日常想起10

 椎梛が学校指定のジャージに袖を通すのは、年に一度あるかないかの話だ。

 だから新品同様で、最終学年の使いふるしたものには到底見えない。

 青白い肌、漆黒の野暮ったい髪、痩せぎすの椎梛には、スポーティーな格好は一切似合わない。

 椎梛は、周囲の視線が自分に向いていないことを確認し、尻に付いた砂埃を軽く払って立ち上がった。

 前髪の奥の額はうっすら汗ばんでいる。

 新緑の繁茂する五月、まだ春の範疇に入るこの時期に行われる体育祭は、去年同様雲一つない晴天に恵まれていた。

 なんとなく辺りに目を配り、校庭内には侵入しないように歩き出す。

 去年、半ばそそのかされるようにして出席した体育祭では随分酷い目にあった。今日の様に非常に陽射しが強く、見学しているだけでも汗が滲み、ふぅふぅ言わされた。その上、そんな姿を色々な人に目撃されたのも椎梛にとっては嫌な思い出でしかない。

 指定の席を離れた椎梛は、荷物を回収し、日陰へと逃げていく。

 少し離れた所には、救護テントがある。

 そこでは、昨年同様に樹が暑苦しい長袖の白衣を着込み、パイプ椅子に背を預け、腕を組んで座っていた。樹の視線は、まだ始まったばかりの競技に、さして興味もない風に向けられている。

