飛翔






     立ち止まるな!


     翔べ!!






Scene15


 今年は例年より早く、春がやってきた。

 南から大急ぎで暖かな風が吹いてきて、三月の始めだというのに、あっという間に花をほころばせた。

 桜が嘘のように花開いた。

 まるで、その日を祝うかのように……


「やっぱりここにいた」


 遠くに見える桜の木々を見下ろしながら、私は錆びた鉄柵の側に立っていた。


『卒業パーティー、行くんじゃなかったの?』


「行くよ、後で」


 軋む鉄扉をゆっくりと閉めて、彼は歩いて来た。


『そ……桜咲いて良かったね』


「うん」


 桜が綺麗だと、素直に思ったのは初めてな気がする。

 儚い花なのに、直ぐに散ってしまうのに、人々が開花を待ち望む理由が解った気がした。


「はい」


 渡されたのは、いちごオレ。

 そして彼の手には……


「この間は飲めなかったからさ、買ってきた」


『ありがとう』


 やっぱり、イチゴオレは甘かった。


「卒業おめでとう」


『そっちも、おめでとう』


 ソータは今にも崩れそうな鉄柵に肘を付いて、バナナオレを飲み始めた。

 よく考えると、この鉄柵の前に並んで立ったのは、この二年間で初めてかもしれない。


『制服、汚れるよ?』


「いいよ、もう着ないし」


 眼下の裏庭では、胸元にコサージュを差した女子生徒が数名、校舎を背景に記念撮影を行っていた。

 きっと、逆側の校庭の方でも同じような光景が見られるだろう。

 屋外だけではない、校舎の中だって……


「っつーか、もう着れないが正しいかな?」


『なんで?』


 握り潰すようにバナナオレを一気に飲み干すと、ソータは体ごと此方に向いた。

 両手を広げ、制服を見せつけるようにする。

 ソータの制服は、ブレザーの二つのボタンも、ワイシャツの小さなボタンまで、綺麗に無くなっていた。


『人気者ですね』


「まぁね」


 制服の第二ボタン云々なんて、未だに信じている輩がいるとは知らなかった。

 鼻高々で、ソータは胸を張っていた。

 羨ましいとは思わないが、なんとなく燗に触る。

 彼がやったのと同じようにぎゅっと握り潰すようにして、私もイチゴオレを飲み干した。

 羽織る事しか出来なくなってしまったソータのワイシャツ。

 下に着ているTシャツから覗く素肌には、もうグロい痣は見当たらなかった。


『……良かったね』


 何に対してか、そんな言葉が口から零れた。


「うん……だからこれはお礼」


 ソータは笑って、私に手を出すようにと催促した。

 「何のだよ?」と言うのは憚られて、私は恐る恐る掌を差し出す。

 白銀色のエンブレムが刻まれた、足つきボタン。

 掌の真ん中で、それはポツンと転がっていた。


『いらない』


 小さなボタンを握り閉め、正拳突きを繰り出すように、直ぐ様それを突っ返す。

 ヒュンっと音をたてて繰り出されたその一撃を、ソータはヒラリとかわした。


「いいじゃん、貰ってよ」


 そのままソータは、からかうようにケラケラ笑いながら、私から距離をとった。

 ただでさえ、望んでもいないものを贈られて恥ずかしいのに、その上からかわれれば恥ずかしさが募る。

 私はソータを追いかけ、躍起になって右手を突き出す。

 狭い屋上で、意味不明な追いかけっこが始まった。


『だからっ、いらないってば!』


「返品はききません」


 なんだか、凄い前にも、ソータと同じようなやり取りをしたような気がする。

 あれは、いつだったか……


『なんでよ!?欲しい娘にあげればいいでしょ!』


「俺は、あげたい娘にあげたんですっ!」


『意味解んない事言うな!』


 春風がそよぐ中、屋上の崩れた破片を蹴飛ばしながら、私達は狭い距離を行ったり来たりする。


『そもそも、第二ボタン云々の話は、学ランが基本でっ……』


 先に足を止めたのは、ソータだった。


