第97話 向かい風に吹かれながら声援と変態に涙する

 ホッブは九割近く飛んだ場所に「黄金のイモリ」亭の顔馴染みを配置した理由を説明した。

「ここまで来たらもう、ただの応援じゃ聞かなくなってくる。だからクラエスには魅力的な“餌”でやる気を出させ、続いてその代わりに最悪な交換条件を提示して、その落差で絶対合格に持ち込もうという気力を奮い立たせる!」

「ホッブ……おまえ……」

 呆れたダニエラに、ホッブは不敵な笑みを見せた。

「まだまだ! 合格ライン直前にはさらに仕込んであるぜ!」

「あと何があるんだよ……クラエスが精神的にやられなけりゃいいけど」

「くっくっく……まかせろ! 次は……『恐怖』だ!」



   ◆



「アレはダメだよ……せめて両方の日数をそろえてよ……」

 わざわざ応援に来てくれた「黄金のイモリ亭」のみんなのおかげと言って良いのか……やる気を追加でもらったクラエスフィーナはなんとか九割を飛び切っていた。

 ただ、向かい風はますます強さを増している。おかげですでに、もう気力もギリギリの状態になってきている。


(みんなに応援……応援って言っていいのかな? に来てもらって、ジュレミーちゃんのおかげで楽に力が入るようにもなったのに……合格ラインが遠いよ……)

 魔力が尽きかけているのがわかる。気力だけでは何ともならない、絶対的な限界が。


 高度もかなり下がり、湖畔の観客がすでにほぼ真横の高さに見えている気がする。実行委員会の出しているボートも目に入るような高さになっていた。

(あとちょっと、なのに……)

 ほぼ真横に流れている吹き流しが恨めしい。合格ラインはすでに見えるところまで来ている。ここで墜落してしまったら無駄骨もいい所だ。発進直後に池ポチャした方がマシだった。

(なんとか、飛ばないと……あと少しなのに……)

 クラエスフィーナが唇を噛んで前をにらんだ時……明らかに学院関係者と違う男が、揺れるボートの上に一人立っているのが見えた。


(なに? 野次馬がコースの中にまで入って来ちゃったの?)

 危険防止のために一旦中止で延期にしてくれないかな……そんな後ろ向きなことをクラエスフィーナが考えた時。

 目前に迫ったボートの上で、夏の昼間にトレンチコートの男が漕ぎ寄せる実行委員のボートも無視して……コートの前をガバッと開いた。


 何にも着てない。


「俺を見てくれー!」

「ギャーッ!?」

 一瞬で総毛だったクラエスフィーナは、あらん限りの力で風魔法を発動する。

 疲労で重かった意識が一瞬で覚醒し、クラエスフィーナは魔力が尽きかけていると思えない力で高度を回復させた。

「また出た!? また出たよ!」

 涙目のエルフは逃げたい一心で、全力で魔法を行使する。後先なんて考えない。とにかく“変態さん”から距離を取りたい。向かい風なんて物ともせず、クラエスフィーナは合格ラインめがけて必死で機体を操った。


 実行委員と自警団に囲まれながら自称“世界で一番イケてる露出狂”の男は、飛び去るエルフへ絵になるポーズで熱いベーゼを贈った。

「また会おう、愛好家のお嬢さん! 俺の露出を見たい女性がいる限り、俺は何度だって参上しよう!」

 彼はすでにコートも脱ぎ捨て、何も隠す気が無い全裸マンだ。

「おい、誰か捕まえろよ!?」

「どこを掴んだらいいんだよ! やめろ、押すな! 変態がうつる!?」

「それにしても、日の降り注ぐ大自然の中で万座の観衆に我が肉体を披露する日が来るとは……」

 素っ裸の変態紳士は素晴らしい天気に目を細めた。

 素晴らしい青空に、心地よい賞賛の大合唱(に聞こえてる絶叫)。

 この晴れ晴れした気持ちを何と言えばいいのか……。

「んーっエクセレントッ! ちょー気持ちいい! 生きてきて今までで一番幸せだ!」

 大声で快哉を叫ぶ全裸マンに、周囲を囲む船から涙交じりの罵声が沸き起こった。

「うるさいっ! 周りの迷惑を考えろ、この変態!」

「お褒め頂き、ありがとう!」




「どこで連絡取ったんだよ……そんな刺激物が配置されてて、クラエス大丈夫かな……」

 聞いただけでげんなりしているドワーフ。本人も目撃者なだけになおさらだ。

「なあに、そして最後に置いたのが『希望』さ。クラエスはチョロいからな。これで収支はトントンになるだろうぜ」



   ◆



 クラエスフィーナはかなり合格ラインにまで近づいてきた。

 だがもう、さっきの変態のおかげで魔力は空と言って良い。それに引きずられて極度の疲労を覚えた身体は、方向舵のレバーを握りこむのもつらいくらいに力が抜けている。

 朦朧とした意識の中でも、高度がすでに水面ギリギリになっているのがわかる。合格したい一心で何とか高度を上げようとしているけれど、この無駄な抵抗もいつまでもつのか……。

