第二章 白旗

「なんだか騒がしいな」とジンは、嫌な予感に顔を強張らせながら階段を下りていく。玄関のほうに顔を出すと、予想が的中したことがすぐに分かって、ジンは深いため息を吐いた。

「トラン様」とジンが小さく声を掛けると、ジンのことを知っていたかのような素振りで、その男はにんまり笑う。

「ジン、お前の師のお帰りだぞ」と、自身が肩に担いでいる、酔いつぶれたヘールを指さした男は、トラン=マクベリーだ。青旗マクランの紋章を片頬に刻んだ彼は、緩く結った黒髪を右の肩に垂らしているなかなかの美男である。しかしジンは、彼が一体何者で、どういう経緯で毎夜ヘールをこんな状態にしているのかを、一切知らない。

「そこらへんに置いておいてください」

 あっさりそう言って背を向けたジンに、トランは唇を尖らせる。ジンは一瞬見ただけで、主人がどんな状態なのかわかってしまい、舌打ちをしそうなほどであった。

 ――あの英雄然としたヘール=キャリスが、毎夜こんな状態で屋敷に帰ってくると知っていれば、俺はこんなところに来なかったのに!

 ジンの言う通りに玄関にヘールを寝そべらせて、トランは片手をあげ飄々ひょうひょうと帰っていく。うめき声をあげる己の師にうんざりしながら、ジンは使用人が、いっさい近寄ってこないことにも悪態をついた。仕方なくヘールに寄っていき「ヘールさん」と声をかける。

「起きてください。部屋にいきますよ」

「ジンはどこだ……」とうわ言のように呟くヘールに対して、ジンは盛大に息を吐く。ヘールが話すたび、いや、近づいただけでもわかるほど、酒の臭いがジンの鼻を刺す。

 軽装とはいえ筋肉質な大の男一人を抱えていくのは、ジンにとって嫌な仕事だった。ヘールの腕を肩に回して腰を支え、ずるずると引っ張っていく。

「このままではきっと俺は、腰を痛めてしまうだろうな……」と、ジンはいつも思っている。

 私室までヘールを引きずり、やっとベッドに寝かせてからジンは凝り固まった体を伸ばした。はあ、と三度目の深いため息をこぼして、布団をかけることもせずにさっさと部屋を出る。廊下の隅からこちらを見ている使用人が、ジンの後にそそくさとヘールの部屋に入り、その体に布団をかけてやっているのが、開け放たれた寝室の扉から見えた。

 ジンが従騎士としてこの屋敷にやってきて、二か月が経とうとしている。ヘールの命で鎖帷子を着込んだジンは、グレイルによって屋敷を連れ出されることになった。馬に乗って森を走り抜け、王城の奥まで行く。

「グレイルさん、なんで城に?」とジンが訊いたときには、グレイルは「舌を噛むぞ」としか言わなかった。

 王城の奥、西の塔と呼ばれる場所は、ジンもなんとなく知っていた。謀反犯を収容する場所だったここは、いまでは王国の騎士団の詰め所となっている。これから何が始まるのか、なんとなく予想はできていても、ジンを西の塔に連れてきたグレイルが無言であるため、ジンも口を堅く結んでその後ろをついていくだけに留めていた。

 グレイルがぴたりと馬を止める。ジンを振り返ったことで、ジンも目当ての場所にたどり着いたことを知った。そこが騎士の訓練場であることがジンにもすぐにわかったのは、そこにいた数多の騎士たちが皆、各々の武器で組み合いをしていたからだった。

 そうしている騎士たちはほぼ全員が、王国の騎士である証明の旗色の騎士服を着ておらず、鎖帷子だけの軽装をしている。それよりさらに奥からは、この場よりもさらに激しく打ち合っている音がきこえてきていた。

白旗イノセントの鍛錬所だ。今日からここで、お前も鍛錬をするように」

 グレイルの説明に、ジンはきょろきょろと辺りを見回す。そこに飛竜=阿國と名乗ったあの少年の姿を見つけ、ついじっと飛竜のほうを見ていたジンの視線を追って、グレイルは小さく笑った。

「飛竜か?」とグレイルに問われ、ジンは咄嗟に「いえ」と目を逸らした。

「白旗の鍛錬」というものが何であるかを尋ねながら、その間にジンはそもそも「白旗とは何であるのか」をグレイルに教わった。

 グレイルによると「白旗」とはその旗色の通り「純粋」「無垢」なものであって、つまり「何色の旗にも染まっていない騎士」「旗の決まっていない、見習いたち」という意味であるらしい。

