離されない手を

@hitsuji

第1話


 結婚しよう、と言われて割とノータイムでそれは無理、と答えた。

 で、後悔した。

 というか無理、という言葉の鋭さに我ながら驚いてしまった。そこまで強い否定をするつもりではなかったのに。それはカウンターでナイフで刺すような、小型だったとしても鋭いもので刺されたら痛い。そのはずだ。

 私の家の前、二十時過ぎ。順平がバイクで送ってくれた別れ際だった。まさか急にそんなことを言われるだなんて思ってもいなかった。と、いうかそもそも私の思考の中に結婚、という考え自体が無くて、いや、まぁ「そろそろ結婚しないのか」とかそういうことを言われる機会は多々あったから考え自体が全く無かったわけではないけど、それを自分に上手く結びつけられていなかったというか、自分が本当に結婚するとか、そういう現実的な発想はまったくなかった。順平もそうだと思っていた。たがらビビった。

 それで順平はというと、笑っていた。苦笑いとか、笑うしかないからとりあえず笑った、という笑い方ではなく、いつもの、可笑しいから笑うという感じの、無駄に豪快な笑い方。身体が大きいから、小さく笑ったとしても笑いの質量は普通の人よりも大きく見える。この五年間たくさん見てきた順平の、よく知った笑い方だった。

「ごめん」

「別に謝ることじゃないって。気にすんな」

 と、順平はまだ少し笑っていて、いたって普通で、「したら今日は帰るわ」と言って、何事もなかったかのようにバイクで帰っていった。みるみるうちに小さくなる大きな黒ジャンバーの背中が完全に見えなくなるまで寒さを忘れて私はそこに突っ立っていた。

 家族からの非難は想像以上だった。轟々だった。「はぁ? 断ったって、姉ちゃん、大丈夫なのかよ」と、弟の卓郎が夕飯のトンカツを齧りながら私に箸を向けて言う。箸の先にご飯粒がついていて、少しイラッとした。

「大丈夫って何がよ」

「いやだって、自分の年齢とか考えた?」

 はぁ? と卓郎を睨みつつ私もトンカツを齧る。まだ二十一のくせして生意気言うんじゃないよ、と強めに言い返してやろうと思っていたのだが、「でもあんたもう三十四なのよ」と先にお母さんに口を挟まれた。それは、言うことを聞かない子供に母親が手を焼くような、困った子ねぇ、というニュアンスの言い方だった。最近あてすぎたパーマのせいでお母さんの頭はまん丸に見えた。何だか、ちびまる子ちゃんのお母さんに似てるな、と思った。

「自分の年齢くらい分かってるわよ。私だって馬鹿じゃないんだから」

「もう結婚しちゃえばいいじゃない。何回かお会いしたけど、順平さん、感じの良い人じゃない」

 それは本当、確かにそうだ。

「付き合って何年なんだっけ」と、卓郎。

「五年」

「そりゃあそろそろじゃないの」

 だから生意気な言い方をするなっての。

「ちゃんと謝って、やっぱりお願いしますって言ったらいいじゃない」

「だいたいにして即答で断るってのがおかしいよね。何様なんだっていう」

 二人とも言いたいことを言ってくれる。

 向かいに座るお父さんは唯一、何一つ口を挟まず新聞を読みながら夕飯を食べていた。相変わらずだ。お父さんは私のことにはあまり口を挟んでこない。進学とか、進路とか、私はけっこう自由に選んだクチで、お母さんにはいろいろと言われて喧嘩もしたりしたが、お父さんは一度も何も言わなかった。まぁ、元々口数の少ない人ではあるのだが。地方公務員を昨年定年退職して、でも働いている頃と何一つ変わったところはなかった。

