第2話


 モトクロスを除くと、私はとりたてた趣味の無いつまらない人間だった。

 お母さんみたいに韓流ドラマを観るでもないし、卓郎みたいにスマホゲームに課金するでもない。だから家にいる時は大概暇で、何をするでもなくベッドでゴロゴロしていることが多い。そして卓郎はそんな私の習性をよく知っていて、利用する。その日も二十三時半過ぎに電話がかかってきた。

「終バス逃しちゃって、ちょっと駅まで迎えに来てくれよ」

 終電を降りたところなのか、電話の後ろはがやがやとうるさい。そういえばもう三ヶ日を過ぎて、社会は動き出しているのだ、ということを思い出した。

 私は一応、「はぁ? 今忙しいのよ」と毒づいてみる。

「どうせベッドでゴロゴロしてスマホでも見てたんだろ。頼むよ」

 見事に言い当てられる。まぁ、暇は暇なので、だいたいの場合は憎まれ口を叩いた末、けっきょく迎えに行くことが多い。

 駅前ロータリーに入ると、人気のないバス停のベンチに卓郎が座っているのが見えた。何故だか知らないが派手な羽織を羽織っていた。

「サンキュー」

 卓郎が後部座席に乗り込む。

「新年会?」

「まぁ、そんな感じ」

「てか何よその羽織」

「え、知らんの? 今アニメで流行ってるやつ。ユーフォーキャッチャーで取ったんだよ」

 そう言って卓郎は私に羽織を見せる。お酒が入っているようで、けらけらと笑う。

「いや、知らないけど」

「ちょっとは流行りとか気にしろよー」

「うるさいな。私はあんたほど暇じゃないの」

 とは言っても、こうしてほいほいと車で迎えに来てしまっているのも現実で、非常に説得力が無い。

「姉ちゃんが家出たら寂しくなるなぁ」

 信号で停まっている時に卓郎がポツリと言った。私はちょっと驚いて、「何言ってんの」と笑ってみた。

「だって結婚するってことは当然家を出るってことだろ」

「いや、だから断ったって言ってるでしょ」

「本当に? って、別に嘘ついてるなんて思ってはいないけど、でもけっきょくは何だかんだ結婚するんじゃないのかなぁ、って思ってた」

「そんなに私がいなくなったら寂しいか」

 私は何て言っていいのか分からず、そんな茶化すような言い方をした。

「そりゃ、まぁ、生まれてからずっと家にいるわけだから。寂しいだろ、普通に」

「アッシーがいなくなるしね」

「はは、それかいっそ結婚しても家族一緒に暮らすか? サザエさんみたいに」

「生意気なカツオだね」

「本物のカツオも生意気だろ。そのうちタラちゃんが生まれたりしてな」

 そう言って卓郎は笑う。少し眠そうな目をしていることにその時気付いた。

「バカ」

「姉ちゃん、幸せになってくれよ」

 卓郎はそれだけ言うとオチるようにシートに沈んで眠ってしまった。私は、涙があふれた。皆が私の幸せを願ってくれる。祝ってくれる。普通に考えてこんなに嬉しいことはない。なのに何故、私はそれに背こうとしているのか。泣きながら、ごめんね、ごめんね、と心の中で謝った。誰に対して謝っているのか自分でもよく分からなかった。



 行き場のない気持ちはモトクロスにぶつけるしかなかった。

 こんな気持ちで走るのはあまり良くないのかもしれないと思いつつも、何か打ち込めることがあるということはやはりありがたかった。ちょうど試合も近い。周りから見たら私は、普通に試合に向けて頑張っている人だった。舞だけは、それだけではないことに気付いていた。