 その説明に「なるほど、だから白なのですね」とジンは真面目な顔で頷いた。騎士見習いたちの集団である白旗に、飛竜が混じっているということは、飛竜もやはり従騎士であって、ジンと同じような身分であったのだ。

 グレイルと別れたあと、ジンは飛竜に寄っていって、後ろから「飛竜」と声を掛けた。飛竜は呼びかけられて初めてジンに気が付いたらしく、びくりと体を竦め「うわ! びっくりした!」とジンを振り返ってさわやかに笑った。

「なんだ、ジンも今日から鍛錬か?」

 底抜けに明るい声で訊ねられ、ジンも笑って頷く。

「飛竜、ここで鍛錬していたんだな」とジンが言うと、飛竜は「まあな。俺には鍛錬が必要あるのか、よくわからないんだけどな。それより座学をしたいんだ」

「座学?」

 ジンが問い返すと、飛竜は肩に木刀を担ぎ「俺、緑旗メディクスに入りたいんだよ」

 緑旗は、医療を担当する、王宮の医師団である。

「なるほど、だから座学か」と、ジンは目を丸くした。

「緑旗なんて目立たない団だ」と思っていたジンは、そこに志願している見習いが近くにいることを知って、初めて騎士見習いを「面白いな」と感じる。

「ジンは何旗になりたいんだ? 赤旗団長の従騎士なんだから、やっぱり赤旗か」

「いや、俺はまだ何になりたいとか、そういうのは」

 言葉を濁したジンの視界の端で、青いマントが翻る。ジンは突然目に入ってきたそのマントに驚き、振り返ろうとして、鼻っ面を彼の胸にぶつけた。彼はいつもの嫌らしい笑いを浮かべて、ジンの肩に手を置く。

「ジン=アドルフ、それじゃあ我が団に入るか?」と笑った彼に、ジンは益々目を見開き「トラン様」と彼の名を呼んだ。

「ううん、青旗に志願するのか……しかし、お前にその素質はなさそうだなあ」

 勝手に話を進めるトランについていけず、ジンは咄嗟に「どこから出てきたんですか」と自分が気になっていることをまず尋ねた。そんなジンに、飛竜は「今言うこと、ほかにあるんじゃないか、ジン」と呆れている。

 トランはわざとらしく首を傾げ「俺は城のすべてを見ているんだ。どこからなんて、野暮、野暮……」

「そんなくだらない質問は良い。お前が青旗に志願していると知ったら、ヘールが悲しむぞ」

「団長、ジンは青旗に志願してはいないのでは?」

 さすがに混乱しているジンを後目しりめに話が進んでいくのが可哀想になったのか、飛竜がそう言う。

「団長」とトランが呼ばれたことで、ジンはやっとトランの言葉の意味を知った。

「青旗団長? トラン様が?」と声を上げたジンに、トランはジンをげらげら笑う。

「気が付いていなかったものな、ジン=アドルフ。迂闊だなあ」

 トランが青旗の騎士団長だということよりも、ジンはトランが王宮の騎士団に所属していることすら、全く察知していなかったのである。

「え、ジン、知らなかったのか?」と驚いたのは、飛竜のほうで「団長なのか」と驚かれた本人であるトランは、いまだジンに腹を抱えている。

「酷い人だな……」と飛竜があきれて呟いた。

 白旗としての訓練の合間、ジンは飛竜と連れ立って、各旗の団員たちの訓練を見に行くことがあった。飛竜が好んでジンの手を引いていくのは大体赤旗の訓練であり、ジンはそれを「なぜだろう」と思っていた。

「緑旗に志願しているのに」と飛竜に訊ねても、飛竜は「まあまあ」と適当に受け流すばかりである。

 ジンはそうして赤旗の騎士たちを見るうちに、鍛錬場の隅に立ち、赤旗と黄旗の鍛錬を見ているヘール=キャリスに、少しだけ興味を持つようになっていた。

 各旗の騎士団員の鍛錬場は、白旗たちの鍛錬場の奥にあり、黄旗と赤旗が同じ場所で訓練を行っている。

 黒旗トオネラは近衛兵であるためにそれ専用の場所があるらしく、魔法使いの集まりである青旗マクランも全く別の場所、座学中心の緑旗メディクスは施設内であり、女性中心の桃旗シェーンはもっと小さな場所で鍛錬をつんでいるようであった。

