充分、立派な騎士になったよ」

「だから俺は、お前の師の考え方が信じられないし、お前を選んだのはこいつらしいなと思っても、俺はお前を決して選ばないだろうとも思うわけだ」とトランが酔い潰れたヘールを指さすのを見ながら、ジンは深い息を吐く。

「まあ、たしかに俺は秀でてはいないけれど」とジンが拗ねたので、トランは「そんなにふくれるな」とジンにアルコールが入っていない飲み物を手渡した。ジンが素直にそれを受け取るのを、トランは頬杖をついて眺めている。

「この果物も食べると良い、ジン=アドルフ。子どもはこういうのが好きなのだろう」

「誰が子ども」とうっすら頬を染めたジンに、トランは「お前以外に誰がいるんだ?」と目を細めた。

「――黒旗トオネラの団長が女だって?」

 酒場に、荒っぽい男の声が響く。声がするほうに何気なく視線をやったジンの隣で、トランが「始まったな」と小さくつぶやいたので、ジンがきょとんとトランを見た。瞬間、男の派手な笑い声が酒場中に響き渡る。

「そりゃあいい。きっとあちらの具合が良かったのだろう。国王陛下も落ちぶれたもの……騎士の中でそういうことがあったから、女が長になれるとしか考えられない。それを見抜けず、しかも黒旗の長にするとは……もしや、王に体を売ったのだろうか。あの女好きの王なら、それも十二分に考えられると思わないか……」

「下品な」とジンが眉をひそめたのと同じ瞬間に、酔いがさめたようにヘールが立ち上がり、男に酒を掲げた。

 ジンは驚いてヘールを凝視してしまったが、師の目は寒気がするほどに冷たい。

「ヘールさん?」と、不思議に思ったジンまでも立ち上がったのを、トランが面白そうに横目で見ている。

「ずいぶん面白い話だな。俺にも詳しく聞かせてくれないか?」

「おう、兄ちゃん、話がわかる」と男が言った瞬間、ヘールは薄く笑って男の椅子を蹴飛ばした。

 鈍い音が鳴り、蹴られた椅子の足にひびが入る。男が吹っ飛ばされて地面に叩きつけられた。

 男の連れ合いの青年が血相を変え「なにをする!」と立ち上がって叫んだ横面を、ヘールは激しく打ったのだった。

「ヘールさん!」とジンは叫び、次いで馬乗りになろうとするヘールの腕を両手で掴む。しかしヘールはジンをものともせず、青年に二発目を食らわせたので、ジンはいよいよ血相を変え「ヘールさん! やめてください!!」と声を荒げた。

 喧騒をさいたのは、静かな女の声だった――「ヘール」と女が一声呼ぶと、暴力を振るうヘールの腕がぴたりと止まったのだ。ヘールは女のほうを見て、女はといえば、ヘールや男たちを振り向きもせず席を立ち、勘定を机に置いてさっさと店を出てしまう。

 慌てた様子を見せたのはヘールのほうである。すばやく青年の上から退き、女を追いかけて店を出たので、そんなヘールの背を今度はジンが焦って追いかける。

 騒ぎのなかで、トランはジンがヘールを追って店を出ていくのを眺めながら「まさかカインがいるとは」と呟いたのだった。

「カイン」とヘールが何度呼んでも、女は振り返ることなく店を離れていく。

 女に追いついたヘールがその腕をとって初めて、その女もこちらを振り向いた――短い紫の髪がなびき、その眼光は鋭く、分厚い唇に赤い口紅をつけた女である。彼女が、ヘールの手を払う仕草をしたので、ヘールのほうも仕方なくという様子で彼女の腕を離した。

「カイン、すまない。頭に血が昇って」

「飲みすぎなのでは? 貴方はいつもそうね。騒ぎを起こすときは大抵、酒が入っているとき。第一、あんな風に暴れられて、この私が喜ぶとでも」

 冷たくヘールを見据えたカインの目が、ヘールの後ろを追いかけてきたジンにもちらりと止まる。ジンが「あの」と声を出すより早くカインはため息をつき、ジンを指さして「貴方の従騎士まで心配しているみたいだけれど? 情けないのも、ほどほどにしてくれないかしら……」

