第三章 入団試験
1
「ジン、ここに書いてあることを全部やれ」
ヘールが目の前に突き出したその紙をしげしげと見て、ジンは「……はい?」と呆気に取られた。
「木刀を千回振る」「精神統一」「森を一周走って帰ってくる」「乗馬練習」……細かく書かれたそれは、まさしく、ヘールからジンに突き付けられた訓練であることは、ジンにもなんとか理解できる。
「わかるけれど……」とジンが背筋を凍らせるほど過酷なそれに対して、ジンは「はあ」や「いや、これは……」としか返事ができない。
「お前はほかの白旗たちから見ても、日が浅すぎる。入団試験に間に合わせるために、ここに書かれた鍛錬を毎日こなすんだ」
ヘールが目の前にいることすら忘れて、ジンは皺の寄った眉間に手を当てていた。
「いくら騎士見習いとして日が浅いとはいっても、まったく初日だというわけでもないのだから」といささか、
「素振りを午前中に終わらせなければならない、まだ他にも沢山の訓練が組まれているのだから」と思っていても、裏庭を覗いている太陽は、既にジンの頭上で彼を照り付けている。
たまに様子を見に来るグレイルに、非難がましい目をどれほど向けても、グレイルさえ「ほら、まだ三百だぞ」とジンに野次を飛ばしてくる始末である。
「腕が棒みたいだ……」
そういって座り込んだジンに「弱音を吐くとは」と、屋敷の壁に背を預けた格好でグレイルが言う。
「グレイル様、本当にまだ三百なのですか? グレイル様がいない間にも、俺は相当振りましたよ」
「三百だよ。執務室から見て、きっちり数えていたからな」
グレイルの慈悲のない言葉に、ジンは顔を蒼白にする。
「すこしくらい容赦してくれればいいのに」とは思っても、ヘールやグレイルが、ジンにそんなものをかけてくれるはずもない。
「お前はまだ随分甘えたがりのようだな。こんなことで弱音を吐くとは」
「突然、千回振れだとか、森を走ってこいだとか言われたんですよ。本当にほかの見習いもこんなことを?」
「しているかもな」とグレイルは曖昧に返事をして、薄ら笑う。
「本当にこの人は」とジンはグレイルと、こんな命令を自分に下したヘールを恨みそうだった。
いや、むしろ「もう恨んでいる」と言った方が良さそうだな、とジンは深い息を吐く。
ジンが木刀の素振りと乗馬の練習を終えたときには、もうすでに日が落ちていた。風呂に入り服を着替えてから、ジンもやっとの夕食にありついたものの、腕が痛くて持ち上げられず、悲しいことに食欲もほぼわかず、あまり食べられずに終わってしまった。
その日の夜、珍しくヘールがトランを連れて帰ってきた。
「酒場ではなく家で飲む!」と笑うトランを見ながら、ジンは心の中で「不公平だ!」と彼らに悪態をつく。
「不公平だとよ、ヘール」
トランがヘールに告げ口したせいで、ジンはぎょっとする。しかし、トランにいたずらのようにそう告げられたヘールも、鼻から息をひとつ吐いてジンをちらりと流し見ただけで、ジンに手を軽く振って応接間に行ってしまった。
「トラン様は、もしかして心を読んでいる?」
ジンは部屋に戻っても、痛む体を休めながら、悶々とそのことについてばかり考えている。心を読まれたかのようなタイミングで彼がヘールに、ジンのことを言いつけるのはよくあることだったのだ。
何度もそれが続けば、さすがにジンもそんなことを考えてしまう。
――しかし、いくら魔法に優れていると言ったって、心を読むなんて、人間離れしたことができるはずは……
「いや、あの人ならあり得るな」と呟き、ジンは目を閉じる。疲れた体には小さくて狭いベッドでさえも極楽であり、ジンは意識を失うようにそのまま眠っていた。
「ジン、眠ったようだな」
トランが酒を煽りながら言うと、ヘールはトランに視線を合わせた。
「あいつの覗き見が趣味か?」
「いやはや、面白いガキだと思ってなあ、ついだよ」
「面白いか。まあ、それには同意しても良い」
ヘールの言葉に、トランは口角を上げる。
「珍しい。お前が自分の本音を認めるなんて」
「考えていることなんて、自分のことも、ジンのことだって手に取るようにわかる。お前みたいに直接聞かずとも、な」
「それじゃあ、お前がジンをどういう風に思っているのか、聴かせてもらおうか」