 だからこそ、自分たち白旗の鍛錬所に一番近い、赤旗と黄旗の鍛錬所に飛竜はジンを連れてきていて、しかしそれ以上に「飛竜はどうも、赤旗に憧れがあるというより、黄旗を嫌っているようだ」とジンは思い始めていた。

 今日も、赤旗の騎士たちの打ち合いを見ている飛竜の目を盗み、ジンはヘールを観察していた。揺らいだ影から、ヘールの傍にトランが姿を現すたび、ジンは反射的に目を逸らす。最初はトランの出現の仕方に驚き、まじまじと見ていたジンも、この頃になると、それも当たり前のものとして受け入れはじめていた。

 ヘールの耳元でトランがなにかを囁くと、ヘールは腕を組んだ格好のまま、ちらりとジンの方へ視線を寄越す。ジンはそれに気が付き、体を小さくするように背を丸めた。

 しかし、ジンは同時に知っているのだ。ヘールは決してジンに声を掛けたり、傍に寄ってきたりはしないのだと。

 今日も、ヘールは二日酔いのはずだった。ジンがヘールを見ているのは、ヘール本人はきっと頭が痛み、太陽も黄色く見えているはずなのに、そんな彼がまっすぐ正面を見て、背筋を伸ばし、青白い顔色も隠して堂々と立っているからだった。

「よくやる」というより、その姿に呆れてしまう。

「どうして、ヘールが弱っていることを誰にも言わないんだ?」

 不意に傍からトランの声が降ってきて、ジンは考えを読まれたことと、その突然の出現に驚き咄嗟に声を失った。はくはくと口をあけるジンを見て、トランは目を細める。

「自分の主人の地位が落ちるのが、怖いか」

 その言葉に、びっくりしていたジンの体が、瞬時に冷たくなる。

「どういう意味ですか」と、ジンは気が付くと冷ややかにトランに訊ねていた。

「自分で考えろ」というヘールの口癖が、小さくきこえた気がする。それでも、ジンは敢えて言葉を撤回しなかった。

 トランはジンに薄っすら微笑み「どういう意味だろうな。お前は分かっている。違うか」

「俺はただ」とジンは、トランに言い返そうとして、うまい言葉が出てこないことに頬を赤く染めた。ゆるゆると目線を逸らしてしまう自分が情けなくても、トランの言っている通りだと認めたくなくても、だからと言って、ヘールの醜態を周りに露見したくない理由が、ジンではうまく説明できないのだ。

「英雄が選んだ従騎士としては、まあ、上出来」

 謳うようにトランが呟いた言葉が、うまく聞き取れずにジンは顔を上げる。訝しんでいるジンの顔を見て、トランは声を立てて笑った。

「お前はきっと、面白い騎士になるぜ、ジン=アドルフ」

 トランが霧のように消えていったあとで、飛竜が小走りでジンの元に戻ってきた。

「いつの間に居なくなっていたのだろう」と思うのもそこそこで「ああ、だからトラン様が俺の元にきたのだ」とジンは合点がいった。

 飛竜はトランと話すジンを遠くから見ては居たらしく「青旗団長と、何の話をしていたんだ」

「いや、なんでもない。あっちが絡んでくるんだ」

 ジンは故意に、トランに非難めいた言い方をする。そんなジンに、飛竜はなにを思ったのかちょっと笑って「ジンも、大変だな。団長たちに絡まれるなんて、同情されるか嫉妬されるかだぞ」

「同情してくれ」と肩を落とすジンに、飛竜が笑う。

「そういえば」とジンが飛竜に目を合わせると、飛竜は「うん?」と首を傾げた。

「飛竜はさ、なんで緑旗の座学を見に行こうとしないんだ」

 ジンの問いは、飛竜にとって思いがけないものだったらしく、飛竜は目をぱちぱちと瞬く。それから「ああ……」とジンから地面に目線を落とし、再びジンを見て「気が引けるだけだよ」と苦笑した。