「その後進展はなしですか?」

 練習の合間、スポーツドリンクを飲んでいたら舞に声をかけられる。

「何が?」

「何がって、決まってるじゃないですか。彼氏ですよ、彼氏。結婚の話」

 彼氏だなんて何だかむず痒い。恋人なら分かるが、もはや順平は彼氏だなんて柄じゃない。

「別に何もなし」

「このままずるずるいくつもりなんですか?」

 ずるずる、という言葉を付けないでほしいと思った。でもそれが世間のイメージなのも事実だろう。現に舞はずるずるという言葉に何の悪びれもない。私だってそれは分かっているから怒るでもない。


 驚くことにモトクロスの調子は上がっていた。私は絶好調で、練習ではあるが初めて舞に勝った。

「まぁ、練習は練習ですからね」

 と、言った舞はぷいっと向こうを向いてしまい、めちゃくちゃ悔しそうだった。舞は感情を隠すのが下手だ。いつも負けっぱなしの私は少し愉快だった。

 この調子で次の全日本選手権にのぞめたら、ひょっとするとひょっとするかもしれない。そんな手答えを今は感じていた。

 それでもし本当に優勝できたら、私の心は変わるのだろうか。ずっと目指していたところに達した時、私の心は何を感じるのだろうか。次は何を考えるのだろうか。

 まぁ、全日本選手権はまだ先だ。とりあえず目先の試合に集中しよう、と冬の風で冷たくなった顔を思い切り叩き気合いを入れる。何人かに見られたが、別に恥ずかしくはなかった。試合まであと一か月だった。



 観たい映画がある、と順平に言われて仕事終わり、一緒にレイトショーを観に行く。

「待った?」

 と、安定の十分前集合。順平は少し髪が伸びていた。

「元気してたのかよ?」

「まぁ、ぼちぼちね」

 最近は練習ばかりで全然会えていなかった。電話では少し話したりはしていたが、やはり普通で、あれ以来結婚の話はまったく出ない。気まずいからこちらからも出さない。これが舞の言うずるずる、の始まりなのだろうか。

 順平が観たいと言った映画は最近テレビでよくCMをしている流行りの恋愛ものだった。順平は別に流行りもの好きでも映画好きでもないのに、いったい何故この映画を観たかったのだろう、と思った。

「空いてるな」

 と、順平は中段の真ん中の席を取った。私は頷く。

 映画が始まるまでまだ少し時間があったので喫茶店で暇を潰した。

 潰せる暇があるのはいいことだ、と私は思った。

 ゆっくりと何をするでもない時間、実は人間は、こんな時間のために生きているのではないかと思う。だからあんなにせかせかして、何かに追われるように生きるのだ。そしてさらに素晴らしいのは、その搾り取った果実のようなゆっくりとした時間に、何も気を遣わない、心許せる相手が側にいることなのだと、私は思う。

「髪、そろそろ切らないの?」

「伸びたよなぁ、週末にでも切ろうかな」

「そうしなよ」

 順平は髪が短い方がかっこいい。

「週末はまた練習か?」

「そうだね」

「試合、いつだっけ?」

「再来週」

「じゃ、もう追い込みだ」

 私は強く頷く。

 上映十五分前に映画館に戻ったのだが、驚くほど人がいなくて、時間を間違えたのではないかと焦った。でも間違いじゃなかった。単純にお客さんがいないのだ。

「マジで誰もいないじゃん」

 空っぽの映画館を見渡して言う。本当に私達だけだった。こんなこと初めてだった。

「予約した時は他にも少し入ってたような気がするんだけどなぁ」

 私達は誰もいない映画館の真ん中に座る。耳が痛くなるほどしんとしていて、でもそれは嫌な感じではなかった。

「けっこう今宣伝してるのに、もしかして興行収入大コケしてるのかな」

 と、順平が笑う。

「順平は何で観たかったのさ」

「いや、別に。CM見てちょっとおもしろそうだなぁ、って思っただけ」

「でも何かベタそうな感じはあるよね」

「まぁ、それは確かに。いいじゃん。ベタな展開、けっこうだよ。観てて安心できるし」

 安心する必要なんてあるか? と、私は思った。


 やがて始まった映画は思っていた通りの恋愛映画で、まず二人は田舎街の高校で出会う。そして些細なきっかけで話をする関係になり、すぐに良い感じになって、正式に付き合い出す。二人は学校帰り、よく裏の丘を登った。生まれ育った街を見下ろすことができる小高い丘だった。そこで愛を育んだ。この辺はかなり幸せなストーリー。音楽も明るいやつで、青春の絶頂という感じだった。