「何で断ったの?」

 お母さんは眉間に皺を寄せて言った。

「やっぱりアレか、バイクのことがあるからか?」

 と、卓郎が被せる。私は「モトクロスね」と訂正した。

 私は順平のプロポーズを断った。

 順平が嫌いか? 順平とは将来を考えられないか? そんなことはない。

 お父さんが「お茶を淹れてくれ」と新聞から視線を外さないままお母さんに言う。お母さんはお父さんのこの言い方が昔から嫌いで、いつもぶつくさと文句を言いながら席を立つのだが、今日は「いつまでも若くないのにねぇ」と、それはお父さんじゃなくて私に言っているな、ということを呟きながら台所の方へ歩いて行った。

 うるさいわ、と私はまたトンカツを齧る。



 モーター音がとにかく好きで、それは今も昔も。思えば始まりはそこだった気がする。週末。私は土煙を上げながらサーキットを駆け抜ける。風、振動。アクセルをグッと回す。

 スピードとは、つまりは力だ。重力に逆らい、前に進もうとする力が爆発して速度になる。空気の壁を突き破る。ジャンプ台を駆け上がり、飛ぶ。

 十三の時から私はこのスピードの中にいる。テレビで見て憧れて、「やりたい」と、言ったら意外にも両親はあっさりオーケーを出してくれた。おそらく、「何であれ打ち込むことは良いことだろう」くらいの気持ちだったのだろうが、私のモトクロスへののめり込み方はそんな思春期の思い出作りのレベルをはるかに超えていた。高校三年の春、卒業後の進路を決める三者面談の時、「全日本選手権で優勝したいです。モトクロスができればあとは何でもいいです」と言った。その辺りからお母さんはモトクロスに対してあまり良い顔をしなくなった。「危ないから、もういい加減やめときなさい」と、お母さんは言った。私は、別にバスケットでもサッカーでも全力で走ってぶつかったり転んだりしたら危ないじゃないか、と思った。何もモトクロスだけが危ないわけではない。そう思ったままお母さんに伝えたら、えらく怒られた。しばらく喧嘩になった。韓国ドラマと裁縫が趣味の母からすると、オフロードでバイクをブイブイ乗り回すなど、年頃の女の子のすることではないのだろう。趣味ならまだ許せるが、本気となると話は違う、そんな本音をぶつけられたこともあった。それは私にとってはムチのような言葉で、痛かったのだが、心は折れはしなかった。私は結局、大学へは進学せず、モトクロスもやめなかった。そして三十四になった今も続けている。全日本選手権では、まだ優勝できていない。別にできたらやめるというわけではないのだが、一つの目標。惜しいところまでは来ている、と自分では思っている。

 学歴とか、そういう諸々を捨て、本気の世界に足を踏み入れてからはお母さんも何も言わなくなった。喧嘩もなくなり、関係も以前と変わらないまでに戻った。まぁ、だから私は今もあの家にいられるのだが。実家暮らしは経済的にもありがたい。それに、ずぼらな私には一人暮らしは向いていないから。

 コーナーを曲がりまたジャンプ台を登る。飛ぶ。身体がぶわっと宙に浮く感じ、そして着地の衝撃。怯むことなく私はまたアクセルを回す。いつまでも走っていたい、と私は思う。周り、順平は分からないけど、がそれを望んでいないことに気づいていても、そう思う。

 結婚したらやめなきゃならないのだろうか。順平の性格からしてそんなことを強要することはないような気がするけど、やめるのが普通という気もする。家庭に入る、というか。家事とか、子供とか。おそらく周りはそれを望むだろう。

 卓郎の言う通り、結婚を断った理由にモトクロスのことがあるのは間違いない。

 やめたくない。私はモトクロスをやめたくない。そう思って私はまた強くアクセルを回した。



 今日はお酒を飲むから、順平はバイクではない。私も電車で来た。金曜日の夜。「待った?」と、仕事帰り、スーツ姿の順平が来たのは約束の時間の十分前で、私はその二分前に着いたところだった。「待ってない」と、私は言う。会うのはプロポーズを断ったあの夜以来だった。

