切願
お願い事
伝えて初めて
また一歩
前へと進む
Scene10
桜が戸惑いつつも咲いた頃、新学期が始まった。
私は、大した波風も、感慨もなく、最終学年へと進学した。
春休み明けの数日は生憎の雨模様で、私は春休み後の屋上の様子を直ぐに見には行けなかった。
春雨は南風を連れてきて、桜の花弁を舞い上げた。
やっとの事で麗かと言える日和がやって来たのは、通常授業が再開された頃だった。
『直ぐに散っちゃいそうだね』
葉を付け始めた中庭の欅の木の間を、桜の花弁が風に乗って舞っている。
黄緑色の中をすり抜ける桃色は、些細な筈なのに、やけに目についた。
「……うん」
視線を景色の移り変わりへと向けたまま、私の手は忙しなく動いている。
『桜ってさ、咲く時期考えたほうがいいよね……』
春休みが終わってまだ数日だと言うのに、ソータは傷だらけだった。
「……うん」
先日樹叔父さんから貰った簡易救急箱を活用し、あちこちに出来た擦り傷だのを消毒していく。
絆創膏は貼ってもキリが無いだろうから貼らない。
『だってさ、この時期梅雨以上に高確率で雨降るじゃない?』
「……うん」
腕や脚、簡単に見える範囲の手当を終え、顎をしゃくるように体勢を変えるよう指示する。
促されるまま、ソータは無防備に背中を向けた。
『直ぐ散るのが解ってるのに、咲く事ないと思う』
「……うん」
安定して、一定したぼんやりとした返事。
私のほうが数段口数が多いなんて、今までにない事だった。
ワイシャツ一枚しか身につけていない背中。
指先でシャツを摘むようにしてめくり上げる。
異性の、しかも同年代の男の子の生身を見るという事には、正直抵抗があった。
恥ずかしいというか、気まずいというか、少なからず動揺する。
でも、その動揺や躊躇を彼に悟られるほうが何倍も恥ずかしい気がして、冷静を装った。
しかし、ソータの背中を見た途端、生身の肌を直視する事以上の衝撃が襲ってきて、息を飲んでしまった。
『っ……』
「…………」
会話をしていた事を忘れて、今度は私が黙りこむ。
私が黙ってしまっても、彼は虚ろに前を見つめたままだった。
露になった背中は、人間の肌の色をしていなかった。
時間がたってやっと治り始めた名残の黄、痛みが怪我となって定着した青、真新しい衝撃を吸収した赤――――。
その三色が斑に混じりあい、背中から肩、腰、腹へと拡がっていて、到底人の肌には見えなかった。
(こんなに酷かったんだ……)
赤青黄、三色の痣の分だけ痛みが伴ったと考えたら、それはどれ程の苦痛なのだろうか。
ここまで範囲の広い、治る前に重ねられた傷に対して、私なんかが出来る手当て等存在しない。
だから、せめてと一番色濃く生々しい痣に、湿布を貼り付けた。
『おしまい』
めくっていたシャツを無造作に放して、私はふいっと顔を背けた。
傷を見て衝撃を受けたと悟られぬよう、何気無いふりをして、自分用の椅子へと戻る。
私が離れてからも、数秒間、ソータはぼーっと虚空を見ていた。
横目で様子をうかがいつつ、背もたれに身体を預け、彼が買って来てくれたイチゴオレを啜る。
口の中に広がる甘味。
よく考えると、こうしてイチゴオレを味わうのは久しぶりだった。
視界の端で、緩慢にソータが動き始める。
乱れたシャツを軽く整え、カーディガンとブレザーを羽織る。
けれど、前のボタンも止めぬまま、ダラリと腕を垂らして、再びフリーズした。
何かあったのは明白だった。
寝ている時以外はやたらにニコニコと饒舌に話すソータが、こんな状態なのは始めての事だ。
なんだかまるで、此方に何かあったことをアピールしているかのようで、少し苛立たしい。
『……はぁ』
チラチラと横目で様子を窺っていた私は、彼の耳へ届くように、わざとらしく、はっきりと溜め息を吐く。
「あ……」
やっと目の焦点があった。
ジト目で見詰める私に気付く。
「手当て、ありがと」
今更ながら礼が飛んでくる。
『どういたしまして』
間髪入れずに返事を返す。
「……その、またよろしく」
一瞬で返答され、ソータは思わずぐっと詰まって、言葉を探すように余計な、拍子の外れた言葉を発した。
話し方まで、どこかぼーっとしていて、たどたどしい。
(どうしたの?)
(何かあった?)