 ヘールの視線も自分を向いて、ジンは口ごもる。カインは目を細めた。長いまつげが揺れる様を見ながら、ジンは「この人は一体、誰だろう」と考えている。

「ジン。お前は帰れ」とヘールが言うので、ジンは頷いてヘールとカインに背を向けようとした。しかし、それすらカインには苛立つらしく、カインが眉をひそめて「従騎士を帰しても、今更ではないの。情けない」

「ジン=アドルフ」とカインが突如ジンの名前を呼んだことに、名乗った覚えがなかったジンが、驚いて顔を上げた。

カインは細い腰に手を当てて「赤旗団長の従騎士としてではなく、ヘールの甥として命じてあげましょう。この男を連れ帰りなさい」とはっきりとした語調でジンに命じ、ジンはそれでようやく、カインの正体に気が付いた――黒旗騎士団長のカイン=ビネガー

 ――そうだ、この人はきっと、ヘールさんの恋人なのだろう

 ――待てよ。……赤旗騎士団長と、黒旗騎士団長が恋人同士?

 その事実を察したとき、ジンの脳裏に浮かんだのは「それっていいのか?」という問いであった。しかし、ジンがそれを尋ねる間もなく、ヘールは苦々しい顔でジンの横を通り「……帰るぞ」

 ジンが振り返った時には、もうその場にカインは居らず、酒場の明かりと月がぼんやり浮かぶ夜空が残っているだけであった。

「あの、ヘールさん」とヘールの背中にジンが声をかけると、ヘールはジンをわずかに振り返って「情けないところを見せたな」と呟いた。ジンは返事の代わりに一度小さく首を振り、そのあとすぐに大きくぶんぶんと首を振る。

「あの」ともう一度ジンがヘールを呼び止めると、ヘールはようやく足を止めた。いつも伸びている背筋は、こんなときもぴんと一本の芯を通したようであり、それがますますジンの胸につかえてしまう。

「……叔父さんのそういう姿を見たところで、なにも思いませんよ」

 言ってすぐに「過ぎた言葉だ」とジンは思ったが、ヘールはジンをちらりと見ただけで、すぐに顔をそらして帰り道を進んでいく。

 あの騒ぎで酒場の厩に馬を忘れてしまったことに気が付いたジンは「どこかで馬車を拾わないと」と思ったのだった。

「お前に喧嘩を止めてもらおうと思っただけだよ、俺は。あの酒場に行くとお前の師が言い出した時点で、嫌な予感がしていたし。いやなあ、あの酒場、酒は確かにうまいが客の質が悪いんだ。王や騎士団への罵詈雑言、革命軍のたまり場……」

「ヘールさんは知らなかったのですか」

「まさか。知っていたからこその偵察だろうよ。カインが現れたことだけが予想外だったのさ」と笑うトランに、ジンはため息をついて「第一、トラン様が止めてくれていればこんなことには」

「それが面倒だからお前を呼んだんだよ、ジン=アドルフ」

「威張っていうことじゃないぞ」とは口には出せず、眉間にしわを寄せるジンに、トランはその心中を知ったうえで軽薄に笑っている。

 ジンはひとこと、トランに文句を言ってやろうと青旗の詰所にやってきたのだが、トランの変わらない態度にすっかり頭を抱えていたのだった。

 真昼の太陽が頭上を照り付け、トランのマントの鮮やかな青が、詰所の白い石壁に映えている。

「そんなことより、どうだ? ジン。騎士団試験の結果発表の気分は」

「そりゃあ、緊張して最悪ですよ……」

 ジンは頬を膨らませた。トランはそんなジンに笑っている。

 騎士団試験の合否が分かる目前に、主人のあんな姿を見てしまい、ジンはやはり、この頃、少し食欲が落ちてしまっているのだ。

「トラン様、分かっていて俺をあの場に連れて行ったんだな」と思えば、ジンの心労もますます増えるばかりであり、勿論、トランはそれについても全く悪びれないのだから「本当にこの人は、人でなしというのか、なんというか」とジンは呆れ果てている。

