日常想起9

 三月に入っても、直ぐには暖かくならない。

 便宜的に、時候としては、春と分類されているだけで、気候はまだまだ冬を引き摺っている。

 椎梛は、室内だと言うのに、制服の上からコートを着たまま、歩いていた。

 校内はそこまで寒いというわけではない。

 各教室に設置されている暖房は、春一番が吹くまでは、フル稼働し続けるだろう。

 それでも、椎梛はコートをしっかりと着込み、手にはマフラーを携え、歩いている。

 別に、風邪をひいているわけでもない。

 実際のところ本人も寒さを感じているわけでもない。

 ただ、これから向かう先が吹きっさらしで、遮るものが何もなくて、けれどついつい時間を忘れて長居してしまうだろう場所だからだ。

 いつも通り旧校舎を進み、階段を上る。

 一階から二階、そして三階、四階と、息切れする事もなく、慣れた調子で淡々と上っていく。

 そして、いざ屋上の手前、最後の階段に差し掛かったところで……


「おいっ!」


 咎めるような声がかけられた。

 まずい、と椎梛は身をかたくする。

 椎梛の右足は、既に階段の一段目へと掛けられている。

 その先には、もう屋上しかない。

 言い訳のしようがない。

 恐る恐る、振り返る。


『……はぁ』


 そこで思わず脱力した。

 心音を速めて損した、と悔やむ。


「こんなところで何やってんだ?」


 そこにいたのは叔父である樹だった。


『別に……』


 素直に答えるわけにも、と言うより椎梛としても確たる回答が無く、濁した。


「もう授業の時間じゃないのか??」


 まるで教師のような厳しい眼差しで言ったものの、樹は直ぐに表情を崩した。


「……って、お前のサボり癖は今に始まったことじゃないか」


 睨み付けるような眼差しをした椎梛に、睨むなよとばかりに嘆息する。


『らしくない事言わないで』


「らしくないって……一応センセーなんだが」


『はいはい、そうでした』


 樹は怒っている風もなく、話し続ける。

 背後で始業を告げるチャイムが鳴った。


「お前……もしかして、屋上使ってんのか?」


『使ってないよ』


 あっさりと、否定する。

 樹は壁に寄りかかるようにして、白衣のポケットに片手を突っ込む。

 話し込む体勢だった。

 椎梛としては、人を待たせているので早く立ち去りたい所だったが、嘘を吐いた以上、振り切るわけにもいかない。

 ポケットから出てきたのは、掌大の箱だった。

 馴れた手つきで箱を指で叩きながら軽く縦に振れば、中から細い物がひょこりと顔を出した。

 そして、それが再度隠れてしまわぬ内に、口元へと持っていく。


『ここ、どう考えても喫煙禁止だと思うんだけど……』


 片手だけで器用に煙草をくわえる樹に、呆れた調子で椎梛は指摘した。


「堅い事言うな」


 樹は椎梛の指摘等軽く一蹴し、堂々と火を点けた。

 椎梛も止めても無駄だろう事は予め解っていて、近付いて取り上げようとまではしない。

 ただ、盛大に溜め息を吐き、目の前の人物が本当に先生と呼ばれているのかを確認するかのように、所作を見守っていた。

 窓も、大した広さもない薄暗い踊り場に、白い靄となって紫煙が吐き出される。

 大気へと放たれた煙は、自由を得た途端に逃げ場を失って、臭いと共にその場に停滞した。


『生徒が煙草疑われそうだね』


 椎梛からすれば、樹の煙草の臭いはそれなりに慣れたものだ。

 けれど、吸わない人、更に身の回りで吸う人がいない人は、壁に染み付いた僅かな残り香すら気付くかもしれない。

 結果この場所が、早々と喫煙に身を染めた学生の溜まり場になったり、口煩い教師が気付いて問題を大事にすれば、屋上は完全に封鎖される事になるかもしれない。

 そうなれば、椎梛は最早教室より長時間過ごしているであろう居場所を追われる事になる。

 だが、椎梛は居場所が無くなるかもしれないと不安になる事はなかった。

 それよりも今は、椎梛にとって《二人の場所》になりつつある処を他人に悟られたかもしれないという事への苛立ちが心の大半を占めていた。


「こんなとこ誰も来ねぇよ」


『来てるじゃん?』


