日常想起13

 琥珀色の液体。

 純白が螺旋を描く。

 立ち上る湯気は、外気に溶け込み、芳醇な薫りを振り撒いて拡散する。


『久しぶりだと美味しい』


「だろ?やぁっと旨い珈琲が飲めるってもんだ」


 教育委員会が学校の調査を行った事で、一時は片付けざるをえなかったコーヒーメーカー。

 ほとぼりがさめたのを見計らって、樹は再び元通り設置した。

 窓の外では、色づき始めた木の葉を冷たい風が揺らしている。


「それにしても……」


 自分用にもブラックで珈琲を淹れ、そろそろ冬支度が必要だなとか考えながら、樹は座った。


「良かったな、推薦貰えて」


『うん』


 はにかむようにもう一口啜り、椎梛は頷いた。

 樹からすると、椎梛のその反応は少し意外だった。

 以前だったら、間違いなく「別に」とか言ったんじゃないだろうか。

 思わぬ反応に、茶化すべきか迷う。


「そ、そうか……それで?どうしたんだ?」


 結局、指摘する事は出来ず、話をふったくせに、思わず自ら話を逸らした。

 少し不自然な話題転換であったが、椎梛は気にしていないようだった。


『あのさ、次の日曜日って、予定空けられる?』


「あー、ちょっと待てよ」


 カレンダーを確認する。

 多分予定は無かったはずだ……。


「……墓参りか?」


『うん、車出せる?』


 時節的に、何を望まれているかは、すぐに察しはついた。

 毎年、この時期になると、母の教えを守り、必ず自分の目の前で同じ事を椎梛は頼みに来る。

 だが……


「命日じゃなくていいのか?」


 昨年は、三回忌で朝比奈の家で法事を行ったため、椎梛は命日に墓参りに行く事が出来なかった。

 それを悔しそうにしていたのを、樹は覚えていた。

 けれど、次の日曜日では、椎梛の母、椿の命日から一週間早い。


『何言ってんの?その日は受験当日だよ?』


「え!?あっ、そうだったな」


 半ばジト目で見てくる椎梛に、樹は笑って誤魔化した。


『受験の前にさ、お母さんにお願いしようと思って、合格させてって』


「[面と向かって]か?」


『そ』


 二人だけにしか解らない秘密の合言葉でも唱えるように、二人は顔を見合わせた。


「なんなら、受験の時も送ってってやろうか?」


 珈琲を飲み干し、カップを置くと樹は手を伸ばし、椎梛の頭をわしゃわしゃと撫でた。

 椎梛はされるがまま、髪を乱される。


『いいって。学校の前まで車で乗り付けたら、心象悪いでしょ!』


 少しだけ仔猫のように心地良さげに撫でられた後、椎梛は我に返ったように取り繕って樹の手を押し退けた。


「あぁ!そうかそうか!俺なんかいなくてもお迎えがあるんだろ?」


『はぁ?なんの話?』


「聞いたぞ、文化祭ん時、仲良さそうに男と手繋いで歩いてたって」


 樹はニヤリと笑って、二杯目の珈琲を淹れ始める。


「いやぁ、お前もとうとうそういうお年頃かぁ」


 大袈裟に嘆く振りをして、口元だけは下卑た笑みを浮かべて、樹は言った。

 伝え聞いたように言ったが、実は樹は文化祭の時の椎梛を見掛けていた。

 身内であるにも関わらず、正直目を疑ってしまった。

 けれど、数瞬後に納得した。

 幼い頃から見てきた姪っ子が、最近格段に柔らかな雰囲気になったのは、それが原因なのだ、と。


『はぁ、あのねぇ、そういう事言う?』


「照れない照れない」


『あー、もうっ、めんどくさいなぁ!っつーか、叔父さんは一応先生でしょーが!』


 座ったまま、顔色一つ変えて無かったが、少しだけ声をあらげ、椎梛は反論する。

 樹は、こんな会話を椎梛とは一生出来ないんじゃないかって、心のどこかで思っていた。


「わかったわかった、まぁ、清く正しい交遊をしなさい」


 樹はクスクス笑いながら、応対する。


『はいはい』


 椎梛は諦めたように返事して、「ごちそうさま」と飲み終えたカップを置いた。


「お?もう一杯淹れるか?」


『ううん、これから待ち合わせしてるから』


「ふーん、そうかそうか」


 スカートを整えながら立ち上がる椎梛に、樹はまたニヤニヤ笑いを深める。

 椎梛はもう相手にしなかった。

 代わりに、扉の前まで行った所で、捨て台詞を残す。


『叔父さんこそ早く結婚して、私を養子に貰ってよ』


「相手がいたらなー」