「結果発表は正午だったか? もう貼りだされているかもしれないな」

「俺は良いんです……もう少し気持ちが落ち着いてから」

 そういって腹をおさえたジンに、トランは首を傾げ「胃の腑が痛いか」と至極愉快そうにしている。

「そろそろ掲示板のところへ行ってやったらどうだ。飛竜=阿國がお前を探しているようだぞ」

 ジンは「確かに、飛竜はこういうとき、俺を探すだろうな」と慌てて掲示板のほうへと走り出した。

 友人のことを思い出した瞬間、トランへの文句を一切忘れてしまったジンの背を、トランは「若いなあ」と顎をさすりながら眺めていたのだった。

 騎士団詰め所の掲示板のほうには、すでに白旗たちの人だかりができている。

「ジン! ここだよ」と飛び跳ねている飛竜のもとへ、ジンは駆け寄った。飛竜が「ジン、ジン! 見ろ、あれだ!」と目いっぱいに背伸びをして指さす方向を見て、ジンは息をのんだ。

「黄旗騎士団」と書かれた欄に「ジン=アドルフ」と記載されている。

「ジン、黄旗だってさ!」と喜ぶ飛竜に、ジンはなにも言えず、ぐるぐると混乱する頭で「飛竜はどうだった?」と尋ね返した。

「俺は緑旗だ。緑旗だよ、ジン!」ととても嬉しそうに告げてくる友に、ジンは「そうか」と苦笑することしかできず、それもうまく表情を作れているかわからないほど、ジンは奈落に突き落とされていたのだった。

 屋敷に戻ってきても、ジンはいつも通りに仕事をすることができないでいた。

 ジンの小さな失敗が数度続いてから、ヘールは大きなため息をついて「ジン。何が不満だ」とジンを問いただした。

 ジンはヘールの察しが良いことに苛立ち「別に、なにもありませんよ」と唇を尖らせて目をそらしたが、ヘールはジンをそのまま逃がす気はないらしい。

「黄旗が嫌か」と短く問いかけるヘールに、ジンは図星をつかれてぐっと息を詰まらせる。

 目をそらしたまま「そんなことは」とうそぶいても、ヘールがジンを見る鋭い目つきは変わらない。

「なにが不服だ」とヘールが再度尋ねてようやく、ジンも観念したように「……黄旗ですよ」と返事をした。

「どうして俺が黄旗に? あんな集団の仲間にならないといけないなら、俺は騎士になんて――」

「騎士になんてならなくていい」と言葉を続けようとして、ジンはそれを飲み込む。ヘールは目を細めてジンを冷たく見据えており、そんなヘールにジンはまたもや目をそらした。

「だって」とジンは思う。以前、黄旗の騎士から殴られたジンにとって、黄旗騎士団は「下等な騎士」の集まりである。

 ジンは黄旗のことを、一方的に暴力を振るうような集団なのだ、と評価しており、それはジンが説明しなくともヘールには伝わっているのだ。その証拠に、ヘールはジンに「なぜだ」とは問わなかった。

 代わりに「では、辞めろ」とジンに対して短く言い放ったので、その言葉の冷ややかさに、ジンのほうが驚いた。

「騎士など辞めてしまえば良い。お前にその価値がない」

 ヘールの言葉に、ジンは「な……!」と言葉をつかえさせる。

 咄嗟に頬を染めたジンに、ヘールは「俺はお前に、一度選んだものを辞めたいなどと口に出すのは許さないと言ったはずだ」

「お前がいま言っているそれは、辞める理由ですらない。俺には甘えにしかきこえない」

 ジンが「ヘールさん」と名を呼んでも、ヘールは容赦なくジンを叱責する。

「出ていけ、ジン=アドルフ」

「ヘールさんに追い出されたのは、二度目だ」とジンは森の中をとぼとぼ歩きながら考えていた。風が葉を揺らす音や、ジンが土を踏む音まではっきり聞こえるほど、森は静かであった。