「俺は、たまにここで煙草吸ってんだよ。でも一度も問題になった事無ぇ」


『あっそ』


 椎梛は、今にも貧乏揺すりを始めそうな足をそっと手で抑え、苛立ちを隠すように紫煙から目を逸らした。

 椎梛と同様に、あっさりと樹も嘘を吐いた。

 自分のアジトである保健室で煙草はいくらでも吸える。

 コーヒーメーカーを持ち込んで、私室のように寛ぐ事も出来るのだから、煙草を吸うなんて雑作もない。

 咎められない程度に換気をして、消臭剤でも撒いておけば、色んな匂いが混じりあう保健室では、幾らでも言い逃れだって出来る。

 勿論、椎梛には樹が嘘を吐いているのが判った。

 なんせ、何度もこの場所を訪れているのに、樹と出会でくわしたのはこれが初めてなのだから。


『……ところでさ、それ何?』


 赤く燃えて灰へと変わっていく煙草が、早く短くならないかと願いながら、椎梛は話を逸らした。


「ん?」


 樹は、長くなってきた灰を落とす為に携帯灰皿をくわえ煙草のまま取り出す。

 「だからそれ」と控えめに椎梛の指先が示す先には、無駄に大きな紙袋が下がっていた。

 それを腕から提げていた樹は、重みのある左腕を上げるのを嫌って、先程からの一連の動作を右手のみで行っていたのだ。


「……あぁ」


 それからもう一度煙草を口元へと持っていき、一吸いして――――少し考えた後、まだ吸える長さの残った煙草を灰皿に押し付け揉み消した。


「……これは、バレンタインのお返しってやつだ」


 焦らすような間を十分にとった後、やっと樹からの返答が返って来た。

 その返答と行動で、椎梛には樹の考えている事が解った。

 きっと、椎梛が屋上に出入りしているのかどうか確認するか迷って、止めたのだ。

 問い質したところで、椎梛が本当の事を言わないだろうと察しがついたのだろう。

 樹の腕の袋は、室内で持ち歩けば違和感を感じる程に、割と大きな袋だった。

 紙袋のようだが、表面は艶のある丈夫さを増す為のコーティングが施されている。

 どうやら、大きさだけではなく、重みもそれなりにあるのが見て取れ、ひしゃげる程じゃないにしろ、多少凸凹と表面が波打っていた。

 どう考えてもたった一人に渡す為の荷物が入っているだけという風には見えない。


『どんだけ貰ったの?』


「十……二?いや、三だったか?」


『……そんなにチョコ食べたの?』


「いんや、チョコだけじゃねぇ、クッキーだのケーキだの……バリエーションはあったぞ。っつーか、お前にも幾らか食わせたじゃねぇか?」


『……あぁ、そういえば、やたらに甘い物ばっかり持ってきたね』


 一週間くらいの間、毎日樹が椎梛の家を訪ねて来ては、可愛らしいお菓子の類いを持ってきたな、と思い出した。

 それがバレンタインの時期だったかどうかまでは、覚えていなかった。


「何が楽しくて、教師に手作り菓子なんか渡しに来るんだか……ガキはガキ同士で楽しんでろっつーんだ」


 口の中に甘味が思い出されたかのように、樹は口を歪め、心底迷惑そうに言う。

 中には、本当に樹に想いを寄せた上での贈り物かもしれないとは微塵も考えていない様子だ。

 いや、考えていないというより、例え恋愛感情を抱いていたとしても、それは一時の気の迷い、もしくは幻想だと悟っているのだ。


『その割に、ちゃんとお返し用意してるじゃん』


「貰ったもん返すのは当たり前だからな」


 樹は椎梛の突っ込みにも、サラリと言い返した。

 照れ隠しとか、人気取りとか、そんな感情は見てとれない。

 そういう無神経な発言や行動が、無垢で大人の男性に憧れをもつ女子高生を惑わしているという事を、樹は自覚していない。


『……あ、あの人は?司書の南さんには貰ったの?』


「南?貰ったけど……お前、あいつと面識あんのか?」


 結局渡せたのか、と椎梛は心の中でひっそりと思った。


『図書室はよく行くから』


「そうかそうか。あいつは昔っから面倒見のいい奴だからな、ここの生徒だった頃も保健委員でもないのになんだかんだとよく手伝ってくれたもんだ」


 はぁ、と椎梛は溜め息を吐いた。

 昔は生徒の一人でしかなかった詩織。

 そして今やっとその生徒と先生という関係から脱したというのに、未だ樹にとって詩織は元生徒でしかないのだというのが樹の発言から伝わってきた。