 校庭を離れ、校舎脇にある水道へと近付く。

 蛇口を捻れば、太陽熱で水道管が温められていたようで、少し温い水が出てくる。

 校舎内へ入る前に、着替える事は出来なくとも、せめて手くらいは洗いたいと思っての行動だった。


「……あっ、朝比奈さん?」


 おずおずとした調子で、声が投げ掛けられた。

 心の奥で、「どうしてこうもこの人はタイミング悪く現れるのだろう」と椎梛は思った。

 そんな気持ちを表には微塵も出さず、椎梛は振り返る。


『島津さん……?』


 ペットボトルの飲み物を数本抱えている茜が、案の定立っていた。

 以前は、何かと椎梛を気にかけ、声を掛けてきていた茜。だが、今年の春、椎梛と茜は違うクラスになり、ここのところ顔を合わせてはいなかった。


「……えと、何してるの?」


 どこか気まずそうに、茜は椎梛へ声をかける。

 既視感。

 荷物を腕に抱え込む茜。

 彼女らしくない物言い。


『手を洗おうと思って』


 茜の顔を窺うように見据え、椎梛は淀みなく答えた。


「……そ、そうなんだ」


『島津さんは、今年も体育委員?』


「……う、え?ううん、違うよ。今年は、アルバム制作委員」


『そうなんだ。体育祭始まったばかりなのに、こんなところにいるから、てっきり体育委員なのかなって思っちゃった』


「あ、これ?これは明斗に頼まれたの」


『え?アキトって?』


「岡崎、岡崎明斗だよ」


『あぁ、岡崎くんの事か。そっか、確かに島津さん仲良かったもんね』


「うん、まぁ……」


 今年のクラス替えで、椎梛はまた明斗と同じクラスになった。他のクラスメイトは殆ど違うクラスにバラけたのだが、明斗とは同じクラスだった。


『あ、じゃあ岡崎くん待ってるんだよね?引き留めちゃってごめんね』


「え?ううん、いいの。それよりっ、朝比奈さんは―――」


「おいっ!茜~っ」


 噂をすれば影とばかりに、茜の二の句を遮り、明斗が校庭の方から駆けてきた。

 開きかけていた茜の口は、唇を噛むようにつぐまれた。


「あれ?朝比奈さん?どうしたの?」


『ちょっと具合悪くなっちゃって、橋坂先生が保健室で休んだほうがいいって……』


「そっかそっか。今日暑いもんね~」


 茜の隣にピタリと並んだ明斗は、茜の荷物を代わりに持つでもなく、黙りこんだ彼女の肩へと手を回した。


『ごめんなさい、勝手に席離れちゃって』


「いいよいいよ。あっ、クラスの奴らには言っとくからさ、体調落ち着いたら戻って来なよ!」


「…………」


 「気にしないで」と笑う明斗に、茜はすっかり口を閉ざしたままだった。

 それでも、ぴったりと密着する明斗の体を引き剥がしたり、手を振り払ったりはしない。されるがままになっている。

 でも、頬を赤らめ恥ずかしそうにする素振りもなかった。


『ありがとう、岡崎くん。お願いするね』


 椎梛は、ぺこりと頭を下げ、荷物を持ち直すと、二人に背を向けた。

 違和感も既視感も、気にならないわけではなかった。でも、対して興味があるわけでもなかった。

 振り返る事も無く、椎梛は校舎内へと入った。そのまま、保健室には立ち寄らず、当初からの目的地へと向かう。

 校舎内は、外のお祭り騒ぎに相反するように静まり返っている。

 廊下を進めば、予想通りというか、予定通りというか、他の教室と違って一つだけ電灯が点けられている部屋があった。

 出来るだけそっと、音をあまりたてぬよう、扉を開ける。


「……あら?」


 それまで他の物音が全く無かったせいか、室内に唯一存在していた人物は、椎梛のたてた些細な物音に反応し、過敏に顔を上げた。


「朝比奈さん?」


『こんにちは、南さん』


「どうしたの?」


 カウンターの前まで椎梛が来ると、手を止めて詩織は話す姿勢をとる。

 もしかすると、ずっと一人でいて、退屈していたのかもしれない。


『体育祭見学していたんですが、陽射しが強いので、此方で休ませて貰えないかと思って……』


 極力丁寧に、断られる事が無いよう、椎梛は頭を下げる。

 図書室の司書をしている詩織は、一人で書簡整理にあたっていた。

 詩織は、突然現れ、頭を下げた椎梛に思わず面食らった。

 本に焼けが出ぬよう引かれているブラインドの隙間から外を窺う。確かに、外は晴天で、暑さまでは届かない図書室内も、ぼんやりと温もりに満ちている。


「……そう、そういう事なら構わないわ」


 少しだけ考えた後、詩織はそう答えた。

 本来開放されていない図書室に生徒を入れるのは芳しい事ではない。だが、相手はよく見知った、しかも想い人の姪っ子。

 彼女が体が弱く体育等には出席していないらしい事は詩織ですら知っている周知の事、咎められても言い訳の仕様はある。

 ならば断る理由も無かった。それに何より、時間をどう潰したものか迷っていた程だ。椎梛がいれば話し相手になってくれるかもしれない。


『有難うございます』


「あ、でもこれは秘密ね。一応今日は図書室はお休みって事になってるから」


 礼を述べ、そそくさと奥へ行こうとする椎梛に、詩織はそう付け加える。


『解りました』


 椎梛には、詩織の思考の動きが手にとるように解ってしまっていた。

 シャーベットグリーンのワンピース、丁寧にセットされたウェーブのかかる髪、服の色に合わせたシャドー、ローズピンクのチーク、マスカラの乗った長い睫毛、桜色のリップにしっかりと重ねられたグロス。仕事着として着ている白いカーディガンを羽織ってはいるが、明らかにいつもより気合いの入った格好をしていた。

 その理由を椎梛は知っている。

 詩織は今日、樹と食事に行く約束をしているのだ。

 その食事の約束は樹からホワイトデーのお返しとして持ちかけられたものだ。

 なんだかんだと機を逸し、この時期まで先伸ばしになっていたお返しは、体育祭の後は比較的早く帰る事が出来るから、と数日前に樹からもたらされた。

 だが、誘いをかけてから、樹は詩織がその日出勤しない事に思い到り、またもや約束は先伸ばしになりかけた。だから詩織は、その日書簡整理で図書室に来なくてはいけないと予定をでっち上げた。結果、詩織はたった一人で、体育祭が終わり、樹が帰るまでのその時間、無償で書簡整理にあたらなくてはならなくなってしまったのだった。

