第95話 飛び出せ! クラエスフィーナ!

 名前を呼ばれてから空へ飛び出すまで、それなりに時間があった筈なのだけど。飛ぶことだけを考えていたクラエスフィーナには、あっという間の出来事のように思われた。


 クラエスフィーナがボーっとしている間に機材をホッブとダニエラが運び込み、ホッブが導師たちに向かって自信満々に研究成果を説明した。

 質疑応答では色々咄嗟に答えにくい質問も出たそうだけど、ホッブはまるで聞かれる内容が事前に全部分かっていたみたいにサッと答えを返していた。実際には覚えていないことでも、ホッブは何食わぬ顔でアドリブで答えを捏造していたらしい。表面に出さずに瞬時に話を作れるところは、さすが法論学科。


 その間にダニエラが発射台のゴムの巻取りを一人でやり、方向の調整も済ませてくれた。今までの実験ではどちらも三人くらいでやっていたので、なかなか大変だっただろうとは思う。

 そしてハッとクラエスフィーナが気がついた時には。


「おっしゃ、固定ベルト装着良し! クラエス、いざという時の脱出用ナイフは持ってるな?」

 ダニエラに聞かれ、クラエスフィーナはポケットを叩いた。最初の時みたいに固定ベルトが外れなくなったら、この小さなナイフでベルトを切って脱出する。安全対策もバッチリだ……パニックになっていなければ。 

 一抹の不安を覚えるクラエスフィーナに、ダニエラがニヤリと笑って付け加えた。

「この実験機は地上に降りるようになってねえからな……クラエス、もし飛び過ぎて向こう岸まで行っちまったら、湖の上にいるうちにこのナイフで“翼”の表面を切り裂け! そしたら湖面に“安全なうちに”墜落できるからな」

「墜落する段階で安全じゃないよぅ……」

「軽い工造学科ジョークじゃねえか」

「いっぱいいっぱいの時に反応に困る冗談を言わないでよ……」


 ホッブが方向を最終確認する。

「いいかクラエス、貴賓席と有料観覧席は仕方なくだが……コースの大体半分から先に、応援の連中が点々といるはずだ。ヤツラの見たくもねえ顔も何かの力になるかもしれん。ちょっとだけ飛距離が伸びるが、岸がずっと見えるようにこう、弓なりに飛ぶように努力してくれ」

「了解だよ! 嬉しいな、誰が来てくれてるかな」

 ジュレミーとラルフと応援の幼年学校生はすでに岸辺のどこかに向かっているはず。彼らの声援がきっと力になるだろうと、クラエスフィーナの緊張した顔もわずかにほころんだ。


「よし、じゃあ行くぞ!」

 ホッブが右手を掲げてタイミングを取り始める。


「おし来たあ!」

 ダニエラが発射台のスイッチの前に陣どった。


「いつでもいいよ!」

 クラエスフィーナもハンドルを強く握り、射出の衝撃に耐える姿勢になった。


 ホッブが風を見る。

 緊迫の時間が数秒流れ、ホッブが静かに、しかし大声でカウントを始めた。

「五!」

 クラエスフィーナが身を縮める。

「四!」

 ダニエラが後ろで動く気配がする。

「三!」

 クラエスフィーナの脳裏を一瞬、今までの苦労が早回しで駆け巡った。

「二!」

 ホッブの顔が緊張で固くなる。

「一!」

 ダニエラが息を止める音が聞こえた。

「行っけぇぇぇ!」


 シュパンッ! という意外と軽い音とともに。

 クラエスフィーナの身体に引っ張られるような力が加わり、一瞬の後には視界が変わっていた。



   ◆



 クラエスは風魔法を念じながら、ハンドルについているレバーを慎重に握りこむ。


 風魔法も慣れない頃は、とにかく一生懸命かけまくっていた。

 だけど実験を繰り返すうち、ずっとかけ続ける必要がないことが分かった。常に全力より、強弱をつけて必要最低限で飛ぶ方が大事だ。


 地上の様子を見ながら左右のレバーを握り、機体の向く方向を調整。

 行く先がやや右寄りになって来たので、クラエスは完全に回りきる前に右手のレバーを離した。視界の端で“翼”の表面に立ち上がっていた抵抗板ブレーキが倒れ、機体を伝って軽い振動が響いてくる。左右のバランスが戻ったので、方向はこれでおおかた良くなったはず。後は湖から飛び出してしまわないように、時々微調整すればいい……と思う。