「気が引ける?」

「特別な理由はないんだよな。なんていうか、勇気が出ないっていうのか……いつか見に行こうとは思っているんだけど」

「もしかして、緑旗の団員が怖いとかか?」

 ふと思ったことをジンが口にすると、飛竜はぐっとなにかを喉に詰めて、激しく咳込んだ。分かりやすい飛竜の様子に、ジンは「図星か?」と眉を上げる。

「……ドグ様、怖いだろう」

 恨みがましい目でジンを見ながら、飛竜は呟く。ジンは「ドグ様?」と鸚鵡返しして「誰だ」と小首を傾げた。

「嘘だろ、ジン。ドグ=ヘイオールを知らない?」

「騎士の誰かの名前なのはわかるんだけど、俺はいままで騎士に興味を持ったことがないんだ、悪い」

「嘘だろう」と飛竜はジンを非難して「そうか、わからないか……」と小さく溢し、なぜかにっこり笑った。

「じゃあ、この話は終わりにしよう」

「ヘール=キャリスの従騎士だ」といえば、黄旗の騎士からは羨望を受け、赤旗の騎士からは信用に足ると思われることに、ジンは薄っすら気が付き始めていた。

 訓練所に飛竜と行くたびにトランが話しかけ、ヘールがこちらを見るものだから、だんだんジンの存在に気が付きだした騎士たちが、ジンを少しずつ可愛がるようになっていたのだ。

「ジン、ヘール=キャリスの凄さが、身をもって分かってきたんじゃないか?」

 白旗の訓練所に戻ってから、飛竜がジンにささやく。ジンはうんざりして「ヘールさんの凄さねえ……」

 ヘール=キャリスという英雄が、まさしくこの国の騎士たちの間で、揺るぎないほどの羨望を集めていることは、ジンにもわかってきていた。しかし、肝心の従騎士であるジンだけは、憧れるに足るだけのものをなかなかヘールから見いだせずにいる。

 ――それもこれも……

「ジン、師の御帰還だぞ!」

 朝方になってから、騒がしい声が玄関先から聴こえ、ジンは嫌々ながらも小走りで玄関に向かう。階下を見て、それから曲がり角から玄関を伺うジンに、またあの男が上機嫌に手招きをする。

「ほら、ヘールが帰ってきたぞ!」

「トラン様」とその男、トラン=マクベリーに、ジンは渋々声をかける。トランは酔って眠っているヘールを肩に担いだ格好のまま、ジンに近寄り「ほら」とヘールを担がせた。

「じゃあ、俺は帰る」といって本当に玄関から出て行った珍客に、ジンだけではなく使用人たちも頭を抱えている始末だ。

「ヘールさん、起きてください」

 こう毎夜続くと、さすがにジンも嫌気がさす。ジンはヘールを近くの応接間に連れていき、ソファに横たえて、使用人に水を持ってこさせ、自分はヘールの頬を軽く叩いた。むせかえるような酒の臭いに「どれだけ飲んだんだ?」と呆れて物も言えない。

 それでもすやすやと眠っている主人に対して「こんな人が本当に、あんなにも皆に憧れられている、ヘール=キャリスなのだろうか」と思う。

「あんたに、皆が憧れているんですよ」

 ジンは気が付くと、眠るヘール向かって、そんなことを呟いていた。酔っ払って前後不覚になって、眠りこけているこの主人に対する鬱屈は、日々貯まるばかりだ。

 ――こんな状態の主人を見せられ続けて、一体どうやって尊敬しろというんだ!

「それなのに、本当のあんたはこんなんで……」

 はあ、とため息を吐き、ヘールの傍に座り込んだ格好のまま、その整った顔立ちをジンは眺めている。主人の頬には、朱色がさしており、深く眠っている様子であることも、ジンは「情けない」としか思えないのだ。