トランのからかいに、ヘールは珍しく敢えて乗ろうと思ったようだった。彼は酒気を帯びた目を穏やかに細め「……迷惑な従騎士だ」
「六点だな、過去最低点だ」
「それはよかった」
言い合って、彼らは笑う。手酌でさらに酒を酌み交わし、そうして夜はどんどん更けていった。
酔いつぶれたヘールを見ながら、酒瓶を傾けて「迷惑な従騎士ねえ」とトランは笑った。
「そんな姿を、迷惑な従騎士に見せるものだろうかね……もしそれが本音なら、俺にはまったく理解できそうにないなあ」
「おい、誰かこの馬鹿な英雄殿に毛布を持ってこい」と言って立ち上がり、トランはこの屋敷の従者を呼びに応接間を出た。ヘールは机に突っ伏して、すっかり眠りこけていた。
2
ジンがヘールから言いつけられた訓練を行うようになって、幾日か経った。
棒のようになった腕を垂らし、ヘールに言われた回数もまだこなしていないのに、ジンは剣から手を離す。
治りきっていない筋肉痛も、重たく感じるようになった腕や足腰も……なにもかもに、わけもなく苛立ってしまう。
「もういやだ」とジンが呟くと、それを眺めていたグレイルが、ジンをとがめるでもなく、無言でその場から離れていく。
「これがヘールさんのやり方なら、ついていけない」
――期待されているわけでもない、信頼されているわけでもない。そんな自分が、こんな風に、突然一方的に訓練だとしごかれだしたところで、頭角を現すはずも、やる気がでるはずもない
――いや、むしろ、こんな鍛錬を積まないと騎士になれないというのなら、そんなものこちらから願い下げだ
ジンはここ数日で、そんなことまで思うようになっていた。
「負け犬の思考だな」と頭の片隅からおのれが囁く。それすら、今のジンには腹立たしさにしか繋がらなかった。
ジンは毎日「木刀を律儀に五百回以上、振れるだけ振り、一日の終わりになってやっとほかの訓練もすこしかじる」といったように、自分なりに工夫して、どうにか言われたことをやり遂げようとしてきた。
しかし、どうやってもヘールのいうものすべてをこなすなんて、いまのジンには無理でしかなく、そこに顔を出して自分を激励するわけでもないヘールに、苛立ちや不満などよりも「だめな自分が、遂に見放されたのだ」と感じていた。
「やってらんねえっての」
――この胸苦しさは、一体何なのだろう
ジンは、泣きたくもないのに零れ落ちる小さな涙をぬぐって、頭を振った。
「俺は、騎士になんてなれない」と思えば、じわりと何度でも涙がこみあげてくる。
――最初から、騎士になんてなりたくなかったのだ。それをはっきりと、目に見える形で「お前はそうなれない人間なのだ」と突き付けられただけだ
「そのためにヘールはこの訓練を用意したのだろうか」と、いま感じている絶望のようなものが、ジンにはもはや笑えてくる。
――厄介払いするにしたって、もっとほかの方法もあったでしょう?
父のゼナーゼへの手紙にそう書いて、何度も消し、結局ジンはその一文ごと、今日書いた手紙を丸々、蝋燭で丹念に燃やした。
「負けを認めるようで悔しいのか、それとも」と考えてみても、思考はいつもそこで停止してしまうのだ。
「厄介払い」「騎士にはなれない」という言葉が、頭に張り付いてしまって、息ができなくなる。心身ともに極度に疲れたのか、眼がすっかり冴えてしまって、いつものように眠ることさえもできなかった。
ジンが机に突っ伏して、それでもそのまま寝ようとしたそのときだった。
「ジン」と、ヘールの愛想のない声が、扉の向こうからジンを呼ぶ。
ジンは嫌々ながらも顔を上げ「いつも絶対に訪れないくせに、なんでこんなときに」と拗ねたように考えながら、渋々「はい」と返事をする。
ヘールが部屋にはいってきたとき、ジンは我知らず、ヘールに「なんですか」と、決して主人に対するそれではないような、底冷えする声で要件を問いただしていた。
しかしヘールは、そのジンの威嚇のような態度に、表情をちらりと変えることもない。
「訓練を投げ出したそうだな」
ヘールは、開口一番にそう言った。ジンの眉が跳ねる。
「千回なんて、無理です」と、ジンは子どもっぽいと自分でも思うような態度で言い返したが、しかし、ヘールは感情が読めない目をしてジンを見つめているだけである。