 順平は時間に正確で、仕事が忙しくとも約束の時間に遅れたことはない。別にそれを押し付けられたわけでもないのだが、五年かけて私もすっかり時間に正確な人間になっていた。なのでだいたい順平との待ち合わせは約束の時間の十分前には顔を合わせる。

「とりあえず飯食おかー」

「うん」

 夏貴、何食いたい? と、聞かれるのはいつも通り。いつもは「何でもいいよ」とか、適当にはぐらかして結局順平に決めさせているのだが、この前のことがあるので今日は考えて、「焼き鳥」と答えた。特別焼き鳥が食べたかったわけではないのだが、お酒を飲んで食べるものといえば、焼き鳥しか浮かばなかったのだ。順平は「よし」と言って歩き出す。職場が近いので、順平はこの辺りのお店に詳しい。

 順平の背中を追って十二月の繁華街を歩く。嫌味にならない程度にクリスマスソングが流れていて、道行くカップルは腕を組み、それは何だか踊っているように見えた。もし、彼等彼女等の恋の目指す終着点が分かりやすい結婚というカテゴリーであるのならば、私はいったい今何を望んで順平といるのか。そんなことを考えてしまう。

 順平、好きだ。

 大きな背中へ向けて心の中で呟く。

 一緒にいることに合理性を求めてしまうのが嫌で、心の中で根本的な気持ちを呟くのだ。迷ってしまわないように、そんなことを最近よくやる。

 順平は私の気持ちなどお構いなしに人混みをかき分けてどんどん歩いていく。たどり着いたのは何やら老舗っぽい焼き鳥屋だった。

「日本酒が美味い店なんだよ」

 と、順平がメニューを私にわたす。

「日本酒なんて、飲めないよ」

「まぁ、俺が注文するから騙されたと思って一口飲んでみ。舐める程度でいいから」

 順平はお酒が強い。大学時代の野球部の飲み会で鍛えられたんだよ、と言う。対する私はあまりお酒が強くない。まったく飲めないわけではないが、頑張って一杯半というところだった。

「気にしてんだろ、この前のこと」

 皮の串を齧りながら順平が言う。やはりバレていた。

「まぁ、そりゃね」

「何が、まぁ、だよ会った時からずっとギコチないんだよ。気にすんなって言ったろ」

「気にしないなんて無理でしょ」

「ばっかだな、そんなん別に結婚なんてしたい時にすればいいだろ」

 それはまぁそうかもしれないけど、そんな簡単なことじゃないだろ、と私は思う。が、言わない。断ったのは私の方なのだ。

「順平は何で今だと思ったのさ」

「まぁ、今かなぁ、って思ったから」

「それ、まったく答えになってない」

「あのな、そんなこと上手く言葉にできるんなら俺は今頃シンガーソングライターにでもなってるよ」

 と、言ってタバコに火をつける。いや、ソングライトする意味がよく分からん。でも確かに、言葉にするのは難しそうだとは思った。特に関係が長い私達は。

 順平から一口もらった日本酒は甘くて、美味しいと思ったが、喉元を通るとちゃんとお酒で、二口目は飲まない方がいいなと思った。それで五年前、順平と初めて会った日のことを思い出す。


 当時、私は実家の最寄駅にある居酒屋でアルバイトをしていた。

 それっぽく赤提灯と暖簾なんて下げて、雰囲気は完璧なのだが、特別流行っているわけでもなく、かと言って廃れているというわけでもない中途半端な感じで、店長と私を含めて五人くらいの店員でやっている小さな店だった。

 や、何か悪く言ったような感じになってしまったが良い店だった。三年くらい働いたのかな。

 あの日、順平と初めて会った日、確か冬で、ちょうど今くらいの年末の時期だった。その日私は夕方の開店準備から入るシフトで、あぁ、そうだ確か十六時入りだ、あまり記憶力は良い方ではないがそういうどうでもいいことは覚えていられるのだ。