 しかし、やがて卒業が近づき、女の子の方が東京の大学へ進学する決断をする。一方の男の子の方は地元で家業の運送業を継ぐことが決まっていた。二人は離れても心は一つ的なことを誓い合い、それぞれの道を進む。それで、もちろんそんな簡単な話ではなく、いろいろある。

 卒業後、男の子の方は家業を継いだばかりで覚えることも多く、しかしそれに嫌な気はまったくしなくて、夢中になり、父から教えられたあれこれをスポンジのように吸収して仕事に打ち込んでいた。そんな日々の中、だんだん女の子に電話をかける機会が減っていく。寂しそうに、鳴らないスマホの画面を見つめる女の子。そんな女の子の方は東京の大学で友達もでき、平凡な日々を過ごしていた。ある日、友人と食堂で昼食を食べていると先輩と見られる男が友人に話しかける。その時、微かに目が合ったことに女の子も気付いた。だからといって別に気にするでもなかったのだが、先輩の方は違くて、一目惚れ、その日から女の子へのアプローチが始まる。女の子は最初のうちは地元で自分のことを思って待っていてくれている男の子に申し訳なく思い先輩を拒絶するのだが、だんだんと真っ直ぐなアプローチに負けて心を開いていく。その頃には二人はもうほとんど連絡を取ることもなかった。

 別れは唐突だった。もちろん雨の夜。電話で。女の子は少し泣いた。男の子だって辛かった。

 それから十年、二人の地元である地方都市の景気は悪くなるばかりだった。仕事がなくなり、生活に困って東京へ移る人が後を絶たなかった。しかし東京へ移っても幸せになれる保証なんてどこにもなかった。男の子の会社も例外ではなく、借金は膨らむばかりで、いよいよ会社を畳むかどうかの瀬戸際まできていた。父は脳梗塞で昨年亡くなった。突然の死だった。それで男の子は今、亡き父の意志を継ぎ社長となっていた。社員が少なくなっていて、社長だが毎日配送に駆け回る毎日だった。ある日、昔通っていた高校の前を偶然通った。秋で、銀杏が綺麗な色に染まっていた。男の子は女の子のことを思い出す。髪の匂いとか、笑顔とか。それはもう遠い昔の記憶だった。でも忘れられなかった。

 女の子は大学を出た二年後に職場の同僚と結婚した。結婚生活は最初のうちは順調だった。だけど三年目の春、夫が子供のできない身体だということが分かり歯車が狂い出す。小さい子が好きで、ずっと子供を欲しがっていた夫は絶望した。女の子はそれでも夫を支え、二人で生きていこうと励ましたが、夫はもう以前の夫ではなくなってしまっていた。仕事を転々とし、行く先々で女性関係の問題を起こした。気性も荒くなった。それでも女の子は耐えた。しかし結婚五年目、ついに夫は交際していた女性に暴力を振るい逮捕されるという傷害事件を起こしてしまった。正直言って女の子は、いつかはこんなことになってしまうのではないかと思っていた。それが現実になった。気持ちはもうなかった。離婚をすると夫はすぐに女の子の前から消えた。一緒にいた数年が嘘のようだった。

 絶望を身体に纏って男の子は小高い丘を登っていく、無精髭を生やして、具体的には何も考えていないが、もうこのまま死んでも構わないという気持ちだった。小高い丘から街を見下ろす。雨戸の閉まった家が目立った。もうこの街はだめかもしれないと思った。