「千回振るのが難しいか」
「当たり前でしょう」
「振ろうとはしたのか?」と、ヘールはすこし声を和らげる。しかし、ジンにはなぜ、こんな幼稚な喧嘩を売る自分に主人が声を和らげたのか分からず、それすらもジンの神経を逆なでするばかりであった。
「振ろうとしましたよ! でも、できなかった!」
声を張り上げ、ジンは椅子を蹴って立ち上がる。ヘールはそのとき一瞬、降り積もった灰だけの蝋燭皿に置かれている、蝋燭の殻を見た。なにも言わずに目を逸らし、主人に対してはじめて激昂したジンに視線を合わせる。
「俺は騎士になんてなれない! こんなところ、いますぐにでも、出て……」
「出て」とまで感情の赴くままに叫んだのに、しかし「出ていく」という言葉が最後まで告げられず、ジンはヘールからゆるゆると目を逸らした。
昂ぶったせいで、ジンの目に涙が溢れてくる。
ヘールは動こうともせず、ただそんなジンを見つめていた。
3
ヘールは、ジンに「逃げるのか」とは言わなかった。しかし静かに荷物をまとめだしたジンに近づき、床に座り込んだジンと同じ目線になるよう片膝をつくと「ジン。努力は裏切らない」
「……は」
突然のヘールの言葉に、ジンは呆気に取られて顔を上げる。ヘールは笑みを浮かべてはいなかったが、その声を優しく感じて、それがますますジンを混乱させる。
「千回振れと言ったな。お前はそれを達成しようとした。ほかの訓練も、日を変えてでもやり遂げようとした。違うか」
「そんなの、できなければ何の意味もないでしょう」
ジンが言い返せば、ヘールは柔らかく目を細める。それがヘールの笑みであるのだと、ジンはそのときなぜか気が付いた。
「赤旗の騎士になれ。そのために、今は鍛錬に励むんだ。努力は絶対にお前を裏切らない」
「夢が見つからないなら、俺が与えてやる」とヘールは言う。ジンは目線をゆっくり床に落とし、まとめようとして散らばせてしまった荷物が視界に映り――ジンは再びゆるりとさ迷うように視線をヘールに移す。
「何のために騎士になるのか、というのなら、いまは俺の為でも良い。闇雲にでも進んでいけば、いつか理由だって見つかるだろう」
「なにを言って……」
ジンは口答えをするような声でヘールに返す。ヘールは目を細めたまま「それが本当に嫌なら、出ていくんだな。選択権はお前にある。お前が出ていくというのなら、俺がお前を従者か警備兵に斡旋しても良い」
「ヘールさん、本気で、そんな」
「選ぶのは、お前だ。ただし、ひとつを選んだら、他の選択をすればよかったなどと口に出すことは許さないからな」
「できるな?」とヘールが鋭くジンを見据える。ジンはその眼の変化を見ながら、いつの間にか唾を飲み込んでいた。
「三日やるから、必ず答えを出せ」と言われ、ジンは三日考え込んだ。こうしてきちんと先の選択肢を与えられて初めて、ジンは「行く場所がないから騎士をやっている」という自分の境遇に、ほかならぬ自分が甘んじていたことに気が付いた。
「行き場がない、だから仕方なく」と思うのは、とても楽なことだったのだ。
ジンの目をまっすぐ見て、ヘールはジンに「自分で王国の騎士になるかどうかを選べ」と選択肢を与えた。
「将来の夢がないから立ち止まるというのなら、俺のための騎士になるところから始めても良い」「それが嫌なら、警備兵にでも、従者でも、好きなものになれば良い」と……「ジンに自分自身の行く末をきちんと見据えさせようとしている」というのは、さすがのジンにもよくわかる。
だからこそ迷う。軽率に答えていいものではないのだと理解できるからこそ、選択することに恐怖があるのだ。
――俺は、そもそもなにになりたいのだろう?
この三日、ずっとそれを考えてきた。
「なに」と何度考えても、答えが一向に掴めない。飛竜には「警備兵か紫旗がいいところだろうな」と笑ったけれど、こんなところで躓いているような自分でも「それ以外のなにものか」になりたい、と思っているような気がするのだ。
「……赤旗の騎士、か」
三日前、荷物をまとめるジンに、ヘールが告げた言葉だ。たった一度、一瞬だけ、ヘールはそう言ってくれた。
「俺のための騎士になれば良い」とジンに目を細めたのだ。
――それに、甘えてもいいのだろうか?
