解放
もういいんだよ?
Scene13
学校でいじめが浮き彫りになったその日を境に、ソータの傷はどんどんと癒えていった。
その回復力は目を見張るもので、まるで心が浮上していくのに比例するように、傷は
『これも、もういらなくなるかな……』
いつもの屋上で、私は呟いた。
簡易救急箱の消毒液がきれかけていたので、新しい物を追加した所だった。
屋上には、いつになく騒がしい音が響いてきている。
楽しそうに笑う声、声を張上げ人を呼ぶ声、流行りの音楽……。
いじめ、一人の教師の退職、そんな事は些事だとばかりに、文化祭が開催されている。
校内外の人間が入り交じり、学校中に人が溢れかえっている。
結局、教育委員会はこの学校にいじめはない、あったとしても今は終息していると判断したようだ。
進学校である我が校が余計な汚名を被らぬよう、早々に対処した結果だ。
しかし、当事者からすれば、それは少々的外れなものだった。
だが、学校側からすれば、社会的に対処する事が何より重視されたという事なのだろう。
要するに、揉み消し。
救急箱を仕舞い、久しぶりに屋上の鉄柵へと近付いた。
眼下の裏庭にも、今日は人の姿がある。
屋台で購入したであろう食べ物をつつき合う学生カップルや、ジュース片手に休息する近隣の中学生グループ。
彼等は、つい最近までその場所で血が吐かれていた事を知らない。
知らないから、笑っていられる。
ソータは、いじめの件で呼び出されたりする事は無かった。
事情を聞かれたり、傷を見られたりなんていう事も無かった。
あまりにも沙汰がないので、今回の事は本当にソータに関係の無い事なのかもしれないと思った程だ。
いじめ問題に振り回されたのは、寧ろ教師達のほうだ。
樹叔父さんも、保健室のコーヒーメーカーを隠さなくてはならなかったとぼやいていた。
それでも、確実にいじめの騒動は、ソータの生活に変化を与えた。
裏庭に呼び出される事もなくなって、距離を置かれていたクラスメイトにも受け入れられたようだった。
『もう、来なくなるのかな……』
再び独り呟いて、鉄柵から離れた。
昔は、屋上に一日いたって、独り言なんて言わなかった。
一日中誰とも話さなくたって平気なくらいだった。
(毒されたなぁ)
自嘲する。
昔以上に言われるがまま、流されているとは思う。
でも、相手がソータなら、嫌な気分はしない。
チラリと屋上の端に置かれたカバーの掛かった椅子を見る。
いつも二脚引っ張り出して、綺麗に掃除して使用しているが、最近席が埋まる事は少ない。
クラスに打ち解けたソータは、文化祭の準備もあって、屋上に顔を出さなくなった。
会っていないわけではない。
受験勉強に忙しいソータは、空いた時間をよく図書室で過ごしているので、以前同様勉強をみてあげたりはしている。
それに、毎日のようにメールがくる。
勉強の話や下らない話、ちょっとした挨拶まで、ことあるごとにメールをしてくる。
でも、以前のようなとりとめのない会話、無意味な言葉遊びは、もう存在しない。
暇な時間は充分にあったが、どうにも椅子を引っ張り出して来る気になれなかった。
階下に続く扉の脇の壁に軽く背を預ける。
昨年の文化祭時、この場所で夜空を見上げた事を思い出す。
年がら年中屋上で過ごしている私だが、この場所で星を見たのはあの日が初めてだった。
『メール、しておこうかな……』
毒されついでとばかりに、制服のポケットから携帯を取り出す。
以前は鞄に入れたままにしていた携帯も、震える回数が増えたので、携帯するようになった。
文化祭が行われる数日前の事。
私は珍しく担任教師に呼び出された。
いじめ云々がまだ終息したばかりだったから、名を呼ばれた時には、思わずビクついてしまった。
でも、もたらされた話は、悪い話ではなかった。
私が志望校の指定校推薦に選ばれたという事だった。
出欠席は別として、首位の成績を三年間キープした事が決め手だったようだ。
私はまだその事をソータに伝えていなかった。
楽しそうに、文化祭で「うどん屋をやることになった」「文化祭の実行委員になった」と話す彼に、言い出しにくかった。
「先日、指定校推薦がもらえました。」味気の無い、何故か敬語な短文を送る。
使用頻度が少ないから、たったそれだけの文を打つだけでも、やたらと時間がかかる。
一文打つ間に、離れた所から届いてくる音楽が男性の歌声から女性に変わってしまった。
彼は、このメールを見たら、どういう反応を示すだろうか。
「早く言え」と怒るだろうか。
「へぇ」と受け流すだろうか。
「良かった」と喜ぶだろうか。
返信は、まるですぐ近くにいるかのように、間髪入れずに届いた。
「いまどこ?」たったそれだけの、送ったものより簡素な返事。
感情が判らない。
噛み合っていないやり取りに、少し悩んだものの、「屋上」と返した。
交わす文字数が減っていく。
しかし、今度は直ぐに返事が返って来なかった。
代わりに、やたらに響く、慌ただしい足音が近付いてくる。階段を駆け上がってくる。
ギィ、バンッ!
