日常想起11
椎梛と颯大の初めての外出の約束は、夏休みに入ってから決行される事となった。
7月の後半、よく晴れたその日、二人は午前中に待ち合わせをした。
約束の機が遅くなったのには、いくつか理由があった。
一つは天候、梅雨明けを待った故。
二つ目は進路の問題。高三の夏という事もあって、進路調査や個人面談等がたてこみ、平日は慌ただしかった。
三つ目は、颯大の怪我だった。
颯大に対する暴行は、一時は落ち着いたかのように見えた。
ただそれは、颯大が試験勉強の為に教室と図書室を行き来する日々を続けていた事と、周囲も試験勉強に忙しなく動いていただけの話だった。
一度は癒えかけた傷は、試験後にまとめて彼を襲う事となった。
颯大が成績を大幅に上げた事も、苛立たせる要因となった。
休み時間や彼が一人になった隙を狙って、代わる代わる男子生徒が訪れ、彼を裏庭に連れていっては、数倍の力で殴り、蹴った。
だが、颯大は決して屈しなかった。
下手をすれば病院に行かなくてはならない程の外傷にも彼は耐えた。
颯大は歯向かう事も、逃げる事もしなかった。
だが、ただ耐え忍ぶだけでもなかった。
彼には、やるべき事が出来た。進む路が出来た。
結果、以前にも増して、揺るがない眼差しで、痛みを受け止めるようになった。
『少し早く着いちゃうかな……』
約束よりも一時間以上前に家を出た椎梛は、まるで自分が遠足前の子供のようにはしゃいでいるような気がして、誤魔化すように呟いた。
『遅れるより、いいよね』
早く家を出たのは、待ち合わせなんて久し振りだからだ、と言い聞かせる。
サーモンピンクのふわりとしたシフォン生地のチュニック、七分丈のデニムパンツ。
この服装は自分らしくない気がして、先程から椎梛は落ち着かない。
ショーウィンドウや鏡、自分な姿が映る場所を通る度、つい立ち止まって何度も確認している。
実を言えば、この服に袖を通すのは初めてだった。
なんせ、先日購入したばかりだ。
日頃の椎梛は、控えめな格好をしている事が多い。
そもそも、こんな明るい色調自体着るのは初だ。
椎梛の今日の服装は、詩織に勧められたものだった。
試験の一件から割と懇意にするようになった詩織。
颯大が二人で出掛ける事を漏らした結果、詩織は老婆心からか、椎梛に可愛らしい服装を勧めた。
結局、押しに弱い椎梛は、雑誌に載っていた詩織お勧めのコーディネートに似たものを一通り購入する事となった。
だからと言って、それを素直にきく必要はないのだが、他の選択肢を自分で考えはせず、流されるのも椎梛らしかった。
待ち合わせの駅まで、あと少しというところまで来たその時、信号が赤の間に携帯が振動した。
椎梛の携帯を鳴らす人間は少ない。
椎梛はてっきり今から会う颯大が、待ち合わせに遅れるとかなんとか連絡をしてきたものだと思い、相手を確認する事すらせず、電話に出た。
『もしもし?』
赤だった信号が青へと変わり、周りの人間が一斉に動き出す。
一緒に歩き出すべきか迷って、椎梛は止めた。
電話に馴れていない自分が人混みで堂々と通話を続けられる自信がなかったからだった。
そのまま信号を離れ、建物の脇へと移動する。
しかし、数秒後に聞こえてきた、毛だるけな低い声に、選択を誤った事に気付く。
『樹叔父さん』
溜め息を滲ませ、「もしもし、椎梛か?」と判りきった事を訊いてくるその人の名を呼ぶ。
『今外なんだけど、何?』
明らかに、自分の声が不機嫌になっている事に気付くも、ころりと変えられない。
だが、相手は気にしていないようで、「こんな時間から珍しいな」とか飄々と言ってのける。
『…………』
椎梛は黙って樹の言葉を待った。
樹は「今日はいい天気だしな」とか「あんまり遅くなるなよ」とか、関係の無い無駄口ばかりを連ね、本題を切り出そうとしない。
こういう時に、下手に急かしても、相手は頑なになるだけだ。
それに、時期や雰囲気等、色んな事を加味して、樹が云いたい事を椎梛は察し始めていた。
視線の先で、信号が二度目の青に変わる。
またしても、駅に向かう人の群れがうじゃうじゃと動いていく。
学生は夏休みでも、社会人はまだ休みではない。
汗を拭いながら行くスーツ姿も多い。
『樹叔父さん……実家だったら、来週帰るよ』
痺れを切らして、椎梛はそう言った。
雑談に限界がきていた樹が、思わず、ぐっと詰まるのが通話口越しに伝わってくる。
大方、ハナさん辺りに「お嬢様は如何お過ごしでしょうか?」とか連絡が来たのだろう。
椎梛の所にも、来週椎梛の父がイタリアから帰国するという連絡が来た。
だから、このタイミングで樹が連絡してきたんじゃないかと椎梛は推察していた。
『まぁ、泊まるつもりはないけどね』
去年も夏休み前に同じような事を樹に言われたのを椎梛は覚えていた。
その時は一切従わなかったが、今年は椎梛自身、父親に話す事があった。
『今年は一応受験生だし、志望校も決まったから、報告に行こうと思って』
一気に黙ってしまった樹を更に押し留めるように椎梛はさらりと言った。
椎梛は樹の事が嫌いなわけではない。
寧ろ身の回りの人間で一番慕っているし、感謝もしている。