「甘えることはこわい」といまのジンは思う。そうやっていろいろな境遇や言葉に甘えてきたからこそ、ジンは挫折したのだ。
ジンには、ヘールの言葉に寄り掛かることが「家から出され、行き場がないから」「次男だから」と言って目を瞑ってきたいままでと、まるで変わらない気がして仕方がなかった。
「馬鹿真面目だなあ、ジン=アドルフ。もっと柔軟に考えられないのか? 場合によっては、三日という期日は短すぎると駄々をこねれば良いだろう」
久方ぶりに白旗の訓練所に出てきたジンに、トランがからむ。
ジンはここ数週間ずっと、ヘールに出された自主練習ばかりを屋敷で行っていたのだが、この三日だけ、考えをまとめるために、ジンは白旗の訓練所に顔を出していたのだった。
トランの青いマントを眩しく見ているジンに、トランは「おや」と言ってほくそ笑む。
「青旗に入りたくなったか? お前は素質がないからなあ、俺の一声が必要になると思うが……」
「俺の力は甚大だぞ、ジン。やってみるか?」とトランは笑う。ジンはかぶりを振った。しかし、いつものように完全に「入らない」と否定することもしないでいるジンに、トランは顎に手を当て、考えるような素振りを見せる。
「道が見えないのは、若さの証拠だ」
ジンは気が付くと、離れていくトランの背中を追いかけていた。
「トラン様」と声を掛ける。トランは自分にジンが声を掛けるのを、最初から分かっていた様子で振り返った。
「俺は、甘えているのでしょうか?」
ジンの曖昧な問いかけに、トランは「ヘールからの話か?」と言葉を補足する。ジンは稍々間を置いて、ゆっくり頷いた。
「甘えて良いものと、悪いものはある」
「良いか、ジン。俺がお前に答えをやるのは、俺が優しいからでは決してない」とトランはジンの背丈に合わせてすこし屈む。
「鬱陶しいほど迷うお前を見ているのも楽しいが、俺はあいつの酒飲み仲間だからな。お前を失くしたあいつがこれ以上溺れるのは、得策じゃないと思うわけだ」
ちらりと含んだ視線を、ヘールがいるだろう訓練所の方向に送り、それからトランは再びジンに目線を合わせ、口角を上げた。
「青旗に入団するなどと言い出したら、それこそ甘えだな。お前はなにを選んでも良いが、俺やほかの奴に凭れるのだけはお門違いだ」
そのトランの言葉に、ジンは「ほかの……」とおうむ返し、唇を一の字に結ぶ。
「答え合わせはここまでだよ、ジン=アドルフ」とトランは笑んだ。
「あいつの言う道というものは、一直線に歩くことだけが正解なものではない。ジン、お前が歩きたいと思う道だけを見てみろ。選ぶなんて考えるな。見るんだ、前を向いて、な」
4
朝、目が覚めたとき、ジンはまだ夢見心地であった。今日は騎士団の入団試験の日であり、それはジンにとって、ヘールの言葉を受け取るか否かを決める日でもあったのだ。
朝の支度の際も、ジンの気分は高揚しており、今日はヘールから特別に「従騎士の仕事はしなくても良い」と言われていたのに、ジンは従騎士としてヘールの仕事の手伝いもきっちりと終わらせ、試験場となる騎士団の訓練所に向かった。
ジンが行った試験は、身体能力に関するものばかりである。緑旗の試験はほかと違い、筆記の試験が主であるため、午前の基本的な能力を調べたあとすぐに、飛竜はジンとは別の詰め所に通されていった。
友人と別れても、ジンは落ち着きがない様子であった。
午後の試験は一番の関門である、見習い同士の組手である。それぞれ得意な武器を持ち、一対一で戦うもので、全部で三回の勝ち抜き戦になっており、ジンは首尾よく二回戦までを突破していた。
三回戦――決勝戦――では、ジンが気付くと、土埃の中にいた。前から向かってくる白旗の騎士の刃を薙いで、自分の持つ刃をその胴体に突き付ける。
「勝負あり!」と太い声が響いて、ジンはそこではっと我に返った。
――入団試験が、終わった
ジンはあれからはっきりとした答えを見つけ出せないまま、しかしヘールから何のお咎めもなく、この日を迎えていた。その結果は一週間後に出る。ジンには、自分のなにもかもが終わったような気がした。