煩わしいそんな台詞の群が頭の中に浮かんでは消える。
けれど、それは訊いていい事なのか判断出来なかった。
それは、質問する事が気に障るかもしれないというような事ではなくて……
私とソータの間でそんな質問の言葉はそぐわないような……
だから私は、瞳の奥を覗き込むように、ただじっと見続けた。
「…………」
『…………』
ぶつかる事は無く、ただ交じり合う視線。
こんなにも、ソータの顔を真っ正面から見たのは初めてだった。
長い睫毛、大きな目、薄い唇―――
ソータは、虚ろではあったけれど、目を逸らしはしなかった。
「……ねぇ、シイナ?」
『ん』
「ルール違反、していい?」
『ルールなんてあった?』
「……はは、じゃあうざかったら聞き流して」
『ん』
紡がれる言葉に、淡々と返していたら、やっとソータは小さく笑った。
それは随分乾いていたけれど、その日初めて見せた笑顔だった。
「俺さ……スポーツ推薦でこの学校入ったんだ」
ひきつったように僅かに口の端にのみ笑顔を残したまま、語り始める。
『…………』
「……けど、去年怪我しちゃって、レギュラー外されて……」
相槌なんか不必要な気がして、私は初めて会った頃のように、無視するみたいに、黙って話を聞いていた。
「勿論大会も出れなくて、今は休部してんだけど、もう戻る場所なんかなさそうでさ……」
『…………』
突如始まった断片的な説明では、その話が、先程見た幾重にも重ねられた痣や傷と繋がっているのかは判らなかった。
「部活は辞めざるをえないかなって、やっと踏ん切りついたんだけど……」
『…………』
「そしたら、学校も辞めなきゃいけないかもしんなくて……」
『っ!?』
流石に聞き流せなかった。
スポーツ推薦は、文武両道を掲げるこの高校が、近隣の中学で目覚ましい活躍を残した生徒を科目検査無しに優先的に入学させる制度だ。
しかし条件がいくつかある。
一つは言わずもがなだが、推薦制度を受けたスポーツの部活動への加入。
二つ目に、その部活動を三年間続ける事。
しかしながら、怪我等の事由によりやむ無く部活動を辞めなくてはならなかった場合――――
殆どの生徒が、自主的に学校を辞する事を選んでいるらしい。
でも、ソータの場合、もう三年生。
受験生の立場だし、部活だってあと数ヶ月で引退の筈。
情状酌量の余地はあるはずだ。
ソータが卒業まで学校に残りたいと言えば、例え退部したとしても―――。
「……ほらっ、俺今結構な問題児だからさっ」
私の視線から考えている事を理解したように、ソータはまたしてもははっと笑った。
屋上でこうしてサボっていることを言っているのだろうか?
それとも、世間一般で言ういじめられる方にも原因があるという意味だろうか?
ソータの校内での評判や、ソータが今置かれている状況の詳しい事由を知らない私には、全ては理解出来ない。
「条件出されたんだよ。学校に残りたいなら成績あげろって……」
『…………』
私の動揺を笑顔で宥めて、彼は話を引き戻した。
「今後の成績、学年順位二桁をキープ出来たら、学校に残ってもいいって……」
『それで、ずっとボーッとしてたの?』
少しホッとして、私はやっと口を開いた。
スポーツ推薦の枠から外れた生徒が、退学や転校の道を選ぶ一番の理由は、学校の授業についていけないからだ。
腐っても進学校である我が校で、運動の功績のみで入学した生徒が勉学についていくのは難しい。
でも、全教科90点以上を取れというなら酷な話だが、学年順位二桁なら無理難題でもない。
ソータの成績が現時点でどんなもんかは知らないが……
『そんなに悩まなくても……そこまで難しい話じゃないじゃん?』
「…………」
私の問いに、今まで一方的に話していたソータは、口をつぐみ、がっくりと項垂れた。
『…………』
「…………」
『……え?そんな絶望的?』
意味深なだんまりに、恐る恐る訊く。
大きな頷きが一つ、返ってきた。
うちの学校の一学年の人数は、大体150人くらい。
二桁以内という事は、半分よりも下で済むわけで……
『今……何位?』
「…………132位」
(う……微妙)
単純に全教科何点以上とかだったら、試験勉強をしっかりやれば結果は出る筈だ。
でも、学年順位となると、他の生徒達が揃って良い点を取ってしまうと、例え自分としては良い点数を取ったとしても順位には反映されないかもしれない。
十人程度を越えるだけなら、それでも難しい話ではないと思ったのだが、三十人抜きとなると……
(確かに絶望的かもしれない)
私が返答に詰まった事に気付くと項垂れていた彼がガバリと顔を上げた。
小さな動作ですら、全身の傷が痛む筈なのに、それを感じさせない素早い動きで、座る私の直ぐ横に、膝まずくような格好で近付く。
何事!?と思わず身構えるが、ソータは気にする様子もなく、無遠慮に両手で私の手を取った。
『なっ!?なに?』
「シイナ!」
熱の籠った熱い眼差しが上目遣いにこちらを見ている。
私の掌は合わさり、その上から包み込むように彼の手が重なっている。
ソータはいつも結構安易に触れてくるから、触れられる事には大分馴れたつもりだった。だけれど、このシチュエーションはなんだか、無意味に鼓動が速まった。
「頼むっ!俺に勉強教えてくれっ!」
大きな、キラキラとした瞳が、至近距離で私の視線を捕える。
『無理!』
暴れる鼓動に痛みすら感じて、即答した。
「なんで!?俺よりは成績いいでしょ!?」
『それは……そうだけど』
断っているのに、ソータの手は離してくれない。
『教えたことなんてないもん!無理!』
ソータが私の成績を知っているかは分からない。
でも、いくら成績が良くたって、他人に勉強を教えられるかどうかは別だ。
私は勝手に、独りで、暇な時間を潰す為に勉強しているだけで、教えるなんて事は想定されていない。
「頼む!頼むよっ!!」
『だからっ……』
「俺……まだ此所にいたいんだ!」
再び請われ、重ねて断ろうとするも、遮るように畳み掛けられる。
その言葉に続きを失って、胸の奥がギクリと跳ねた。
(此所って……屋上の事??)
私が詰まったのを好機とばかりに、ソータは更に言う。
「俺、シイナと卒業したいんだよ!一緒にっ!!」
その言葉が嘘とか建前なのかなんて知らない。
でも、心臓が締め付けられるように強く軋んで……その反動で私は頷いていた。
それは、たった一度の
邂逅の筈だった。
それは、偶然起こった
数分の共有の筈だった。
それは、無意味な
戯れ言の応酬の筈だった。
なのに、いつの間にか
奥の方に染み込んで・・・・・・
なのに、いつの間にか
変わっていって・・・・・・
なのに、いつの間にか
大切に・・・・・・
私達は、
前に進んでいるのだろうか?
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