 順平達は野球の試合帰りで五、六人はいたと思う。皆ユニフォーム姿だった。勝ったのか、皆上機嫌で笑っていて、料理もお酒もガンガン注文するので私はすごく忙しかった。でも、その時からもうすでに順平の存在には気付いていた。何せ身体も声も大きいから目立つのだ。「あのホームランがでかかった」とか「あいつのスライディングはやっぱり良い」とか何だかよく分からないが、そういう断片的な話し声を聞きながら私は働いていた。

 宴会は夜遅くまで続いた。何人か先に帰って、あの席もだいぶ静かになったなぁ、と思っていたら、いつの間にか誰もいなくなっていた。

 まさか食い逃げ、と一瞬焦ったのだが、見るとトイレの前に順平が立っていて、タバコを吸っていた。私と目が合うと、「さっきから声かけてるのに全然出てこないんすよ」と眉間に皺を寄せてドアをノックしながら言った。私もドアノブを回してみたが確かに開かなかった。

「うちの奴が入って、もう三十分くらい経つんだけど、いくら何でも長い。中で酔い潰れてんのかなぁ、と思って」

 順平も酔っているようで少し顔が赤い。でもタチの悪い酔い方ではないようで、話している感じは普通だった。

「マスターキーで開けましょうか」

「あ、そんなんあるんだ」

 言ってみたもののそんなもの使ったことがないので実際あるのか分からなかった。

 店長に状況を説明すると露骨に嫌そうな顔をした。店長は普段は陽気な人だったが酔いすぎた酔っ払いには厳しい。よく「自分の限界も分かんねぇ奴が酒飲むな」と、怒っていた。名言だと、私は今でも思う。

 マスターキーなんて上等なものはなかったが、トイレのドアは十円玉であっさり開いた。案の定、ユニフォーム姿の男が便器に突っ伏して倒れていた。あぁ、と三人溜息が漏れ、「おい、高木」と順平がその、高木さんを起こそうとする。高木さんはぐったりとしていて、起きる気配はない。「救急車呼んだ方がいいんじゃねぇか」と店長。順平は「救急車かぁ」と少し躊躇うような声を出し頭をかいたが、まぁ、でも何かあったら大変だし呼ぶか、と言ってけっきょく救急車を呼んだ。

 やがて救急車が来ても高木さんはまだ朦朧としていて、私はこの人マジで大丈夫か? と、不安になったのだが、救急隊の人達は「飲み過ぎだな」といたってドライだった。「高木、しっかりしろ」と順平は救急車の中まで入って高木さんに声をかけていた。死に際のようで縁起が悪い、と私は思ったが、まぁ、同じ状況に自分が置かれたら同じことをするのかな、とも思った。

 救急隊の人が順平に病院まで付き添いをお願いします、と言う。「分かりました。すみません」と、順平は救急隊の人に謝って一度店内に荷物を取りに来る。その頃にはもう他のお客さんは誰もいなかった。

 二人分の荷物を持った順平が私の横を通る時、目が合った。

「俺、救急車に乗るなんて初めて」

 と、言って目を見開く。

「どこの病院まで行くんですか?」

「あの、駅の反対側のデカい病院って言ってたんだけど、名前は忘れた。俺、この辺の人間じゃなくて」

「大変ですね。頑張ってください」

 順平達が救急車で行ってしまうと、「迷惑な話だ」と店長は吐き捨てるように言った。「年に二、三回はああいうのいるよなぁ」と続けたが、私は順平に言った「頑張って」が何を頑張ってだったのか我ながら分からなくて考えていた。多分、病院に行っても待っているだけで何も頑張ることなんてない。

 やがて店長も帰って、私一人で最後の締め作業をしていた。電気を消す前に店内をもう一度見回す。当たり前だが誰もいなかった。でも何故か、不思議なのだが、順平がいた席だけは「誰もいない席」ではなく「順平がいなくなった席」になっていた。それだけに今夜店、順平の存在感は大きかった。鍵を閉めて外に出るともう電車も終わっている時間で人気もなく、「今日」という日がもう閉店している感じだった。私は夏場はバイクでなのだが、冬場は寒いので車で出勤していた。店長の好意で店が契約している近くの駐車場を使わせてもらっている。