「知ってるよ。心臓に一番近いところだから第二ボタンでしょ?」


 避けるのを止めたソータは、私の突きだした右手を左手で受け止める。

 ソータの左手が私の右腕を掴み、右手が左腕を抑え込む。


「そのくらい知ってるよ」


 私は完全に両手を封じられて、逃げる事も出来ない。

 屋上の真ん中で、私達は見つめあっていた。


「だから、それは第一ボタン、ブレザーで心臓に一番近いヤツ」


 腕を掴んだまま、ソータは私の背の高さに合わせるように顔を近付ける。

 いきなり真剣な顔をするから、大きな瞳で真っ直ぐ見つめるから、首は自由に動くのに、私は目を逸らせなかった。


「シイナが持ってて」


 間近まで近付いた唇が、囁くように言葉を紡ぐ。

 ソータの力はやっぱり私より強くて、彼が異性だと思い知らされた。

 腕を掴む掌は、私の腕をすっぽりと包んでいた。


『……わかった』


 蚊の鳴くような声で、しぶしぶそう言うと、やっと私は解放された。

 ブレザーの上からだったのに、体温が伝わったかのように、捕まれていた部分が熱い。


『私もっ、私もソータになんかあげたいっ!』


 走り回ったせいか、やけに鼓動が五月蝿くて、何か言わなくてはと思って、絞り出したのは子供のような言葉だった。


『いつも貰ってばかりで、私だってソータにあげたい』


(いつからこんなわがままが言えるようになったんだろう?)


「もういいよ」


 駄々っ子のような私の台詞に、ソータは歯を見せ笑った。


「もう貰ってる」


 そう言って、胸元のポケットから何かを引っ張り出す。

 私の胸元にあるのと同じ、白い花を模したコサージュが僅かに揺れた。

 胸元から取り出した何かを、ソータは広げると、私の方へ突き出すように示す。

 それはメモ紙だった。

 そこには、可愛げのない文字がたった五文字綴られていた。

 紛れもなく、私の文字だった。


「これがシイナが俺に初めて云った言葉」


 いつだったか、まだ私がソータと言葉を交わす前、寝ているソータに押し付けた、礼を書いたメモ紙だった。


(なんでそんなの、とっといてあるのよ……)


「なんだかんだ、結構これが支えてくれた……」


 はにかむように小さく呟いて、ソータはメモを小さく畳んで、元あった胸ポケットに戻した。

 だから、私もソータから貰ったボタンを、同じように胸ポケットに仕舞った。

 校庭の方から、数人が声を合わせて、大きな声で礼を言う声が響いてきた。

 そろそろ、名残を惜しむ時間はお開きになるようだった。

 これから一度帰宅し、着替えて卒業パーティーへと皆向かうのだろう。

 どこからか舞ってきた桜の花弁が一枚、私とソータの間を通って、屋上の隅に着地した。


「シイナ」


 名を呼ばれ、桜が舞い踊るのに目を奪われていた私は、顔を上げた。

 ソータは、右手を掲げていた。

 まるで、さよならする時の身振りのように、肩の高さで、弛く手を挙げていた。

 私には、それが別れの合図ではない事が直ぐに解った。

 言葉にされなくても、理解出来た。

 青空の下。

 勢いをつけて一瞬だけ合わさった二人の掌が、パァンッという軽快な音を響かせた。






 その日、


 私達は無事高校を卒業した。






 その後。


 ソータは、念願だった大学に。


 私は、地元の大学へと進んだ。




 頻繁だった


 メールのやり取りは、


 日をおう事に減り、


 卒業から七年の間、


 私がソータと顔を合わす事は


 無かった。




 卒業後のソータが


 どうしているのか、


 私はもう知らない。




 あの旧校舎の屋上が


 どうなっているのか、


 私はもう知らない。




 けれど、


 一つだけ解る事がある。




 次に会った時も、


 きっとソータは、


 笑っているに違いない。

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