「変わらないね」

 声に振り返ると、そこには女の子がいた。夢かと思った。「変わったよ」男の子は掠れた声で言った。

「歳取った」

「それはお互い様よ」

 女の子は離婚してしばらくは東京で働いていたが、先週からこの街に戻っていた。裏の丘に来た理由は分からない。自然と足が向いたのだ。

 男の子は泣いた。嗚咽を漏らして泣いた。女の子は黙って男の子を抱きしめ、微笑む。そこで音楽、エンドロールが始まる。

 途中少し端折ったが、まぁ、概ねこんな感じだった。


 エンドロールが終わり、映画館がパッと明るくなる。やっぱり私達二人だけだった。順平が立ち上がり欠伸をする。

「ベタだったな」

「だから言ったじゃない」

「でも安心して観てられただろ?」

「それはまぁ、確かに」

 私は男の子の会社が潰れそうな時も、女の子が離婚した時も、どうせ最後は幸せになるんでしょ? と思っていた。だから全然二人のことも心配しなかった。

 ベタな展開、ベタな恋愛。もしかして今日順平がこの映画を選んだことには何か意味があるのだろうか、何て少し深読みをしてみる。順平に限ってそんな繊細なことはできないよなぁ、と思いつつ、私の知らない部分だっておそらくまだあるのだ。しかし、「どうせ最後は幸せになる」なんて漠然とした安心感と自信、これがあれば人間はもう無敵ではないかと思う。



 転んだことは何度もある。でも感覚で、今回のはいつもと少し違うと思った。それくらい右手の痛みは激しかった。

「夏貴さん!」

 舞がバイクを停めて、カーブを曲がりきれず投げ出された私の方に駆け寄ってくる。情け無いとか恥ずかしいとか、そんな感情よりもとにかくまず痛かった。

 誰かが医務室から担架を持ってきて、私はそれに乗せられた。顔を見られるのが嫌で両手で顔を覆いたいのだが、右手は激痛で動かせず、左手の手首で目元を覆った。少し焦ったような皆の会話の中から「救急車」という単語が聞こえた。救急車? 救急車呼ぶの? と、聞きたいのだが声にならない。

 やがて本当に救急車が来て、乗せられる。「誰か付き添いの方」と救急隊の人が聞いて舞が救急車に乗り込む。どこかで見たことのある展開だ。「夏貴さん、しっかりして」とやはり救急車に同乗する人はこれを叫ぶのだ。

「痛い」

 やっと声が出た。

「もう大丈夫ですよ。病院、すぐ着きますから」

 舞は相当焦っているようだった。

「いや、別に死にはしないから」

 そう言うと舞は少しホッとしたような顔だった。まさか、本当に死ぬかと思っていたのか。

 診察の結果、骨折だった。

 黒白のレントゲン写真。右手の手首のところが見事に折れていた。

「おそらく転んだ時に手をついたのでしょうね」

 お医者さんは冷静な顔で言った。銀縁の眼鏡をかけて、白髪で、私の中の「お医者さん」像とピタリと合う佇まいだった。

「私、どうなるんですか?」

「手術になりますね。最低でもとりあえず三日は入院になります」

 本当に私が知りたいのはその先の話だった。

 一時間後にお母さんが来た。

 舞がどのように伝えたのか分からないが、相当に焦っていた。

「ただの骨折だよ。死なないから大丈夫」

「あんまり心配させないで」

 と、お母さんは胸を撫で下ろしてベッドの横の戸棚に着替えだったり、歯ブラシだったり、持ってきてくれたものを並べた。

 気付くと日が暮れかけていた。お母さんはいつもより口数が少なく、私も何となく気まずかった。「じゃ、そろそろ帰るから」

 と、言ってお母さんは病室を出て行った。

 私が入っている病室は四人部屋なのだが今は私以外誰もいない。寂しい病室に横たわり、私はじっと白色にポツポツと穴の空いた天井を見つめた。高校の教室もこんな感じの天井だった気がする。一応、怪我をしたことを順平にもメールを入れた。右手はやはり痛い。手術はいつやるのだろう。