ヘールの屋敷にいて、従騎士として過ごした時間のすべてが、まるで白昼夢かなにかだったかのようで……そしてそれが幕を下ろしたのだ、という気がしてならない。
飛竜と帰り道になにか話した記憶はあるが、ジンが気が付くと自室にいた。
「マッチ箱だ」と思ったこのちいさな部屋も、いまとなれば居心地が良い、気に入っている「自分のもの」のひとつである。
黙り込み、ジンは部屋を眺める。涙が溢れてきそうな気がしたが、ジンはもはや自分はなにも感じていないのを知っていた。
――俺は、なにをしていたのだろう……
息を吐き、ジンは顔を洗いに洗面所に向かう。用事が済んだ後、ヘールの執務室に顔を出し、書類を手癖のように整理した。
ぐるりと部屋を見渡してみて、部屋の隅に、傷だらけの甲冑と、その肩にかけられたあの赤いマントを見た気がした。
実際は、ヘール自身が身につけているのだから、甲冑もマントもここにあるはずがない。だが、そんな幻覚のようなものを見た瞬間、ジンは理解した。
――赤旗の騎士であり、英雄のヘール=キャリス。そして、その従騎士だった自分
子供のころからの憧憬は、いまもジンの胸の内に隠れてくすぶっているのだ。それに気が付かない振りをして「叶わない夢を見るものではない」と耳を塞いでいるのは、とても簡単なことで、楽な道でもあった。だけど……
ジンは、甲冑のあった場所に近寄る。そちらに手を伸ばして、しかし指先が空を切る。硬く手のひらを結んで、ジンはやっと前を見た。
――夢が見つからないのなら、俺のための騎士になれ
――甘えて良いものと、悪いもの
――自分が歩きたいと思う道を、見ても良いのだ。歩いてみても良いのだ……
「選ぶんじゃなくて、見る」
呟き、ジンは久方ぶりに深く息を吸った。錆びた胸に、やっと自分の呼吸が抜けていく。
ジンは、慌てて馬屋から馬を引っ張り出し、森を駆け抜けた。王城の西の塔まで馬を走らせ、降りてヘールの姿を探す。辺りはもう暗くなっていたため、ジンはたいまつの明かりを頼りに進んでいった。
前方から十数人の騎士が出てくるのを見て、ジンはそちらに目星をつけて走った。
「ヘールさん」
ジンは肩で息をしながら、ヘールの姿を認めて呼びかけた。ヘールはちょうど入団試験についての会議のあとだったらしく、隣の人物になぜか頭を下げ、ジンのほうへと近づいてくる。
「どうした」と短く訊ねたヘールの後ろから、トランが面白そうにジンを見た。
「俺、その……」
「ジン=アドルフじゃないか。団長、彼に使いかなにかを?」
ジンに気が付いたグレイルが、気安くそう声をかける。ジンは頭を下げて「いや、使いでは」と口のなかで呟いた。
「今回の試験、よくやったな、ジン=アドルフ。なかなか見応えがあって、こちらも楽しかったよ」
グレイルが不意にかけたねぎらいに、ジンはきょとんとしてしまう。
「……えっと」と返す言葉に窮していたジンを見て、ヘールは珍しく口の端をゆがめた。
「まあ、あれだけ訓練をすれば、他の者より見られるくらいにはなる」
「ああ、あのひどい訓練」と笑うグレイルに、ヘールは鼻から息を吐く。その後ろから、丸眼鏡の気難しそうな男が「体を痛めたらどうするんだ」と呟いたのがきこえて、ジンはこの騎士たちがなにを言っているのか、ますますわからなくなる。
ジンの混乱を読んだトランが、ジンの傍に寄ってきて、耳打ちするように呟いた。
「ヘールが無理難題を吹っかけたのは、なぜだろうな、ジン? 考えたことがなかっただろう」
「トラン。余計なことをいうな」とヘールがトランを睨みつける。それからヘールは目を白黒させるジンを流し見て「ジン」とジンを呼びつけた。
「屋敷に戻るぞ。お前の要件はそれだろう」
「ヘールさん、俺は」
ジンはヘールのあとを、早歩きでついていく。ヘールは何も言わず、こちらを振り返りもしない。
「俺は」と再び言葉を詰まらせて、ジンは足を止めた。するとヘールもやっとジンのほうを肩越しに振り返る。
「俺、ヘールさんの従騎士に、なろうと思ったんです」