 詩織が不憫だ、と椎梛は少し同情した。


『南さんにもお返し渡すの?』


「そりゃ、まぁ……でも、流石に生徒と同じもん渡すわけにもいかねぇからな、飯でも奢ってやるつもりだよ」


『そう……』


 それはさぞかし詩織の勘違いが加速することだろう。

 だが、生徒と同じお返しではない事は、詩織にとっては多少報われたと言えなくもない。


「あ、なんならお前も行くか?面識あるなら、いいんじゃないか?」


『絶対いかない』


「……ったく。お前はホント人付き合いが嫌いだよな」


 まぁいいけどよ、と樹は逆に溜め息を吐く。

 ここまでくると鈍感を通り越して、わざとじゃないかとさえ感じられる。

 二人の仲が上手くいけばいいと思っているわけではないが、せめて食事くらいは二人きりで行ければ良いと、椎梛は思った。


「あぁ、そうだ。お前にも……」


 椎梛の呆れに気付く事もなく、樹は下げた袋の中へと右手を突っ込んだ。


『は?私はバレンタインなんてあげた覚えないけど?』


「ん?バレンタイン云々かは知らねぇけど、大福くれただろ?」


『あれは……別に。ただ作り過ぎたから』


 樹が持ち出した【大福】というワードに、椎梛はなんとなくギクリとしてしまった。

 気付けば、取り繕うような、言い訳がましい言葉が口をついて出ていた。

 「ほれっ」と樹は袋から取り出した箱を投げて寄越す。

 アンダースローで弛く投げられたそれは、構えていた椎梛の手に収まったものの、予想よりも倍くらい重かったために、つい取り落としそうになった。


『何コレ?』


 椎梛は、受け取った箱が到底菓子の包みには見えなかったことと、結構な重さの物を投げて寄越すという行為に、半ば軽蔑を込め冷たく言う。

 実は、樹としては例え差し出したところで椎梛が受け取らないだろうことが判っていたので、そんな暴挙に出たのだが、椎梛はそれを樹のいつもの乱雑さからくる行動だとしか思わなかった。


「持ち運び式の救急箱」


 しげしげと箱を見詰める椎梛に、そう教えてやる。

 けれど、物が何か等、透明なプラスチックで出来たその箱の中を透かし見れば、察しはつく。


『……これが、お返しなの?』


 わざわざくれると言うのだから、下手な文句をつけるわけにもいかず、椎梛はそう訊くしかなかった。


「俺の立場で、生徒に菓子を渡して回る訳にもいかんだろう」


 屁理屈としか思えないご託を並べる樹。

 だからあんなに重そうだったのかと、妙に納得しつつ、椎梛はプラスチックの箱を開封してみる。

 文庫本程の幅のプラスチックケースの中には、消毒液の小さなボトルやガーゼ、絆創膏、擦り傷や火傷に塗る軟膏、湿布なんかが数個づつ詰まっていた。

 蓋の裏にはピンセットと小さな鋏がくっ付けられていた。


「なんだかんだで、お前結構怪我したりしてるからな、丁度いいだろ?」


 嫌味を言うように、ニヒルに笑って樹は言う。

 確かに身に覚えがあった椎梛は、言い返す事が出来なかった。

 でも、そんなにしょっちう怪我しているように言われるのは少々心外ではあった。


「簡易的な物だからな、無くなったらちゃんと補充しろよ」


『ん、有難う』


 椎梛の礼を聞き届けると、やっと樹は壁から背を離した。

 満足気に小さく頷いて、軽くヒラリと手を振って、踵を返す。

 そのまま、後も見ずに去って行った。

 椎梛は、樹の姿が見えなくなったところで、足音だけは忍ばせて、階段を上っていく。

 今更急いでも仕方がないとは解っていつつも、自然と足は速まっていた。

 椎梛が階段を駆け上がっていくのを見届けると、角を曲がったところで立ち止まっていた樹は、ほっとしたように息を吐いて歩き始めた。

 腕に掛けたままの袋は随分軽くなっている。

 何も入っていないわけではない。

 その中には椎梛に言った通り、生徒達に渡すお返しの品が入っている。

 しかし、どれも焼き菓子が入った美しく包装された包みばかりで、簡易救急箱など一つも入っていなかった――――。

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