『案外近くにいるんじゃない?例えば、この学校の卒業生の娘、とかね』


 言うだけ言って、言ったもん勝ちとばかりに、椎梛は保健室を出ていく。

 残された樹は、そんな風に言い返されるとは思ってもみず、驚きに口をぽかりと開けてしまっていた。

 扉はあっという間に、ピシリと閉じられる。

 呆気にとられている樹を放置し、椎梛の軽快な足音が離れていく。

 姪っ子がもう離れたところまで行ってしまった事が解ると、堪えきれずに思い切り吹き出していた。


「まったく……あいつが冗談まで言うようになったとはねぇ」


 誰もいない保健室で、独り笑う。

 沈みこんでいるんじゃないかと、心配していたのだが、完全な杞憂だったらしい。

 机に面した窓を開ける。

 途端に冷たい風が、堪えきれなかったように室内へと滑り込んでくる。

 引出しに隠してある灰皿を取り出し、白衣のポケットから煙草を取り出す。

 先日、椎梛は現朝比奈家の当主と派手な言い争いをした。

 何を言ったかまでは聞いていなかったが、朝比奈家の当主である椎梛の祖母は、最終的には半狂乱で「勘当だ」と喚きたてたと言う。

 椎梛の父は、杖を振り回す当主を押さえ付けるので手一杯で、仲裁するわけでもなく、椎梛を帰した。

 そして、それから何の沙汰もないらしい。

 本当に勘当なのかどうかも判らない。

 椎梛はその状態で受験を迎えなくてはならなくなった。

 だから、文化祭時の椎梛を見掛け、樹は少し安心したのだ。

 日頃から椎梛は表情が殆ど変わらないので、何を思っているか解らないから。

 風に吹かれ、いつもより早く煙草は短くなっていく。

 珈琲はすっかり冷め、もう冷たい。

 だが、心地悪くはない。

 椎梛の今の反応を見て、樹としても腹が決まった。

 もし、本当に椎梛が勘当されたのだとしたら、今度こそ自分が引き取ろうと……。

 三年前、椎梛の母が亡くなった時には、樹は結局何も出来なかった。

 それを悔やんでいたからこそ、にわか保護者を引き受けたのかもしれない。

 だが、今度こそは……。

 いつの間にか、フィルター近くまで短くなった煙草を揉み消す。

 実を言えば、日頃はもう少し隠れてこそこそ吸っている。

 こんなに堂々と、部屋の真ん中に鎮座して煙草をくゆらしたりはしない。

 樹が口内に溜め込んでいた最後の紫煙を吐き出した時だった。


「橋坂先生、いらっしゃいますか?」


 ノック等の予備動作無しに、扉がガラリと開いた。

 内心、マズイと思ったものの、今更隠しても時既に遅し。

 ならば、慌て隠すより、相手の口を封じておくほうが良いと、居直る。


「あぁ、良かった、いらっしゃったんですね。今宜しいですか?」


 背を向けたまま、吸殻のみを携帯灰皿へと移動させる樹に、丁寧な言葉に反してズカズカと無遠慮に部屋に入り込んでくる。


「大丈夫ですが……どうしました?」


 灰だけが僅かに残った灰皿を引出しに戻し、樹はやっと振り返った。

 男性教師は勧めてもいないのに脇にあった丸椅子へと座った。

 そこは、つい先程まで椎梛が座っていた席だ。

 目の前には、樹の手元にあるものとは別の、空のコーヒーカップ。

 校内のお偉いさんに知られれば、減給くらいは余裕でされそうな品々のオンパレードだった。


「実は、橋坂先生にご相談したい事がありまして……」


 しかし、男性教師は全くそれらに気付いてすらいないようだった。

 息苦しそうな、切羽詰まった顔をしている。


「ええ、構いませんよ。なんなら、珈琲でも淹れますか?」


 樹は然り気無く、二つのカップを下げる。


「あぁ、有難うございます」


 男性教師は丸椅子に小さく収まるようにして座っていた。

 よく見れば、顔色も悪い。

 彼は、樹よりもいくつか年上の世界史の教師だった。

 昨年、他の高校から赴任して来て、今年三年の副担任を務めていたのだが、運悪く七月に担任が産休に入る事になり、半端な時期から受験生の担任になる事になってしまった。

 そのため、以前からこの学校にいる教師からも風当たりが強く、生徒にもいまいち受け入れられていなかった。

 その上数ヶ月前、校内でいじめの騒動があってからというもの、その対応や聞き取り調査に翻弄され、気苦労が嵩んだ。

 そしてその頃から、男性教師はよく樹の元へ、愚痴を含めて訪ねてくるようになった。年が比較的近く、勤務期間も比較的短い為、接しやすかったのかもしれない。