 二度目の深いため息を吐いて、ジンは立ち上がった。ヘールを置いて応接間を出る。月も隠れて朝になりはじめた空を窓から見て、ジンは鼻を啜った。

 眠たくて欠伸をしたからだ、と目から零れそうになったそれに適当な理由をつけて、なにもかもに蓋をする。

「ヘール様の従騎士なのだろう、おまえ」

 その日も訓練所で、ジンはそう声を掛けられた。今日は黄旗の騎士である。ジンはそう第一声に言われるのも慣れたもので「はい。そうですが」と短く答えた。その瞬間だった。

「ジン!」

 一瞬、なにが起きたか分からない。飛竜がジンの名を叫ぶ声がきこえ、あとから耳が高く鳴る。

「頬になにか、硬いものがぶつかったことだけはわかる」とジンが思っていると、それからじんわりとその部分が熱くなってきた。

 口のなかまで痛い――気が付くと、ジンは尻もちをついて、視線は左に落ちていた。右頬が痛む、と考えて、ぼんやり黄旗の騎士のほうを見る。

 騎士が拳を振り上げ、口元に嫌な笑いを浮かべていることに気が付き、ジンは「ああ」とやっと状況を理解した。

「なんだ、反撃もなしか」と黄旗の騎士が下品な声で言う。ジンは飛竜を見た。飛竜はそれ以上声も出ない様子である。

 ジンはふらつく足で立ち上がり「どうすれば良いか分からないなあ」と、突然のことに対して「あまりにも俺は呑気だなあ」と考えていた。

「ジン、大丈夫か!?」

 飛竜がようやく目を覚ましたかのように、ジンに慌てて駆け寄る。ジンはそんな飛竜を見てから、また黄旗の騎士に視線を移した。

 いまだ、にやにやとしている騎士に、ジンがなにかを考える間もなく、騎士が飛竜を蹴り飛ばした。

 飛竜が低く唸り声をあげる。それを見たジンは反射的に騎士の黄色い服を強く掴んでいた。

「なにをするんだ」というジンの声は、ひどく冷え切っている。

「なに、だって? 白旗風情が調子に乗っていたからなあ」

「こんなところで油を売っていないで、はやく白旗の訓練所に戻れよ。ヘール様の従騎士だけど、お前に実力などないことが、バレてしまうぞ」と騎士は言う。ジンは、はらわたが煮え立つどころか、急速に頭が冷えていく。

 ジンの据わった目を見た騎士は「なんだよ」と低い声で威嚇する。ジンは掴んでいる黄旗の騎士服を音が鳴りそうなほどに強く握って、ぱっと離した。騎士が勝ち誇った顔で、ジンが握っていたところを軽く叩き「言い返すこともできないなんて、度胸なしもいいところ――」

 騎士がそう言葉を吐こうとした途中で、異様な気配に気が付き、彼は言葉を飲み込んだ。騎士の顔面が蒼白そうはくになる。騎士の真後ろに立つ人物を見て、ジンも心底ぎょっとする。

「無抵抗の者に手を出すのが、黄旗のやり方だと思われるぞ」

 低い、這うような声。こんな声は聞いたことがない、とジンは目を丸くした。彼――ヘールはぞっとするほど冷ややかな目で、黄旗の騎士を見ている。騎士はヘールの顔を見ているわけもないのに、ヘールの声に圧倒されているのか、上ずった声で「はい」「すみません」と何度も詫び続けている。

「はやく訓練に戻れ」とだけ吐き捨てて、ヘールは騎士に背を向ける。

「はっ!」と慌てて敬礼をして、騎士は訓練に走って戻っていった。騎士はもう、飛竜やジンを振り返ることはなかった。

 しかし、騎士がそばを通り過ぎるのを見ているだけであったヘールが、背を向けた格好から動こうとしないので、そんなヘールを不審に思ったジンが「あの、ヘールさん」と問うと、ヘールはそれに答えず、静かに「どうして殴り返さなかった」

 ジンは「え」と目を丸くしてから、少し考えて「殴ったら、目をつけられるでしょう……」

「あまりに情けない」と思いながらも、ジンはそう答える。その答えをきいたヘールは笑わなかった。真剣なまなざしをジンに投げたまま「それでも、掴みかかったな。なぜだ」

 そのヘールの問い返しに「なぜって」とジンは目を泳がせ「なぜって……」と繰り返し、無言で尻もちをついたままの飛竜を見た。ヘールはそんなジンの様子を見て、鼻から息をひとつ吐く。

「お前たちも、こちらに来て学ぶのは構わないが、自分の役目も考えるんだな」

「飛竜=阿國、緑旗に行ってこい。ジンもだ」とだけ告げて、ヘールは赤旗の騎士たちの訓練場に戻っていく。それをちらりと見て、ジンは急いで飛竜に駆け寄ったのだった。

 緑旗の治療室で、怪我の治療をし終えた飛竜とジンは、待合室の椅子に座っていた。飛竜が小声でジンに「だから黄旗は苦手なんだ」と呟いたが、ジンはなにも言わずに俯いている。

「ジン、頬は大丈夫か」と心配そうな視線を向けた飛竜に、ジンはやっと飛竜を見て「俺はちょっと腫れているだけだよ。飛竜は腹じゃないか、そっちのほうがオオゴトだって」と苦笑した。

「本当に許せない。あんなのが王国の騎士だなんて」

 飛竜の本当に悔しそうな様子に、ジンは視線を逸らしてため息を吐いた。飛竜は続ける。

「黄旗は、育成の騎士団だろう。だからもめごとが多いんだって……それで近寄らないようにしていたのに、こんな風に突然降りかかってくるんじゃ、避けようがないじゃないか」