 樹から、体育祭の後に詩織と食事に行くという話を聞いたその時、椎梛は直ぐに詩織がありもしない予定を無理してつくったことが解った。


『じゃあ、私は奥の方にいますね』


 椎梛はそそくさと詩織から離れる。

 樹が鈍感過ぎるのも問題の一つではあるが、無理して無駄に時間を浪費する詩織は正直見ていて痛々しかった。

 それに、その内情を知っている上で、利用するように椎梛はこの部屋を訪れたのだから、後ろめたいような気持ちもあった。

 本棚の列をいくつか抜けた先、奥の六人掛けの席を椎梛は陣取る。いつもは、一人や二人、間を空けて相席されているこの席に収まるのは初めてだった。

 やっと心地好い温度の場所で腰を落ち着けたところで、椎梛は鞄を開けた。

 中にあるものをあらため、ノートと教科書、ペンケースを机の上に出すと、一瞬迷った後最後に本を取り出した。

 あくまでも勉強しなくてはならないのは椎梛ではない。

 背凭れに軽く体重を預け、読みかけの本を開く。

 直ぐに脳は本の中、椎梛が存在しない世界へと吸い込まれる。

 読書に集中している椎梛の周りには、まるで透明な分厚い壁があるかのようだった。椎梛は完全に世界から隔絶されて、読み耽る。

 そのため、図書室の扉が控えめに開かれた音にも、椎梛は気付く事はない。そして、突如始まった押し問答にも――――。


「―――もらえませんか?」


「んー、それはちょっと……」


「頼みます!南さん!」


 景気良く両掌を合わせたパンという音が静かな室内に反響する。

 その音でやっと椎梛は現実に呼び戻された。


「うーん、本当はここに居るのも、まずいのよ?」


 囲っていた壁が跡形もなく一瞬にして崩れると、椎梛は再び引き込まれてしまわぬよう、パタリと本を閉じた。

 本棚の脇から首を伸ばすようにして、カウンター側を窺う。

 すると、丁度こちらを見ていた詩織と目が合った。

 詩織は、音と声とを聞き付けた椎梛が顔を覗かせたのに気付くと、慌て視線を逸らし、困ったように眉をひそめ、目の前の人物へと意識を向ける。


「えっと、体育祭はいいの?」


「大丈夫っス、俺、怪我人なんで」


 詩織が断ろうとしても、少年はするりと避けて、人なつっこい笑みを浮かべる。

 詩織は、図書室をよく利用する生徒の顔と名前は憶えているつもりだ。しかし、この少年の顔には見覚えが無かった。ということは、彼はあまり図書室を利用する人間ではないのだろう。

 そんな名前すら判らない彼が、今日に限って、突然訪れ、滞在許可を欲しいと頼まれても、良しとしていいものか判らない。

 ましてや―――


「お願い!今日だけ飲食オッケーって事にしてよ!絶対誰にも言わないからさっ!」


 なんて、言って来ているのだ。

 迷いから目を游がせると、詩織の視線は勝手に椎梛の方へと流れていった。

 椎梛はやはり身を乗り出すようにして、「何事だ?」と言わんばかりに、こちらを見ていた。

 再度ガチリと視線が合う。

 詩織は、マズイと思った。

 彼が椎那に気付いたら、面目がたたない。


「あ、先来てたのか……」


 しかし、詩織が取り繕おうとしたその時、少年は椎梛の存在をしっかりと捉え、そればかりか親しげに手を振っていた。

 到底二人が知り合いのようには見えない。

 性格が真逆の友人というのは無い話ではないが、椎梛が誰か他の人間と一緒にいるところだって今まで見た事がないのだ。彼のような人間と仲が良いなんて、叔父である樹だって想像出来ないだろう。

 実際、手を振られた椎梛も振り返したりせず、呆れたように嘆息している。でも、そんな仕草は逆に親しいからこその飾り気の無い素の反応にも感じられた。


「はい、南さん!差し入れ!」


 詩織がすっかり呆気にとられていると、少年は詩織に何かを手渡して、さっさと椎梛の元へと行こうとする。


「え?あ……ちょっと!」


 掌に乗せられた冷たい感触に、詩織は我に返った。

 しかし、少年は本棚をすり抜けていく。

 詩織は断ろうとしていた筈なのにいつの間にか許可した事になってしまっている。

 詩織の手には、少年から渡されたお茶とサンドイッチが乗っていた。

 完全に彼のペースだ。

 もう今更、「やはり出て行ってくれ」と言う事は、詩織には出来ない。

 結局詩織は諦めたように溜め息を吐くしかなかった。

 すると、背を向けみるみる内に離れていった少年が、椎梛の元に着く直前にひょこりと此方を向いた。

 まだ何か言われるのかと詩織は身構える。


「あとで一緒に食べようね」


 少年は勝手に詩織に押し付けたお茶とサンドイッチを指差し、ニカリと笑った。

 それはどうやら、遠回しなランチのお誘いのようだった。

 歯を見せ笑む彼はどうにも憎めなかった。怒る気も、驚きですら、もうどうでも良くなってしまった。


「しょうがないわね」


 詩織は、すっかり毒気を抜かれ、彼に聞こえるようにそう呟く。

 そして、これ以上他の人間が入って来られぬよう、鍵をかけに立ち上がった。

 入り口から微かに見える奥の席では、二人が並んでノートと教科書を開いたところだった。

 「今夜話す話題が一つ増えたかな」と、詩織は密かに思ったのだった。

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