 そんなことを思っていると扉が開き、お母さんが戻ってきた。顔を見た時、言いたいことは何となく分かった。

「もうやめたら?」

 私はお母さんを見たまま何も言えなかった。

「結婚の話だってあるんだし、ちょうどいいタイミングじゃない」

 お母さんはそれだけ言うと帰っていった。

 言われなくても自分でも分かっていた。引き際なのかもしれない。不思議と涙は出なかった。ただ、心は今からっぽだと、そういう実感があった。



 手術は無事終わり、予定通りの日に退院できた。お母さんが車で迎えに来てくれて、短いながらも入院(生まれて初めてだった)した病院を後にする。

 家に帰るとお父さんも卓郎もいなかった。カレンダーを見ると今日は水曜日で、お父さんは週に一度隣街に住む祖母の家へ行く日で、卓郎は大学へ行っているようだった。

 ドアを開けると私の部屋は数日前のままで、でも何だかもう全てが変わってしまったような気持ちだった。

 ギブスは早くて四週間、遅くとも六週間後には取れると説明された。

 何をする気にもなれなくて、まだ十三時過ぎにも関わらずベッドに横になる。これからどうしようとか、一寸先、明日のことを考えるのも嫌で無理矢理目を閉じる。そうすると不思議なものでいつしか眠ってしまっていて、目が覚めたらもう夕方だった。十六時の傾いた日が部屋の窓から差し込み、床に落っことしていたスマホの画面を照らしていた。

 夕飯の時間になってもお父さんと卓郎は帰って来なくて、お母さんと二人だった。卓郎がこの時間に帰っていないことは別に珍しくもなかったぎ、お父さんが夕飯の時間に帰っていないというのは少し珍しかった。

 夕飯を食べている時、私もお母さんも何も話さなかった。多分、今お互いの気持ちが痛いくらい分かるのだ。だから言葉が出ない。思えば、高三で進路のことで揉めた時もこんなことがあった。

 夕飯を食べた後、お風呂に入り部屋に戻ってくる。何気ない、いつもと同じ行動なのに利き腕の自由が効かないだけで倍以上の時間がかかった。自分が自分でなくなってしまったような感覚だった。こんな日々が一刻も早く終わればいい、と切に思いまたベッドに横になる。

