夢路






       現在(ここ)から


       未来(さき)が


       夢への路






 どこからが夢?


 いつからが夢?


 どちらが夢?


 何が夢?



 私達の夢は


 きっとここから・・・・・・






Scene12


 季節の移り変わりは、もの凄く早いものだと思っていた。

 ぼーっと突っ立っている間に、春も夏も秋も冬も、足早に過ぎ去っていく。

 人も木々もとっとと衣替えを済まして、後はなんでもない風を装って、日々を乗り越えていくだけだと思っていた。

 でも、実際はそうではないらしい。

 夏休みが終わったからと言って、直ぐに風の色が変わるわけではないらしい。

 今更、十八年目にして、その事実を知った。


『遅くなった』


 その日、屋上に行くと、ソータは暇潰しとばかりに、変な体勢で参考書と格闘していた。


(勉強するなら、机になるものを用意すればいいのに)


 デッキチェアの上で右足だけ靴を脱ぎ、立て膝で足の間にある参考書を睨む姿は、滑稽で、見ているだけで肩が凝りそうだ。


「んー、おはよ」


 お昼前、まだ二限目が始まったばかりの時刻だから、その挨拶はあながちち間違いではない。

 だが、私の言った言葉の返答としては、いまいちズレている気がする。

 きっと、集中しているのだろう。

 指先で無意味に何度もペンを回すのは、集中している時のソータの癖だ。

 私は邪魔にならないよう自分の席へと着いた。

 チラリと見えた参考書には英字が並んでいた。


(英語の問題を考えこんでも、答えは出ないだろうに)


 英語は今のソータの課題だ。

 元々弱いという事もあるが、受験を視野にいれると英語の強化が必須だった。

 だが、英語のライティングの問題は殆ど暗記物に近い。

 解らない時は、考えたって出てくるものではない。

 辞書等でとっとと調べて再インストールするほうが効率的だ。

 でも、私は変に声をかけたりしなかった。

 出来れば、ソータがそのまま顔を上げなければいいと思った。

 私達は、余程の場合以外待ち合わせをせず、自然と屋上に集まるのが殆どだった。

 私は今まで通り、一日の半分くらいはこの屋上で過ごしている。

 ソータは、勉強の関係上、以前より授業に参加するようになったが、数時間づつ飛び飛びで、毎日何時間かは顔を出している。

 多分体育とか実技教科の時間をここで過ごす事にしているのだと思う。

 だから、約束等無用で、毎日当たり前のように顔を合わせている。

 でも、今日に限っては、この時間に屋上に来るようにと、昨夜メールが来たのだ。


(その割にこの調子だしな)


 いつ終わるとも判らないので、何かし始めるわけにもいかず、私はぼーっと遠くを見ていた。

 秋にはまだ手が届かない温い風が、青々と茂る緑を揺らしている。

 空には、白くもっさりとした入道雲が浮かんでいる。


「ほっぺ、どうしたの?」


 季節を眺めていた私へと、ソータが訊く。

 心ここにあらずでぼんやりとしていた私は、それが彼の独り言だと一度聞き流した。

 だが、数秒して、それが自分への質問なのだと気付くと、思わず両手で左頬を覆う。

 ソータを見ても、彼はまだ参考書に目を向けたままだった。

 私の左頬は、よく見ないと判らない程度だが、赤く腫れていた。

 髪をおろしているから、俯いていれば誰も気づかないだろう。

 だが、やはり外を歩いていると、人の目が頬へと向いている気がしてしまう。

 ソータに呼び出されていなければ、今日は休むか、登校しても保健室に引き込もっていただろう。


『殴られた』


 十分な間を空けて、私は簡潔に、正直に答えた。

 別にそのまま聞き流してしまっても良かった。答えなくても良かったし、嘘を吐いても良かった。

 でも、私はそうしなかった。

 ソータがわざわざ質問してきた事には、理由があると思ったからだった。

 風がふわりと吹いて、また数秒沈黙が拡がった。


「……俺のせい?」


 やっとソータが顔を上げた。

 悩んでいた問題はきちんと解決出来たのか、パタリと参考書が閉じられる。


(そういう事か……)