「それで……どうなさったんですか?」


 新たにコーヒーメーカーを稼働させながら、樹は訊く。


「えぇ、実は、私のクラスに、ここのところ、休んでいる生徒が、いまして」


 彼は、教壇に立つ者とは思えない程、たどたどしく喋る。


「ここのところ、というと?」


 樹は戸棚から新たに一つカップを取り出す。

 同時に、然り気無くグラスも一つ出す。軽く濯いで、水を注いだ。


「文化祭の、少し前から、ですかね、連絡しても、理由がはっきりしなくて……」


「登校拒否という事ですか?」


 コーヒーメーカーが黒い滴を吐き出し終える前に、薬棚を開く。


「ええ、そういうことに、なります」


 喋っている内に、男性教師はどんどんと小さく縮こまり、表情が抜け落ちた顔で沈みこんでしまう。

 最近愚痴をこぼしにくる事は多かったが、今日はいつにも増して疲弊し、気落ちしている様子だった。

 きっと話題にのぼっているその生徒の事で、校長やら、学年主任やらにこってり言われたのだろう。


「やはり、受験ノイローゼってヤツですか?」


「はぁ……そうは思えなくて、ですね」


 段々と声まで萎んで小さくなっていく男性教師の目の前に、樹は淹れたての珈琲と水、そして錠剤を二錠と細粒を一包置いた。

 彼は、ぽかんとした顔で目の前に立つ樹を見上げた。


「珈琲の前にこれを飲んで下さい。頭痛薬と胃薬です」


「あ、有難うございます。実は、最近、眠れなくて、頭痛も……」


 彼は、まるでご馳走でも振る舞われたかのように、嬉しそうに、薬にとびついた。

 薬が好きな訳ではなく、優しさに飢えているのは明らかだ。

 樹は医者でも薬剤師でもないが、今彼に必要なのは眠剤と精神安定剤だろう、と密かに思った。


「それで?」


「あぁ、はい。凄く優秀な生徒で、部活動も引退までよく頑張っていて、そんな素振りはなくて」


 生徒の話になると途端に教師はまた声を落としていった。

 自信がないというわけではなく、何も出来なかった自分を悔やんでいる様だ。

 いつも相手にするのが面倒だと思っていたが、なかなか熱心な先生じゃないかと、樹は考えを改めた。


「なのに突然登校して来なくなったと?」


「はい、それで校長がなんとか診断書を提出させるよう、親を説得しろと……」


「それで私のところに相談にいらしたんですね」


「はい……実際病気な訳でもないのに、そんなもの出して貰えるんですかね?」


「まぁ、病院にもよりますが、不可能ではないですね」


 樹は少しだけ考える。

 不可能ではないだろう、但し内科や外科では長期休みをフォロー出来るような診断書は期待出来ない。可能性があるとすれば、精神科か、診療内科……しかしそれはその子の将来に影響を与える可能性もある。

 親としても、受け入れ難いだろう。

 それに、そんな説得を目の前の疲弊した教師が出来るとは考えられない。


「解りました。私から、一度検査も含めて診療を勧めてみましょう」


 樹は自分からそう申し出た。


「え?本当ですか?」


 思わぬ申し出に、男性教師は顔をぱぁっと明るくさせた。


「はい、いきなり診断書を出せと言うのもあれですから……」


「そ、そうですね!」


 明らさまに声を弾ませる男性教師に、樹は溜め息を吐きたいのを噛み殺す。

 窓を開けたままのせいか、早々と冷め始めた珈琲に、男性教師は「いただきます」と言って、やっと口をつける。

 なんだか、大分高い口止め料になってしまったように感じた。


「それで、その生徒って?」


「はい!うちのクラスの島津茜です」


「……島津?」


 樹もよく知っている生徒だった。

 運動部のマネージャーで、よく応急手当ての方法や器具について相談しに来ていた。


「はい、知っていらっしゃいますか?」


「ええ」


「とても活発で明るい生徒で、成績も良くて、推薦も貰える話になっていたんですが……」


 彼の言う通り、思い浮かぶのは、明るい表情ばかりだ。

 面倒見がよく、いつも複数の人間に囲まれているような……


「確かに……にわかには信じられないですね」


 生徒の名前を聞いた途端、どうしてこんなにも男性教師が困惑しているのか、樹にも解った気がした。

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