 クラエスフィーナの目に、地上の熱狂する様子が見えてきた。野次馬たちは熱心に応援しているというより、酒のつまみに試験を見ているという感じだ。

 そんな様子を観察できるぐらい心に余裕ができたんだなあと、エルフはちょっと微笑んだ。

(だけど緊張しているせいなのかな? ちょっと機体が“重い”気がするよ……)

 達成できるか、また心配になったけど……今ここに至って、そんなことを気にしても仕方ないとクラエスフィーナは考え直した。


 もうすでに空に飛び出しているのだ。あとは数分間を全力で飛び切るだけ!



   ◆


 

 見事に機体を制御してクラエスフィーナがゆっくり飛び去る。

 それを笑顔で見送っていたホッブとダニエラだったが……。

「行ったな……」

「おう……くそっ、前の連中がグズグズしてるから!」

 二人ともクラエスフィーナが飛び立つまでは余裕を演じていたけれど、今は偽装もはげ落ちて厳しい表情になっている。クラエスフィーナには見えないように隠していたけど、実は楽観できる状態では無いのだ。


 ホッブがちらりと吹き流しを見た。風にそよぐ縞模様の布は、緩やかながらも手前側にはためいている。

 時刻はすでに昼食を取るにも遅い時間……風は向かい風になっていた。



   ◆



 さすがのクラエスフィーナも、コースを三分の一ほど飛んだ頃には(おかしいな?)と気づき始めていた。

(風が、午後の風になってるよ!)

 機上ではいつだって風を正面から受けている感じがするから気がつかなかったけど、ここまで飛ぶのに時間がかかり過ぎている。

 だとすると、この先ずっと向かい風だ。自分の風魔法で作った人工風と天然の向かい風の押し合いになる。それが合格ラインまで続く。体力勝負だ。


 地上のところどころに設置されている吹き流しを見ると、やはり終着点の側から風が吹いている。しかも揺れ方から言って風量が不安定だ。突風の心配もある。

(風が強くなってきたら、私の風魔法も強くしないとならない……なんとか魔力が尽きる前に飛び切れればいいけど……)

 エルフは頭を振って弱気な考えを追い出した。


 どうせあと数分。今は無心に機体を操るしかない。



   ◆



「そろそろクラエスも風の向きに気がついただろうな」

「そりゃそうだろ。結局尊敬すべき学院長クソジジイのおかげで完全に午後になっちまったなあ……なあホッブ、これは八割コースだぜ? いけると思うか?」

 すっかり小さくなったクラエスフィーナを見ながら、ホッブとダニエラは肩を並べていた。

「魔力は微妙な調整を覚えたから、結構いい所まで行けると思う。ただ、最後の最後まで完全に絞り出せるかが気がかりだった」

「やっぱり徹底的に魔力を出し切るってのは難しいもんなんか?」

 ダニエラの質問にホッブが首を振った。

「そいつは魔力の研究をした事ない俺なんかにゃわからん。ただ、クラエスの場合……限界まで行く前に、本人の気力が折れちまうと思う」

「ああ……」

 ダニエラの方がクラエスフィーナとの付き合いが長い分だけ、その辺りはよく判る。

「そこで俺の考えたのが、順風だろうが逆風だろうがきつくなる後半に応援団を分散配置して声援に力をもらう作戦だ。へこみやすいが立ち直りもチョロいクラエスだ。顔見知りが次々応援してくれれば、きっと前向きな気力を維持できる」

 ホッブはそう断言し……小さく付け加えた。

「と、いいがな……」

「おい、おまえが自信持ってくれよ。でも、そうだな……クラエスにはその手は効きそうだな」

「だろ?」

「ああ」

 二人は顔を見合わせて人の悪い笑みを浮かべた。

「クラエスはチョロい女だからな!」

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