 エンジンをかけて思う。あの人、この辺の人間じゃないと言っていたけどちゃんと帰れたのだろうか。私は気になって、回り道ではあったが駅の反対側の総合病院まで車を走らせた。

 冬の夜は、何故だか夏の夜よりも暗く感じる。それは寒さのせいか、私だけか。実家の車はもう十五年も買い替えていないおんぼろの軽自動車で、エアコンで車内が暖まるまでの時間がもどかしかった。

 病院の前に差し掛かった時、少し先で信号を待つ背中が見えた。救急車に乗り込んだ黒のジャンバー、そして野球のユニフォームの足。

「大丈夫でした?」

 急に車を横につけて話しかけたから、順平は驚いてギョッとしていた。「あ、さっきの」と言った順平は寒そうで、白い息を吐いていた。

「乗ります?」

「いいの?」

「まぁ。汚いですけど」

 そう言って私はシートをはたいた。

 順平が乗ると、車の中が一気に狭くなった。何だか、ルパン三世の車の中みたいだった。ちょっと笑いそうになった。

「とりあえず大丈夫みたい」

「あぁ、良かったです」

「点滴打って、さっき親が迎えに来てたから俺も帰ってよくなったんだけど」

 だけど、からの続きがない。まぁ、だいたい分かる。帰る手段がないのだろう。

「送っていきましょうか?」

「え、でも遠いよ」

 場所を聞くと本当に遠かった。でも行けない距離ではなかった。別に嫌だとも思わなかったし、私はいいですよ、と言って車を出す。順平はすごく感謝していた。まぁ、そりゃそうだ。

「あ、今更だけど俺、高橋順平です」

「宮野夏貴です」

「宮野さん、かぁ。いくつ?」

「二十九ですけど」

 いきなり年齢を聞かれて少し驚いた。

「え、歳上だったの」

 と、順平も驚く。それが失礼な反応なのかそうでないのか瞬時によく分からなかった。

「高橋さんはいくつなんですか?」

「俺は二十八。しまったー、敬語使うべきでした。すみません」

「いいですよ。別に」

「あの、逆に歳下って分かったなら敬語やめてもらえません?」

 そう言って順平は少し笑う。「確かに」と私も笑う。

 驚くほど信号に引っ掛からず、窓の外を景色が止めどなく流れる。車内がだんだん暖かくなってきたのは、エアコンが効き出したからか二人になったからか。そんな、五年前の話である。



 見慣れた、順平の部屋の天井。裸の私の上に裸の順平がいる。

 身体を重ねるのにもすっかり慣れた。でも、今でもちゃんと愛おしい。それは絶対的に正しくて正常なことだと私は思っている。

 全部終わって裸で並び、羽毛布団を被る。そして考える。考えてしまう。

 長く恋して、結婚をしないというのはおかしいことなのだろうか。おたまじゃくしのまま大人になることはそんなに悪いことなのだろうか。それは単純に、恋愛だけの話であれば悪なような気もする。でもそれだけの話で済まないことも事実で、例えば夢、私には夢がある。結婚しても、順平はモトクロスをやめろだなんてことは言わないだろう。でも、彼の親はどうだろうか? いい歳してオフロードを飛ばしまくっている嫁より、家庭に入って家事育児に専念して息子を献身的にフォローする嫁の方がいいに決まっている。自分の親だってそうだ。結婚をすることによって「娘」ではなく「嫁いだ娘」となる。向こうの家族に対しても責任が生まれる。見方が変わるのは当たり前だ。そして私はそんな諸々を無視できるほど図太くない。私一人だけなら別にいい。でも結婚するということは二人になるということで、私の身勝手で順平に迷惑をかけてしまうのは嫌だ。

