日常想起14

 正月休みが終わりを迎えると、椎梛はアルバイトを始めた。

 冬休みに入ると同時に、フリーペーパーを中心にアルバイトを探し始めたのだが、始めた当初は決して上手くいってはいなかった。

 居酒屋、ファーストフード、コンビニエンスストア……

 駅前に建ち並ぶチェーン店は、軒並みアルバイトを募集していたものの、どれも椎梛が継続的にやっていけそうなところは無かった。

 勿論、アルバイト自体椎梛は初めての事だ。

 まずはどこでも、面接に行ってみたほうがいいのかもしれないと思ったが、樹に相談すると、どれも「やめとけ」という一言で一蹴された。

 結局、バイト探しを始めて、面接に行くまでの間に半月近くの月日を要する事になってしまった。

 しかし、運の良い事に、椎梛は初めての、たった一回の面接で、挫折を味わう事も無く、合格したのだった。

 推薦受験で面接を体感していたのも項を奏したのかもしれない。


「椎ちゃん!これ並べといてくれるかい?」


『は、はいっ!』


 アルバイト三週間目。

 仕事には慣れてきたものの、「椎ちゃん」というその呼び方にはまだ馴れない。

 椎梛の勤め先は、今時珍しい、古くからある「うさや」という甘味処だった。

 椎梛の家から少し離れた、用水路の流れる裏道に、その店は小ぢんまりと建っていた。

 経営者は、既に六十を越えた夫婦で、大繁盛しているわけではないが、地域に根付き、細々と商いを行っていた。


「椎ちゃん、それ終わったら、客席の掃除お願い出来るかい?」


『はいっ!』


 甘味処「うさや」は、店の三分の一が和菓子屋で、三分の二は木製の客席が並ぶ甘味処という造りになっている。

 頼まれた仕事を椎梛はてきぱきとこなしていく。

 元々不器用なわけではない椎梛は、接客こそ得意ではないが、直ぐに仕事を覚えた。

 その為、店主からも気に入られ、たった三週間で、仕込みが忙しい午前中や、混雑するおやつ時も一人で任して貰える程になっていた。

 商品を並び終えると、今度は雑巾を持って、机や椅子の拭き掃除を始める。

 漆を模した黒いテーブルも、座席部に赤い合成皮の貼られた椅子も、塵一つ残さぬよう注意し、丁寧に拭っていく。

 その作業の一つ一つが、細やかだが、決して遅くはない。

 だが―――


「今日は朝からやけに時計を気にしてるねぇ?何かあるのかい?」


 掃除の最中もチラチラと時計をやけに気にしている椎梛に、裏から暖簾を潜って出てきた女将が声をかけた。


『え?あ……すいません!』


 半ば屈む姿勢で椅子を拭いていた椎梛は、慌てて立ち上がり頭を下げる。

 実を言えば、言われるまで自分がそんなに時計を確認している事に気付いていなかった。


「謝らない謝らない、うちはそんなに忙しくないんだから、何かあるなら言っていいんだよ」


 重大なミスをしてしまったかのように顔を青くする椎梛に、女将は笑って言う。

 椎梛が「うさや」で働きたいと思った理由の一つは、この女将の人の良さだった。

 華奢で、腰も曲がり始めているが、優しく柔和な女将の人柄は、同年代と付き合うのが苦手な椎梛にとって、絶好の条件だった。


『実は、今日友達の合格発表なんです』


「そうかそうか、椎ちゃんは高校三年生だもんねぇ」


 女将の笑顔にほだされるように、椎梛は正直に答えた。

 以前の椎梛なら確実に取り繕っていただろう。

 けれど、今はすんなりと本音が口から滑りでる。


「連絡が来る事になってるのかい?」


『えぇ、多分。あ、でもその人少し遠くの学校を受験したんです。だから、直接合格発表を見に行くって言ってたので、遅くなると思います』


「そう……それじゃあ、心配になっちゃうよねぇ」