 重ねられた問いで、わざわざソータが下らない事をえぐった理由を悟った。

 自分と一緒にいる事が増えたから、私がそのとばっちりを受けたのではないかと危惧したのだ。


『自意識過剰』


「違うの?」


 ペンを握ったままのソータの右手。

 強く握り締められたシャーペンは、小刻みに震えているように見えた。

 まだ暑いのに長袖のワイシャツ。

 今は無防備に腕捲りされている。

 結果、あらわになっている醜い痣や傷。

 ぼんやりとした虚ろな眼。

 唇は噛み締められ、真一文字。


(らしくない)


 私は溜め息を吐いた。


『身内にね、昔っから気にいらない事があると殴る人がいるの』


「…………」


(ほらっ、やっぱりドン引きするじゃんか)


『お母さんも散々やられてたみたい、ソータみたいに服の下は痣だらけだった』


「…………」


 でも、容赦せず私は話し続ける。

 だって、訊いたのはソータだし。

 自分のせいだなんて勘違いして、ヘラヘラ顔を曇らせてるんだから。


『でも、お母さんが死んでからは、私に白刃の矢がたった』


「…………」


 中学に通っている間、理由が解らないまま、私はよく殴られ続けた。

 父親が出張で家を空けている際は、軟禁される事も、食事を貰えない事もよくあった。

 父親は、勿論私が殴られている事に気付いていた。

 なんせ、したたかに杖で打たれ、病院に運ばれた事だってあったのだから。

 でも、父親は何も言わなかった。仲裁しようとしなかった。

 母親の時も、私の時も。

 殴られるのは、私が可愛くないからだとずっと思っていた。

 昔から冷めていたから、甘える事も、笑う事もろくにしなかったから。

 でも、中学三年の時。

 骨折するまで杖で打たれたあの時。

 私の母親の名を憎々し気に繰り返しながら殴られたその時、やっと解った。

 私がお母さんの子供であることがあの人は気にいらないんだって。

 私が幾らかえりみたって、生まれた時点で憎まれているんだって。

 視線を合わせないまま、話し続けていた私の、腫れた頬に何かが触れた。

 遠いところを見る私の視界に割り込むように、すぐ脇にソータが立っていた。

 手当てという言葉がある。

 痛む所に、掌を当て、さすって緩和させるという行為から出来た言葉だと聞いた事がある。

 ソータがしたのは正にそういう事だった。

 外気のせいか、やけに熱い掌が、熱をもって腫れている頬に触れていた。


「痛い?」


『二日前の怪我だもん、もう痛くない』


「そっか……良かった」


 やっと、ソータが笑った。

 当てられた手は、頬にくっついたままだった。

 何かが胸の奥にぐっと込み上げてきた。


『初めて言い返した』


「うん」


『貴女のしている事は虐待ですよって』


「うん」


 骨を折って始めて、私がされている事がしつけではなく虐待なのだと識った。

 身体的虐待、精神的虐待、ネグレクト、綺麗に揃っていた。

 でも、私は身内を訴える方法なんて知らなかった。

 だから、逃げた。

 実家を出て、離れた高校へ入学した。


『曲げられなかったから』


「うん」


『だって、やっと自分の道を見付けたから』


 上手く言葉に出来ない。

 唇が戦慄わななく。

 私はやっとやりたいことを、進路を見出だした。

 ソータにも、樹叔父さんにも、父親にも、それを伝えた。

 認めてくれなかったのはあの人だけだった。

 でも、例え誰に何て言われようと折れるつもりなんて毛頭ない。


(ソータのお陰だよ)


 そう思っているのに、その一言が、相も変わらず可愛くない、自己否定で他者否定の私には言えなかった。

 声が勝手に震えているのに、ソータが笑っているから、私は泣かなかった。


「俺もさ、見付けたんだ行きたい学校」


『……うん』


「有名なトレーナーを沢山養成している所で、姉妹校への留学も推奨してる所」


『うん』


「今の学力じゃキツイけど、絶対受かってみせる」


『うん』


「それをシイナに一番に伝えたかったんだ」


『うん』


「だって、シイナのお陰だから」

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