 私は甘かった。ずっと何となくこのままでいられるような気になっていた。よく考えれば分かることだ。何だって大人になると複雑になる。考えなければならないことが多くなる。純粋無垢なだけじゃいられなくなる。恋愛も、その例外ではなかったということ。ただ好きで、ただ側にいる、それだけではだんだん許されなくなる。

 暗闇の中、私は怖くなって順平がそこにいることを手探りで確かめる。

 パンドラの箱を開けてしまったのだと思った。でも問題は「開けてしまった」ことではなく、「開けなければならない」という事実に気付いてしまったことだった。



 カーブをインから、一台のバイクが砂埃を上げて私の横を上げてすり抜けていく。

 ライバルながら舞のテクニックにはいつも惚れ惚れしてしまう。自分より一回り以上も歳下のライダーに対してそんな感情を抱いてしまうのは悔しくて、私はグッとアクセルに力を入れ、抜き返そうとその背中を追う。次のジャンプ台は、ほぼ同時に飛んだ。空中で一瞬、目が合ったような気がした。

 森本舞は、まだ大学生ながらもこの練習場では一番センスがあるライダーだった。前の地方選手権では勝てなかった。

 舞を意識し過ぎてはいけない。私の調子は決して悪くない。他人を意識し過ぎて調子を崩すなんて最悪だ。自分の走りだけに集中すればいい。そう自分に言い聞かせつつ私は再び前を行く舞の背中を追いかけていた。

 ふと見上げると少しずつ日が傾きだす頃合いで、遠くの空にはこれは夕日と呼んでもいいのか? というくらいの中途半端な色合いの太陽が浮かんでいた。冷たい水道水で顔を洗うとシャキッとしたけど、その十秒後にはどっと疲れを感じた。

「夏貴さん」

 振り向くと舞がいた。

「お疲れ様」

「さっき、何か飛んでる時目合いませんでした?」

「合ったような気がする」

 舞は軽く笑って私の横で顔を洗う。

「調子良さそうじゃない」

「まぁ、それほどでもないですよ」

「私を抜いておいて嫌味なやつ」

 私は半分冗談、半分本気で舞を睨む。舞は笑う。ライバル同士ではあるのだが、私と舞は意外と性格が合いよく話した。

 バイクに乗っていない時の舞は全然アスリートっぽくなく、茶髪で少し猫目の、どこにでもいそうな普通の大学生に見えた。さっきまでのオフロードを飛ばしていた姿が嘘みたいだった。

 その日は帰るタイミングも偶然一緒で、どちらが誘うわけでもなくファミレスに寄った。

「最近よく練習場来てるけど、ちゃんと大学行ってんの?」

 私はポテトフライを齧りながら聞く。

「失礼ですねぇ、人をサボりみたいに。もう四回生で単位も取り終わってるんで、後は卒論くらいでほとんど大学に行くことなんてないんですよ」

「へぇ、意外と優等生なんだ。私の弟にも見習わせたいわ」

「え、夏貴さん、弟いるんですか?」

「そうよ。あれ、言ってなかったっけ。今三回生だから舞の一つ下」

「それ、めっちゃ歳離れてないですか?」

「十三かな。サザエさんとカツオと同じよ」

 姉弟の歳の差の話になると、私はだいたいサザエさんのことを引き合いに出す。ウケる時はウケる。舞は笑わなかったけど。

「てか夏貴さん、もう三十四なのかぁ」

「何よ、おばさんって言いたいの?」

「そんなことは言わないですけど、まぁ、改めて聞くと結構歳上なんだなぁ、って今再確認しました」

「再確認って何だよ」

 まぁ、確かに私は練習場に来る女子の中ではダントツに年長者なのだが、どちらかというと年齢よりも若く見られることが多く、そのおかげか何とか若者達に上手く溶け込んでいる。と、思っている。だから再確認というのも分からなくはない。自分で言うなという感じだけど。