 大丈夫、と笑ってみせ、椎梛は作業へと戻った。

 椎梛が甘味処「うさや」を見付けたのは本当に偶然の事だった。

 樹の母親、椎梛の母方の祖母の入院先に見舞いに行く際、いつもと違う道を通っていく事にした。

 脇道に逸れ、半ば散歩がてら、病院の方角を目指して、藤棚や植物が植えられた用水路に沿って歩いていた。

 そこで目に飛び込んできたのは、雪兎のような真っ白な饅頭だった。

 まるで「食べて」と訴えかけてくるようなその姿と、餡子の甘い香りに誘われ、見舞いの手土産に丁度いいのではないかと、椎梛はその店に入った。

 そこで、店内に貼られた求人の貼り紙を見付けたのだ。


「椎、兎饅頭が出来た。並べてくれ」


 椎梛が輝きを放つ程に椅子と机を磨きあげたところで、今度は店主が暖簾から半分だけ顔を出した。


『はいっ!』


 椎梛は慌ただしく動き回る。

 暖簾の向こうから、腕だけが伸びてきて、まだ湯気のたつ白兎の群れを差し出してくる。

 甘味処「うさや」の名前は、店主夫婦が宇佐うさという名字のため付けられた屋号だ。

 兎饅頭は「うさや」という名前にちなんで、作られた。

 その兎饅頭がこの店の名物なのだと知ったのは、働き始めてからだった。


「椎、まだ熱いから気をつけろよ」


 店主はそれだけ言い、直ぐに顔を引っ込める。

 店主は、女将に比べれば随分とぶっきらぼうな人だった。

 でもそれは冷徹なのではなく、いわゆる職人堅気な人なのだと椎梛には直ぐに解った。

 店の表に顔を出す事は殆ど無く、客の相手をする事も無いが、顔を合わせる度にかけてくれる言葉は、素っ気なくともいつも温かだった。

 今度は、兎饅頭をショーケースへと並べる。

 並んだ兎はゆっくりと大気に馴染み冷めていく。

 だが、決してしぼんだりはしない。

 先日、病室で兎饅頭を食べた祖母は、決して甘過ぎず、薄い皮は軽やかで美味しいと評した。

 一つもらった椎梛は、とても優しい味だと思った。

 甘党の颯大が喜びそうだと思った。


「椎、それが終わったら、休憩に入れ」


 愛しげに兎を並べる椎梛の背へ、半ば怒っているかのような愛想の無い声がかかる。

 振り返ると、そこにはもう店主の姿は無かった。

 きっと女将が先程の話を伝えたのだというのが直ぐに解った。

 それで、早めに休憩に入るよう勧めてくれたのだ。

 やはり優しい人だ、と椎梛は思う。

 胸に甘い痺れが拡がり、口角が勝手に上へ上がるのを抑えきれない。

 アルバイトをするという決意に一番不安を抱えていたのは椎梛だ。

 なんだかんだ言っても、自分が箱入り娘で世間知らずだという自覚が椎梛にはある。

 上手くいかないんじゃないかという思いが拭えなかった。

 でも、椎梛は素晴らしい職場に恵まれた。そのお陰でなんとかやっていけていた。

 お昼を過ぎると、甘味処は一気に込み始める。

 昼下がりの一時をのんびりと過ごすOL、お茶を楽しむ常連……

 今の寒い時期はそんなに客足が目立って多くはならないが、春になれば桜餅や柏餅、彼岸のおはぎなど、和菓子が活躍する時期になる。

 それが過ぎれば殊更、熱い夏には餡蜜や心太、冷やしあめやかき氷、小さな甘味処には、涼しさを求める人が多くなる。


『お汁粉、お待たせしました』


 早めの昼休みを貰った椎梛は、午後からまた張り切って働き始めた。


「お、有難う!いやぁ、やっぱり若い娘がいると店が華やかになるねぇ」


 毎日来てくれる常連の老紳士は、椎梛の顔を見掛ける度にそう声をかけてくれる。


『有難うございます』


 些細な一言にも初めは戸惑っていた椎梛は、今となってはすんなりとお礼を言えるようになった。