 夕刻を過ぎれば、人の気配よりも獣の気配のほうがあたりに満ちる。腰に差した剣に触れる癖は、ヘールの屋敷にいた間にジンが覚えた癖であり、それもヘールに叩きこまれたものであった。

「……俺、これからどうしよう」

 準備の間もなく追い出されたせいで、ジンは食事も持っておらず、ナイフと剣、そしてすこしの金しか持ち合わせていない。厩から馬を借りることもせずに出てきてしまった上、町に出るにはこの森は広すぎる。

 うんざりした気持ちで丘を下りながら、いつかの湖に出た。

 この湖にくるとジンは心が落ち着くが、しかし、今夜のこの場所は暗くよどんで見え、どこか幽霊が出そうな雰囲気さえあった。

 がさり、と背後で足音がして、ジンは驚き振り返った。そこにいた見知った相手はふうと小さく息を吐き「ああ、ようやく見つけた」

 ジンは握った剣の柄から指を離し「なんですか……」

 ジンを追ってきた人物――グレイル=デマンドがジンに「団長から話を聞いたのだが、黄旗が嫌だと駄々だだをこねているらしいな」と笑ったので、ジンはつい頬を膨らませる。

「駄々なんて」と反論しかけて、そのあとに続く言葉を飲み込んだジンに、グレイルは喉を鳴らして笑った。

「駄々だろうに、まあいい……お前は黄旗の役目を知っているか、ジン=アドルフ」

「黄旗の役目?」と眉を寄せたジンを見て、グレイルは「その様子だと知らないようだな。黄旗は、赤旗直属の育成組織だ。赤旗に入れると判断されたものが選ばれる……」

「貴族のものなども一緒くたに入れられてはいるからな、必然的に未熟なものが多くはある。黄旗は育成の騎士団。育成だ、わかるか」

「育成」とジンが繰り返す。グレイルは頷き「だが、本来ならばお前は赤旗に入るはずだった。団長の顔を立てるために、な。さて、お前自身に問うが、お前はここまで聞いて、赤旗と黄旗、どちらに入りたいと思う」

 ジンは黙している。グレイルが「答えろ」と目を細めても、ジンはそっと視線をそらすだけであったので、そのジンの様子にグレイルは鼻から息を吐いた。

「お前が黄旗に入ったのは、団長の意志だよ。お前は黄旗から入って進んでいく道を切り開かれた。それのなにが不服なのか、私には理解できないな」

「それでも嫌だと首を振るのもお前の意志、少しでも頑張ってみようと思うのもお前の意志。いつでも道を切り開くのは自分自身だよ、ジン=アドルフ。いくらおぜん立てをしてもらったからといって、それを気にしないで好きなことをする道もあれば、そこを進んでいく道もある。どちらも悪いものではない」

 グレイルは「考えろ。自分で選べ。ヘール=キャリスの従騎士なら、嫌というほどそれを叩き込まれているはず」と言い捨て、ジンから背を向ける。

 暗い湖が、生き物のように揺れている。月がぽっかりと浮かんだ水面を眺めながら、ジンは「……肌寒いな」と呟いた。

 グレイルが言っていることが、まったくわからないわけではない。その話が真実であるのなら、自分は黄旗に入るべきではないかと思う。しかしヘールに頭を下げる前に、門前払いをくらうのでは、と思うだけで、ジンの気持ちはしぼんでいくのだ。