「夏貴さんって、いつまでモトクロス続けるつもりなんですか?」

 私は眉間に皺を寄せて舞を睨む。

「いや、違いますよ。嫌味とかそんなんじゃなくて、普通に。私だってそうですけど、やっぱりいろいろ考えるじゃないですか」

 舞は少し慌てた様子で言った。

「あんた、大学出たら就職するんだっけ?」

「一応内定もらってる会社に就職するつもりですよ」

 そう言えば前にメーカーの総合職で内定をもらったという話を聞いたことがあるような気がする。

「モトクロスは続けるの?」

「続けるつもりですよ。とりあえずは」

「うん。あんたは続けた方がいい。才能あるからね」

「どういう話の流れですか」

「なかなかずっと頑張るって難しいよねー」

 私はそう言ってカルピスと山葡萄スカッシュを混ぜた淡い紫色の飲み物を飲む。ストローで。ほんのりではなくしっかり甘い。

「何なんですか。何かあったんですか?」

「まぁー、ちょっとねぇ」

「まさか夏貴さん、引退する気ですか?」

「いや、そのつもりはないんだけど。一応、今は」

「じゃ、何なんですか」

 舞は少し焦れたような声で言った。

「私、実はさぁ、プロポーズされたんだよ。この前」

 そう言うと舞はマジで驚いた時に出る感じの「えっ」を呟いて、「おめでとうございます」とポテトに手を伸ばしかけていた私の手を両手で包んで言った。

「良かったですねぇ。そっか、いよいよなんですねぇ。それでいつ籍入れるんですか?」

 と、舞の目はキラキラと輝いていた。何だかんだ若い、女子なんだなと思った。で、それだけにこの後の話を言いづらくもあったのだが、嘘をついても仕方がないことなので本当のことを言う。

「断ったの」

「は?」

「や、だから。断ったの。プロポーズを」

「……何で?」

 舞は「えっ」という表情で止まる。今の表情を絵画にして残したら、タイトルは間違いなく「理解不能」だろう。何て思うも気まずくて、「たはは」と冗談っぽく笑ってみた。が、舞は笑わない。

「いや、笑い事じゃないですよ。何でなんですか?」

「何でって言われると難しいんだけど。何だろ、まぁ、でもけっきょくはまだ自由でいたいというとこなのかな」

 ポンと出た言葉だが、あぁ、そうだ、と自分でも納得ができた。私は夢を追いかけるためにまだまだ自由でいたいのだ。マイナス要素を引き込みたくないのだ。シンプルな言い方をするとそうなのだ。少し背筋が冷たくなったが。

「え、でも、じゃあ別れるんですか?」

「いやぁ、別にそんな話にはなってないけど」

「何なんですかそれ。めちゃくちゃ中途半端じゃないですか」

「そうだね」

 自分でも分かってはいたが、人に言われるとちょっと堪える。

「プロポーズをするってことは向こうもかなり考えた末の決断だったはずですよ。断って、それでまた普通に戻るって、何か、ええー。そんなことあるんですか?」

 あるんですか、と聞かれても実際今そうなのだ。

 私は今、夢と恋愛(とりあえず今は恋愛と呼んでもいいだろう)を両方中途半端に抱えている。どちらにも転ぶことのできる状態をとりあえず維持している。そんな状態を続けて、上手くいくことなんてあるのだろうか。別にどちらも本気でないわけではない。ただ、百パーセントでないのも事実で、それはどうなのだろうと、若くて真っ直ぐな舞がそこを理解し難いのも分かる。

「夏貴さんは最終的にどうなりたいんですか?」

 舞がポテトを齧りながら聞く。少し考えたが、何も言葉が出なかった。思えば私には明確なビジョンがない。

 窓の外はもうすっかり夜で、国道を車が忙しなく行き来する。あの一台一台にちゃんと走っている理由がある、はずだ。つまりはそういうことなのだ。

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