だからこそ、樹には機を見て、きちんと自分の進路を伝えたいと思っていた。
このタイミングで、自分の考えを電話越しにたらたらと伝える気は無かった。
でも、幾ら椎梛が実家に帰ると言ったところで、樹はまた口先で言っていると思ってしまうだろう事も想像がついた。
だから、椎梛は敢えてサラリと帰る意思があることを伝えたのだ。
なんせ、今は一応今後の予定がある。
だらだらと電話で話していたくはない。
『詳しくは今度ちゃんと話す』
案の定、「志望校」という言葉を聞き咎めた樹を一蹴し、椎梛は通話を終えた。
四回目の青信号が点滅を繰り返し、赤になろうとしていた。
溜め息を吐いて、時間を確認する。
まだ余裕がある事には違いないが、確実に時計の針は待ち合わせ時刻に近付いている。
再び青になるのを僅かな苛立ちを抱えて待っていると、再度携帯が振動する。
樹がまた一言二言云い足りずにかけてきたのかもしれない。
こんなことなら、億劫せずに、直ぐに鞄の奥へ仕舞いこんでしまえば良かったと椎梛は思った。
だが、まだ手に携えている以上、そのまま無視する訳にもいかず、発信ボタンを押しかけ――――
今度こそ発信者が待ち合わせの相手、颯大である事に気付いた。
しかも、電話ではなくメールだ。
メールの内容を確認する。
丁度信号が青に変わった。
途端、椎梛は走り出した。
颯大からのメールには「電車が来る時間が待ち合わせた時間だった」なんていう事が書いてあった。
駅の前で合流するのが電車の到着時間では、絶対乗れる訳がない。
ましてや、日頃電車に乗らない椎梛は、ICカードを持ってこそいるが、チャージしなくてはならない。
待ち惚け覚悟だった時間は、途端にギリギリになってしまった。
やっと横断歩道を渡り、人の波に四苦八苦しながら、大通りへと躍り出る。
しかし、スピードがのり始めたところで、慌て椎梛は立ち止まった。
後ろを歩いていた他人が、いきなり止まった椎梛にぶつかりそうになり、怪訝気に顔をしかめて通り過ぎていく。
人を掻き分け走っている内に、自分が歩道の真ん中に居た事に気付き、椎梛は慌て脇へ寄る。
椎梛が止まった理由は、前方にあった。
少し先、見覚えのある顔が並んで此方へと歩いてくる。
島津茜と岡崎明斗。
まだ午前中だというのに、笑い合いながら、テンション高めに、此方に向かって歩いてくる。
茜は、空色のキャミソールに、青いチェックのシャツを羽織り、白のティアードミニスカートというスタイル。
対して明斗は、オレンジの半袖パーカーに濃い色のデニムに黄色のキャップ姿。
二人は手を堅く繋ぎ、お互い見つめあうようにして言葉を交わしながら、仲睦まじ気に歩いている。
それは、凄く絵になる光景だった。
椎梛は自分のおろしたての服をまた見下ろす。
まったく陽にあたってない生っ白い脚は、細いが筋肉が一切ついていないみたいに見える。
茜のしなやかな脚線美とは雲泥の差だ。
椎梛は、更に路の端に寄り、人に紛れるようにして俯く。
唯でさえ、電話で時間をロスして急いでいるのだ。
二人に気付かれたくはない。
だが、知らぬふりして通り過ぎるにしたって、日頃運動が出来ないと公言している身、走っているところを目撃されるのも避けたい。
ましてや、浮かれた格好をして走っていたなんて……。
ショーウィンドウを見るようにして、然り気無く背を向けた椎梛のすぐ後ろを、茜と明斗が通り過ぎていく。
二人は「誰々がどうだ」とか「誰々になんとか」とか、聞いても得にならなそうな話を周囲に聞かれる事を心配する素振りもなく、話し込んでいる。
話が尽きそうな雰囲気はない。
茜と明斗が付き合っているという話を、椎梛は最近風の噂で聞いた気がする。
確かに、以前から仲が良かったのは知っているし、同じ部活の様であったし、先日見かけた際も密着度が高かった。
そんな二人が友達以上の関係に発展したというなら、すんなり納得出来る。
茜は活発で、気立てが良く、一目置かれている美少女だ。
明斗も、際立って美形というわけではないが、明るく、人気者気質で、運動部らしい逞しさや爽やかさがある。
間違いなく、お似合いと言っていい。
あれ?と椎梛の脳裏に違和感が過った。
珍しくも記憶に残っていた、茜の挙動、表情、視線、言葉がフラッシュバックする。
それは断片的なもので、いつという限定されたものではなくて、今までに見かけた幾度かの出来事。
最後に、茜が赤く泣き張らした顔が思い浮かび――――あっという間に消えた。
過った違和感は、跡形もなく椎梛の頭から離れ、一瞬でどうでもいい事になる。
こっそり振り返れば、茜と明斗は椎梛に気付く事は無く、二人だけの世界にいるみたいに、幸せな空気を振り撒いてそのまま歩いていた。
人の波間から現れたり隠れたりしながら、二人の背中は離れていく。
時計を確認する。
当初の待ち合わせ時間の十五分前。
駅はもう目前。走れば三分程度の距離。
彼はもう来ているのだろうか?と考えながら、椎梛は再び走り出した。
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