勢いよく扉が開いた。
「……あれ?」
届いたのは、文字ではなく声。
機械を通していない生身の声。
扉の脇に立っていた私は、開かれた扉の影に、丁度身を忍ばせたような状況になってしまっていた。
「シイナぁ?」
間の抜けた声。
いつもの定位置にいるものだろうと決め付けていたのだろう。
屋上へと踏み出したソータは、扉がバタンと音をたてて閉じても、すぐ後ろに立っている私に気付かない。
首を左右へ巡らし、シートの掛かった椅子、錆びた鉄柵を確認する。
目の前にはソータの背中。
ブレザーをどっかに置いてきたのか、ワイシャツの上に紺色のカーデを羽織った背中。
(驚かしたりしたほうがいいのだろうか?)
迷っている内に、風にたなびくように、彼の背が翻った。
驚いたような大きな眼が、半ば睨み付けているような眼差しとかち合う。
目一杯見開かれていた瞳はすぐに細められ、笑みを刻んだ。
(……やっぱり笑うんだ)
もう一度呼び掛けようとしていたのか、半開きになっていた唇が、白い歯を覗かせる。
開口一番に何を言うのか、予想を頭の中で確認しつつ、待っていると……
言葉が飛び出す前に、手を掴まれていた。
突然重力が強くなったかのように、身体が前へと引かれる。
三秒後には、開いた扉を潜り抜けていた。
『ちょっ……!?何っ!?』
昨年、夜闇の中、並んで階段を下った。
だが、その時より何倍も速く駆け下りていく。
転げ落ちずに付いていくのが精一杯だった。
「行くよ!」
明るい色の髪を揺らし、前を向いたまま、ソータが言う。
やっと話したその言葉は、私の予想のどれにも該当しなかった。
『どこにっ!?』
下手をすれば、舌を噛んでしまいそうで、短文でしか問い掛けられない。
階段を踏み外してしまいそうで、足下から目線が離せない。
「文化祭に決まってるっしょ!」
『なんでっ!?』
足は止めぬまま、やっとソータは僅かにこちらを向いた。
訳が分からないと混乱を
「お祝いするから」
それだけ言い捨てると、ソータはまた前を向いて、走る事に集中してしまう。
私は繋がった掌だけを頼りに、なんとかそれに付いていく。
一気に旧校舎の階段を四階分駆け降りる。
中庭を横切る渡り廊下へと向かう。
このまま本校舎の中へ入れば、直ぐに人が溢れかえる。
呼び子をする生徒、祭りを楽しむ客……。
大衆の中に上手く埋没したとしても、通りすがる何人かは、私達を目にするだろう。
賑わう人の中で、手を繋いで過ごす私達を……。
でも、きっとこのままなんだろうな……。
ソータは、人目なんて気にしないのだろう。
ホント、敵わないなぁ。
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