『女将さん、抹茶二つとみたらし二つ、お願いします』


 常連客に会釈と笑顔を送って、椎梛は裏に注文を伝えにいく。


「はいよ~」


 女将の明るい返事が直ぐに返ってくる。

 以前はたった二人で切り盛りしていたが、椎梛が来てから負担が減り、店がスムーズにまわるようになった。

 結果、寂れかけていた「うさや」は少しづつ客足が増えていた。


『あ、あとお昼ご馳走さまでした!肉じゃが美味しかったです』


「いいのよ、いつも残り物でごめんね~」


 抹茶と団子を用意して、女将は相変わらずの笑顔で椎梛の元へとやって来る。


「それで、お友達からは連絡来たのかい?」


『いえ、まだ……』


 颯大からの連絡は、まだ来ていなかった。


「なんなら、早めにあがるかい?」


『いいえ、大丈夫です』


 椎梛は笑顔で答え、お茶と団子を受け取った。

 連絡をしてくるなんて約束はしていなかった。

 でも、颯大なら必ず椎梛に結果を伝えてくるだろうと思っていた。

 きっと満面の笑顔を浮かべて、努力の結果を教えてくれると信じていた。

 夕方五時を過ぎると、「うさや」は甘味処、和菓子屋共に忙しさが落ち着く。

 後二時間で閉店という時刻。

 その頃になると、客はお茶一杯で長居するような人ばかりになり、椎梛の仕事は格段に減る。

 会計をする客もいなさそうなのを見計らって、椎梛は早々と締め作業に入る事にした。

 断りを入れて、箒を持ち、まずは店の前の掃き掃除をする。

 朝と夕、二回掃除をしているので、そんなには汚れていない。

 用水路に沿って植えられた木々も、今はすっかり葉を散らしているので、落ち葉が積もったりもしていない。

 砂埃を軽く集め、さっさと塵取りで集める。

 仕事着姿で出ているので、寒い。

 足元や指先から、凍るように冷たくなっていく。

 とっとと終わらせてしまおうと、かじかむ手を無理矢理動かす。

 その時だった。


「シイナっ!」


 冷たい風が髪を靡かせ、椎梛を呼んだ気がした。

 身を縮こませているせいで下がっていた目線は、自然と上へと上がっていく。


「シイナっ!」


 もう一度聞こえた。

 細い用水路の向こう側で、けぶるような真っ白い息が後から後から、吐き出されていた。

 肩はふいごのように上下し、紺色のマフラーを波打たせている。

 それだけで、その人が走って来たのが判る。

 箒を抱えたまま、椎梛は息を飲んだ。

 颯大は口を半開きにし、声すら出せないようで、ただただ息を整えていた。

 椎梛は、なんて声をかけたらいいか判らなかった。

 「どうだった?」「結果は?」「バイト先の場所よく分かったね?」

 聞きたい事は山程あるのに、言葉が出てこなかった。

 颯大も同じような状態だった。

 伝えたい事がありすぎて、息苦しくて、言葉にならない。

 新幹線を降りて、真っ直ぐにここまで走って来たのに、話せない。

 だから、颯大は両手を振りかざした。

 頭の上で、両手で大きな丸を形作った。

 はじけるような、満面の笑顔で――――

 用水路の向こう側に大きな丸が浮かび上がったのを目に焼き付けると、椎梛は弾かれたように踵を返した。

 箒を投げ出し、用水路に背を向け、店の中へと飛び込んだ。

 夕日は早々と沈み、夜を迎えようとしていた。

 最後の客が、息を切らして飛び込んで来た椎梛とすれ違うように出ていった。

 レジの前にいた女将は、椎梛のいつになく取り乱した様子に、思わず目を丸くした。


『すいません!兎饅頭二つとお茶を!』


 驚く女将に向け、椎梛は声を張上げた。

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