 何もやることがなかった。

 それもそれで苦痛で、それなら寝てしまおう、と思い明かりを消した。いい夢など見れる気がしないが、起きていても何もいいことなんて無いのだ。同じだ。

 でも眠れなかった。私はうつ伏せになったり仰向けになったり、ベッドの上を何度も転がって、それはそれで苦痛だった。思えば昼間、ずっと寝ていたのだ。眠れるわけがない。

 誰かがノックをしてドアが薄く開いた。懐かしい蛍光灯の光が一筋、私の部屋のカーペットを切り取った。

「まだ痛むのか?」

 お父さんの声だった。

「ちょっとはね」

「そうか」

 廊下にいるお父さんの姿は、私からは見えない。煙草の匂いが微かにする。廊下で吸っているのだろう。

「無事退院できて良かった」

「うん」

「しばらくは安静か?」

「そうなるね」

「夏貴」

「何?」

「無茶もいいけど、お前にら自分のことを心配してくれている人がちゃんといるってことを忘れるなよ。それだけは、忘れるな」

「うん」

 そう言った途端に涙が溢れた。最近、すっかり涙脆くなった気がする。私も若くないのだ。

「おい。別に俺はバイクやめろって言ってるわけじゃないぞ」

 私が泣いているのに気付いてお父さんはフォローをするように言う。

「分かってる。でもモトクロスだよ」

 お父さんは少し笑い、「おやすみ」と言ってドアを閉めた。再び部屋を闇が満たしても、私の涙は止まらなかった。

 もう、モトクロスをやめようと思った。

 ずっと誰の迷惑も顧みず好き勝手やってきたのだ。いつかはそれをやめなければならないことだって、心のどこかでは分かっていたはずだ。

 涙は止めどなく流れた。理由ははっきりと分かっている。悔しいのだ。私は、夢半ばで終わってしまうことが本当に悔しいのだ。

 起き上がり、動く方の手で枕を叩いた。何度も何度も親の敵みたいに叩いた。私の涙はぽたぽたと枕に落ち、シミを作っているのが暗闇でも分かった。

 やがて私は枕を叩くのに疲れ、そのまま後ろに倒れ込んで窓の向こうに見える月を逆さまに見た。三日月だった。雲は真珠色で、まるでディズニー映画のような夜だな、と思った。

 バイクのエンジン音が聞こえる。

 ずっと遠くから、だんだんと近づいてくる。すぐに順平だと気付いた。

「よぉ」

 順平は家の前にバイクを停め、二階の私を見上げて軽く手を挙げる。あまりにいつも通りで、私も苦笑いで「よぉ」と返す。

「退院おめでとう」

「別に、何もめでたくないよ」

「ヘコんでたのか?」

「そりゃそうでしょ」

 私がそう言うと、順平は笑顔でヘルメットを振り上げ、後部座席をちょんちょんと指差した。私は頷き、厚手の上着だけ羽織って家を飛び出す。ほとんど反射的だった。

「ひどい顔」

 順平はそう言って私の頬に触れた。

「さっきまで泣いてたからね」

「そっか」

 と、言いつつヘルメットをわたす。

「片手だけど、掴まれるか?」

「大丈夫」

 バイクがゆっくりと走り出す。風が耳元を駆け抜けて寒い。冬の夜、でも嫌な感じではなかった。むしろ最高だった。住宅街を抜け、国道に出る。夜の国道は街頭でオレンジに染まっていた。

「スピードが恋しくなってるか、スピードに悔しくなってるか、どっちかだろうなぁ、と思って。どっちにしろ走りたいって思ってんじゃないかなって。正解?」

「正解だよ」

 スピードが怖くなってるという選択肢がないあたり私のことをよく分かってる。二重丸を付けてあげたい。

「連絡返してなくてごめんね」

 私は風に負けないように声を張った。怪我をしたということを伝えて以来、返事も返さず一度も連絡をしていなかった。

「あぁ、いいよ。仕方ない」

「理解がある彼氏で嬉しい」

「彼氏って」

 と、順平は笑う。「何か大学生みたいだな」と言う順平の声はまったく風に負けていない。すごい。

「どこ行きたい?」

「どこでもいいよ。私はこうして走ってるだけで幸せ」

 本音だった。私はやっぱりバイクが好きなのだ。

「順平、私モトクロスやめるよ」

「はぁ? 何で?」

「何でも何もないでしょ。いい歳して怪我してんだから。身を引くには十分過ぎるタイミングよ」

「やめてどうすんだよ?」

「んー、結婚?」

 言ってみた。順平は「はっ」と笑い飛ばした。

 夜の国道をどこまでもどこまでも真っ直ぐ走った。私はわざと標識を見ないようにして、ここがどこだか分からないようにした。あるのは世界と順平、それとバイク。それ以外は余計だった。ネオンライトは線、振動は生命力。夜はそれを浮き上がらせる黒の画用紙。そんな感じだった。

 どれくらい走っただろうか、順平は知らない街の知っている名前のコンビニにバイクを停めた。

「やっぱ寒いなぁ」

 順平にそう言われて久しぶりに寒さを思い出した。

「ホットコーヒーでいいか? 買ってくる」

「ありがとう」

 私は駐車場のタイヤ止めに腰掛けて空を見た。部屋から見た三日月が、やはり空には浮いていた。欠けているのが逆だと思ったが、部屋では逆さまで見たのだとすぐに思い出した。吐く息が白い。缶コーヒーを二つ手に、順平はすぐに戻ってきた。