小さな声ではあったが、それがジンの一所懸命だった。ヘールは足を止めてジンのほうを向き、首を傾げた。そんなヘールを見ながら、ジンは言う。
「俺、自分が赤旗の騎士になれる気なんて、全くしません。だけど、ヘールさんの為の騎士には、なりたいと思っています」
「英雄ヘール=キャリスの為の、従騎士になりたい」と、ジンの言葉尻が震える。ジンの言葉に、ヘールは黙りこんでいる。
「おかしな答えだっただろうか」とジンが心配になってその顔を覗き込むように目線をあげたとき、ヘールがやっと口を開いた。
「上出来だよ。お前にしては及第点だ。よく考えたみたいだしな」
そう言って笑ったヘールの表情が、ジンの目に焼き付く。ジンは瞬きをして、やっと笑った。ヘールに向かってジンが笑顔を見せたのは、そのときが初めてだった。
5
ヘールの屋敷で酒を酌み交わしながら「また重荷が増えたな」とトランが声を立てて笑った。ヘールは酒を流し込んで、この男にしては珍しく笑みを浮かべる。
「俺は満足しているよ。今日は気分が良いからな、お前の減らず口も、まあ許す」
「従騎士までお前の荷物になりたいときて……お前の周りは、なにからなにまで重たいなあ、英雄殿」
「それが英雄っていう看板だよ。それをわかっていて甘んじているのは、俺だってそうだ」とヘールは盃に口をつける。そんなヘールにトランは、獲物をいたぶる目で「そう言って酒に逃げるんだろう、お前は。それとも恋人に甘えるのか?」
「俺が恋人に甘える男に見えるか?」
「見えるね。べろべろに甘えるんだろう……身の毛がよだつな。この話はやめよう」
「お前から振っただろう」とヘールは笑う。そんなヘールの様子に「これは本当に気分が良いと見た」と、思考を読む必要がないほどはっきりと、トランにもヘールの上機嫌が伝わってくる。
「よし、今日はこれから酒場にいかないか? お前がおごるんだ、ヘール」
トランの冗談に「おごれと言われて頷くと思うか」とヘールはさすがに不機嫌そうに目を細める。
「お前の、おごれ、は頭がおかしい額になる」と不満そうにしながらも、酒瓶が空になったことに気が付き、ヘールはトランをぼんやり見た。
「ほらな。その酒も酒場にいけと言っているぞ」とトランが軽口を叩き、それでヘールは渋々椅子から立ち上がった。
「言っておくが、俺はお前には絶対におごらない」
「赤旗の団長がそんなことを言うのか? それでは団員にけちだとののしられるぞ」
「上等じゃないか」と肩を揺らすヘールに、トランは「全く」と呟いた。
「どうやって酒を飲ましてもらおうかな」と次に行く酒場のことを考えながら、トランとヘールは屋敷を出る。
ヘールがちらりと、灯の消えたジンの部屋の方向を振り返ったのを、トランは知っている。トランは「まあ、今日くらい、俺がおごってやっても良いかも、な」と呟いた。「祝い酒をしよう、ヘール。これからが本番だ!」
「どこまで飲めるだろうな。賭けるか?」
珍しいヘールの冗談に、トランは呆れてしまい「賭けた記憶すら忘れる癖に、なにを言っているんだ。やめておけよ」
「そう言って、賭けに勝ったぞと俺の財布から金を抜くんだろう」
「なんだ、そういうときばかり意識があるのか……」
「今日はカインに会いたいな。そういう気分だ」とヘールは熱に浮かされたように呟く。カイン、という名をきいて、変な顔をしたのはトランのほうだ。
「それこそやめておけ。部屋から蹴りだされるだけだぞ……」
「俺のカインはそんな女じゃない」
「どう見てもそんな女だけどな。あの暴れ馬をよく手なずけたよ」
「可愛いところがあるんだ、あれでもな」と、ヘールは夜空を見上げている。その目がなにを見ているのかを知っているからこそ、トランは「好きにしろ。じゃあ、別行動だな」とヘールに背を向けた。酒場のほうへと歩いていくトランの背をちらりと見てから、ヘールも目当ての場所へと足を進める。
蹴って追い出されるだけでも、今日は恋人のもとに行って、自分に迷惑ばかりかけてくる甥の話を、存分にしたかった。
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