「飛竜が黄旗を嫌ってた理由って、それか?」

 ジンの問いかけに、飛竜はバツが悪そうに目をそらし「嫌い?」とジンに聞き返したが「なんで嫌いだと思うんだ?」と、目を泳がせながら、さらに問いを重ねた。

「ずっと赤旗ばかり見ていただろう。さっきだって、苦手だと言っていたし……」

「ああ……まあ、好んでは観なかったな。ただ、嫌いって言うより苦手だったというか、さっきも言ったけど、黄旗はもめごとがすごく多くて……だからあんまり近寄らないほうが賢明かもなって、ちょっと勝手に遠巻きにしていただけという……」

 そういって、飛竜は苦笑する。

「そのもめ事とかいうやつに、こんな風に巻き込まれたいまとなれば、その飛竜の判断も正しかったような気がする」とジンは再び太い息を吐いた。それをどう取ったのか、飛竜は取り繕うように「まあ、ジンは赤旗に入るんだろう? それなら黄旗は切っても切り離せないし……」

「なんで赤旗に入りたいって決めつけるんだ?」

「え、違うのか? 俺はてっきり」

 ジンからの返事が、本当に意外だったのだろう。飛竜は目を丸くして「じゃあ、どの騎士団に入りたいんだ。もしかして黒旗? それとも紫旗シェルタ?」

「紫旗って、王子殿下たちの騎士団か。それも良いかもなあ」

「え、冗談だよな。いや、勿論良いとは思うけれど……ヘール様の従騎士のお前が、国王陛下の直属にならないのか?」

 紫旗は、ほかの旗色の騎士たちと少々違うものに属している。黒、赤、黄、青、桃、緑の騎士団たちはすべて国王直属の「王国の騎士団」であるのだが、紫旗は「王子たちの私兵」の俗称なのである。

 赤旗にも黄旗にも興味が湧かない、かといってほかの団にも興味がないままでいるジンは、ぼんやり自分の将来は紫旗か町の警備兵だろうかと思っていた。それを飛竜に説明すれば、飛竜は声を荒げる。

「もったいないだろう! 赤旗騎士団長の従騎士が、町の警備兵!?」

 その飛竜の勢いに、ジンは「もったいないって」と苦笑するだけだ。

「はあ……ジン、お前がどう思っていようと、お前はきっと赤旗の騎士になるよ。俺はそう思う」

 飛竜の本気の言葉を、ジンは「どこからそんな自信が湧いてくるんだ」と笑い飛ばした。それでも飛竜は「絶対そうだぞ。賭けても良い」と言い募る。

「まあまあ」とは言いながら、ジンはぼんやり将来の自分というものを想像したが、赤旗の騎士になって働く自分を、どうしても想像できなかった。

 赤旗の騎士というのは、もっと高尚で、きっと自分なんかでは、生涯をかけても追いつけないものだ、というのがジンのなかでの赤旗騎士団であり、それでもその頂点であるヘールは、手に届きそうな気がしてしまうのに……不意にこうして、手が届かなくなるような……ジンにとってのヘールは、そういう存在であった。

 酒に酔った姿は当たり前の、年相応の男性にしか見えないのに、彼はこうしてジンを、あっさり、手のひとつ、怒号のひとつさえださずに救い出してしまう。

 それだけの力を持つヘールのことを、ジンはいまだ掴めずにいる。

「王国の騎士になれば少しは理解できるのだろうか」と考えてみても、まるで雲を掴む話のようにも思えるのだ。

 ジンのそんなぼやきをきいた飛竜は、すっかり日が落ち橙になった空を仰いで「雲を掴むような、ねえ」とジンの隣をゆっくり歩いている。ジンは「まさしくそうじゃないか?」と飛竜に同意を求めた。

 飛竜はううんと唸って「わかるような、わからないような。だって、なんと言ってもヘール様はお前の主人だろう? ほかの誰より、ジンが一番近いはずなのに」

「近くない。むしろ遥か彼方だ」

「遥か彼方、かあ」

 ジンの返しに、飛竜はそう語尾を伸ばす。ジンは息を吐いた。

「よくわからないままだよ」

「いつか、ヘール様の考えていることが、手に取るようにわかるようになるさ」

「そんな日は、来なくても別に良いな」

 励ます意味での飛竜の言葉に、ジンがそう返したことで、飛竜が目を見開き、ふたりではじけるように笑う。互いに腹が痛い、頬が痛いと言ったが、それすらも、決して誰にも褒められることがない、勲章のように思える気がしたのは、一体なぜだったのだろう。

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