「ま、そう焦りなさんな」

 缶コーヒーを私にわたし、順平が言う。

「何が?」

「いや、モトクロスやめるとか結婚だとか」

 順平はそう言って煙草に火を付ける。

「まだやりたいんだろ、本当は」

「そりゃ、やりたいよ」

「じゃやればいいじゃん。気が済むまで」

「でも、私はもう勝手したくないよ。みんながどう思ってるかも分かってるし。そろそろ普通の生き方をしてもいい頃だよ」

「普通の生き方って何だよ」

「普通に就職して、普通に結婚して、とか」

 私がそう言うと順平は笑った。

「あのな、夏貴は別に普通だよ。まぁ、親に心配かけたくないって気持ちは分かるけど」

 順平はそう言って私の左手を握った。さっきまで缶コーヒーを握っていたからか、やたらと暖かかった。

「やれよ、モトクロス。気の済むまで。それで親が心配するなら、俺が付いてるから大丈夫だって言ってやるからさ」

 頬が赤くなるのが自分でも分かった。順平は普段こんな真っ直ぐなことを言うタイプではないのだ。それだけに嬉しかった。

「結婚、しよか?」

 私はめちゃくちゃ小声で言った。

「ん? 別にどちらでもいいぞ」

 私だって、実はどちらでもいい。

 私達は、あの映画の丘の上にいる。今はまだそこ、というより永遠に私達はあそこにいるのだと思えた。とりあえず、私が今離さない順平の手は私を離さない、順平が今離さない私の手は順平を離さない。それでいい。それだけ続いていけば十分だ。



 週末の練習場、砂埃を上げて舞が駆ける。ジャンプ台を綺麗に飛ぶ。文句なし。

 試合はもう明後日に迫っていた。

「あんた、やっぱ天才だよ」

 休憩所に上がってきた舞に言う。舞は私がいたのが意外だったようで、少し驚いた顔をした。

「来たって辛くなるだけなのに」

「別にぃ。そんなことないよ」

 そう言って缶コーヒーを投げてやる。舞はグローブでキャッチしにくそうだったがちゃんと落とさず取った。

「まぁ、でも元気そうで良かったですよ。ギブス、あとどれくらいで外れるんですか?」

「まだまだ一カ月くらいは取れないよ。走れるようになるのはいつのことやら」

 私はギブスの右手を突いた。

「待ってますよ」

「おう。待っててくれい」

「てか、今回の怪我は結婚話には影響は無かったんですか? 苦しい時期を支え合って急転直下、電撃入籍とか」

「いやー、どうだろね」

「え、何ですかその言い方は。何かあったんですか?」

 舞は急に女子大生みたいな反応をした。いや、本当に女子大生なのだが。

「まぁ、結局付かず離れずということよ」

「何ですかそれ。全然分かんない」

「あ、て言うか今日ここに来てるよ。今コンビニに煙草買いに行ってるんだけど。もうすぐ戻ってくると思う」

「えっ、そうなんですか。いや、会うとなったら何か緊張しますね。私、泥だらけですし。こんな格好ですし」

 練習しに来てるんだから当たり前だろ、と思った。知らなかったが、舞はどうも初対面には弱い性格らしい。

「走りながら休憩所の二人を見ておきますよ」

「余所見して怪我するなよ」

「縁起でもない」

 舞はそう言って舌を出し、練習場の方へ戻っていった。エンジン音。悔しくないと言ったら嘘になる。でも私には先があるから。今はそれで納得した。

「舞、私の分まで勝ってよね!」

 そう叫ぶと。舞は親指を立て、砂埃を上げて走り出した。ちょうど、順平が戻ってきたところだった。

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