 そこへ。

「クラエス!」

 一番欲しかった声が耳を打った。

「ラルフ!?」

 ハッとして顔を上げる。いつの間にか前を見ることさえできずに顔を伏せていたのだ。


 水面に張り渡した合格ラインの赤い帯がすぐ近くに見える。

 ボートで待機する実行委員たちが、立場に関係なく“高度を上げろ”と必死にジェスチャーをしているのが見える。

 その向こう、正面に浮かぶボートの上に……大きく手を振るラルフと幼年学校生の姿が。

「ラルフ!」

 クラエスは血が出るほど唇をかみしめ、ハンドルを握り直した。もう直進すればいいから操作レバーは放す。身体を固定するためだけのハンドルにしがみつき、正面のラルフだけを見る。

(ラルフのところまで行けば、もう大丈夫だよ!)


 何も考えるな。


 体力も魔力ももう全部使い切ってしまえ。


 ただ、ただ、前を見ろ。


 このまま飛んで、ラルフの胸に飛び込めば全て報われるんだ!


 クラエスフィーナは今度こそ、全身の力を燃やし尽くして機体を小さく引き起こした。水面に着きそうだった下部が、ほんの五十センチだけど浮き上がる。あからさまに高度が回復したのを見て実行委員たちがホッとしたところで……クラエスフィーナの“翼”は水面に流した赤い帯を越えた。

 


   ◆



 ものすごい低空飛行だけど、かろうじて浮いているのは見える。そんな状態でクラエスフィーナが合格ラインまで機体を持って来た。向かい風が強い中、今まで試験飛行を重ねた中で一番飛べている。

「がんばれ、クラエス」

 ラルフが小さく呟いた時、一緒にボートを漕いできたダスティンとベンジャミンが険しい顔でクラエスフィーナを指さした。

「クラエスフィーナさん、半分意識がないみたいです!」

「進行方向見てないっすよ! あぶねえ、このままじゃ初回の時みたいに着水してひっくり返るかも!」

 転覆防止の前翼をつけてからは、クラエスフィーナが機体の下敷きになることもなくなった。ただ、本人が操縦できないまま急角度で落ちたらどうなるかわからない。

 ラルフは不安に駆られ、立ち上がって叫んだ。

「クラエス!」

 頭を伏せていたクラエスフィーナがピクッと反応し、こっちを見た。笑った、と見えたのは考え過ぎか。

 合格ラインのこちら側で待機する三人は、クラエスフィーナの意識が正常になったのを見て大きく手を振る。

「クラエス!」

「クラエスフィーナさん!」

「ラルフ!」

 今度ははっきり叫び返してきた。離れていても、クラエスフィーナがハンドルを握り直すのが見える。ふわっと機体が上がり、姿勢も持ち直したのがわかった。

「よおし!」

「行けますよ、これは!」

 今の状態を維持すれば合格ラインはすぐそこ。高度が少し上がったので、これはもう……。

 ラインの目印をクラエスフィーナが越えた。

 ライン直上で待機していた実行委員が旗を振り上げる……色は問題なしを表す青!

「やった……」

 ラルフは飛んでくるクラエスフィーナに視線を向け直した。合格したんだと伝えてあげないと!

 ……そこまで考えたところで、ラルフは……クラエスフィーナの進路がまっすぐ過ぎるのに気が付いた。

「あれ?」


 まさかね。


 ラルフは自分の考えに苦笑する。

「ねえ、なんかクラエスの進路が僕たちにまっすぐ過ぎない?」

 そう笑って言いながらラルフが一緒にボートに乗っている二人を振り返ったら……ダスティンとベンジャミンが湖に飛び込むところだった。

「……いや、ねえ。ちょっと、キミタチ?」

 まさかね。

 ラルフがもう一度クラエスフィーナの方を振り返ったら……エルフの乗った実験機は、もう目前に迫っていた。



   ◆



 あちこちに配置されている実行委員が手旗信号でリレーしてきた結果を記録係が読み上げた。

『九番、クラエスフィーナ二年生。合格ラインに達しました。合格です』

 アナウンスを聞き、ホッブとダニエラが掌を叩き合わせる。

「やったな!」

「やったぜクラエス!」

 さらにハイタッチをして喜びを爆発させる二人は、ゴールで何があったのかを知らなかった。


 知っていてもやることに変わりは無かっただろうが。




 クラエスフィーナは課題審査に、無事合格した。

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