「出ていけと言われたしなあ……」

 ヘールが認めてくれていたからこそ、黄旗に配属されたのだ、と知っても、だからこそ今回も、自分が愚かだったのだとジンは思う。

「どうして俺はこんなに不出来なのだろう」と考えるほどに、膝を抱いて座り込んでしまいたくなる。

 湖のそばに寄るほどに体が冷えていく。それと同時に思考も鈍くなっていくのだ。がさがさと、風か何かで、背後の茂みが揺れている。

「ジン!」と耳元で名を叫ばれて、ジンは心臓が飛び出しそうなほど驚いた。はっと目が覚めると、ジンは湖の淵に尻餅をついており、ジンの背を預かる格好でもうひとり、誰かが腰をついている。ジンがその人物が誰かを確かめるよりはやく、その人物はジンの頭を強くぶって「馬鹿か、お前は!!」

「へ、ヘールさ……」

 相手がだれか分かった瞬間、ジンは情けなくてぼろぼろと涙が出る。ジンの足は、冷たい水にしっかりと浸かっており、裾に染みるその冷たさで、ジンは自分がなにをしようとしたのかに気が付いてぞっとした。

 ヘールはジンの背中で、深いため息をついている。

「くだらないことをするな! 俺に怒鳴られたくらいで死ぬなんて、騎士がそんなことで自分の命を投げ打つんじゃない!!」

「お、俺だって死のうとしたわけじゃ……湖を眺めていたら、つい……」と言い訳をしながら、これでは支離滅裂もいいところだ、とジンは思う。ヘールもそう思ったようで、彼は息を深く吐いて立ち上がり「帰るぞ、ジン。……体が冷えているだろう、風邪をひく」

「それと、飛竜=阿國に礼を言え」と付け足したヘールに、ジンは首を傾げて「飛竜? どうして」

「あいつがグレイルと俺にお前の場所を伝えなかったら、お前は今頃水面に浮かんでいた。死にそうな青い顔で、屋敷に走ってきたぞ。ジンが湖の傍にいるみたいだ、なぜだか様子がおかしくて、とな」

 ジンは黙り込み、まじまじとヘールを見る。そのズボンの裾が濡れているのを見て、ようやくジンは、自分がヘールに心を開きかけていたように、ヘールもジンに心を開いているのを知ったのだった。

 届けられた黄旗の騎士服に腕を通すとき、ジンは「これでいいのだろうか」と考えていた。

 鏡の前に立って妙な顔をしているジンに、ヘールが「丈が長すぎるようだが、成長期だからこんなものだろう」と呟いているので、ジンは首を振る。ヘールはそれをどうとったのか「お前はこれから背が伸びる。まだ十五の子どもだからな」

「飛竜のところには、緑旗の騎士服が届いているのかな」というジンの言葉に、ヘールは鼻から息をひとつ吐いた。

「それはそうだろう。あいつは緑旗に配属されているからな」

「ジン、それが終わったら仕事だ」と、珍しくヘールがジンの肩をぽんと叩く。ジンは去っていくヘールの背中を見て、執務室の片隅に今日も置かれているだろう、ヘールの赤いマントと鎧を思い出した。

 あのマントを背負う騎士に自分もなれるのだろうか、と思い描いてみても、やはりこの黄色の騎士服が一番自分に似合いであって、それ以上には決してなれない気がするのだ。

 騎士団の隊服は、通常の騎士には、袖のない、頭から被るような騎士服――その騎士団の旗の色と紋章があしらわれている――が用意され、その下に鎖帷子を着るようになっている。

 団長と副団長などの団長格だけが旗色のマントを背負うことが許されており、ヘールはまさしくそれであった。赤旗になればきっとあの重厚な鎧を着るのだろう、と思い込んでいたジンにとって、鎧すら着られず、マントの着用も許されないのは、自信をなくす理由に足りるものだった。

「それでも、騎士にはなったのだ」と自分を鼓舞して、ジンは両頬を叩く。

 鏡の前から退いて、ジンは「はい、ヘールさん」と声を上ずらせる。

 そんなジンに、ヘールは目を細めていたのだった。

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