甘言






     甘い甘い


     蜜のような・・・・・・



     熟れた傷へ言葉は沁みる






Scene9


 旧校舎の屋上から見える景色。

 すっかり葉が散った木立、薄曇りの寒空。

 罵声に怒声、肉に食い込む暴力の響き、微かに零れる苦鳴……

 もうすっかり見慣れた。

 中庭で繰り返される愚行が、今日も変わらず行われていることを確認すると、私はさっと踵を返す。

 止めにいこうとか、見たくないとか、そんな気持ちはない。

 準備する為だ。

 屋上の端に纏めてあるデッキチェアとラック。

 雨避けの為にかけてあるシートを外し、定位置まで引っ張り出す。

 少しだけ気になった汚れを雑巾で払い落とす。

 椅子を組み立て、ラック内に仕舞ってあるラグを敷く。

 これで準備完了だ。

 後は座って、待つだけでいい。

 流石に2月ともなると寒い。

 私は新たに持参した膝掛けを胸元まで引き上げた。

 またソータが屋上に来るようになった。

 しかも前の比ではない。

 私よりも頻繁に、ほぼ毎日来ている。

 先住民である私すら寒くて一日置きに数時間来るくらいだというのに。

 ソータは毎日、昼休み後には必ず来ているようだった。

 因みに今日私は三限目が終わった所で教室を抜け出してきた。

 今は四限目が始まったばかりの時間だ。

 膝掛けにくるまるようにして震えていると、背後で扉が開く音がした。

 いつの間にか中庭の騒乱は静まっている。


『お疲れ様』


 振り返りもせず、声をかける。

 これで知らない人や教師だったら大変だ。

 私は独りで二つ並んだデッキチェアの一つに座っていて、見咎められれば言い訳しようもない。

 そして今は共犯者、と言うか主犯の人間もいない。


「今日は早いじゃん」


 だが、直ぐに耳慣れた声が返って来た。


『教室騒がしくて、うんざりした』


 真っ直ぐ此方へ足音が近付いて来て、どしんと重たそうに腰をおろす。


「なんで?なんかあった?」


 少し離れたその場所で明るい髪が揺れる。長い間ほったらかしにしているのか、つむじの辺りが少し黒い。


『さぁ?皆騒いでるわけじゃないけど、そわそわしてる』


「?……あぁ、なるほど」


 傷が痛むのか、ソータは緩慢な動きで足を伸ばし、椅子に背を預けた。


『そっちこそ、今日は早いんじゃない?』


「……ん?さっき下からシイナが見えたから」


『そういう事か』


 僅かに目線を上げると、ソータの頬にはまだ生々しい引っ掻き傷が横に一筋線を引いていた。


『血、出てるよ』


「……え?マジ!?」


 反応が鈍いのは、身体中の痛みが尾を引いているからだろう。

 私が自分の頬を指差して指摘すると、ソータは慌てたように袖で拭った。

 今にも垂れそうだった紅い珠がぐしゃりと潰され引き伸ばされる。


「鞄の金具当たったんかな、はは」


 言い訳みたいに言って、空笑いする。

 相変わらずソータは笑っていた。

 でも、その笑顔は前より少しひきつっている気がする。


(無理してまで笑う必要ないのに……)


 なんとなく見ていて痛々しくて、膝掛けを直す振りして目を逸らした。


「……ところでさっ」


 他に目立つところに傷がないか探していたソータが、突然声を弾ませ、真っ直ぐ手を伸ばしてきた。

 伸びてきた指先は私の鼻先十五センチくらいのところで掌を上に向けたまま停止する。


「……」

『……』


 ソータの掌はあまり綺麗とは言えなかった。

 崩折れた時についた小さな擦り傷や、急所を庇ってできた打ち身の痣が、掌の上に鮮やかに踊っていた。


『……何?』


 十五秒くらい静止した後、一向に引っ込まない掌を見飽きて、目を逸らした。

 睨め上げるようにして見たソータの顔。

 最初は期待するようにキラキラしていた大きな瞳が、驚いたように見開かれ、その後不満げに伏せられた。


(コロコロ変わる表情だこと……)


 百面相とは正にこの事だろうと言う表情の変化が面白くて、私は何も言わず放っておいた。

 最後の足掻きとばかりに空気をわきわきさせてから、やっと掌が引っ込められる。


「なんだよぅ。期待してたのにさー」


 ソータはいじけたように口先を尖らせて、ぶつぶつとごちる。


『だから、何を?』


 言っている事がさっぱり解らない。


「別に手作りとまでは言わないのにさー、シイナは俺が甘党って知ってるはずなのになー」


 人が訊いているのに、ソータは愚痴るばかりで、答えようとしない。


(……面倒な奴)


 チラチラと此方を見ながら、わざとらしく呟くソータ。


『だぁかぁらぁ……何が?』


 一向に浮上する様子の無い彼に、同じやりとりも流石に面倒になってきた。


(まぁ、先に知らぬふりをしたのは私だけどね)


「だぁかぁらぁ、チョコだよ!チョコ!!バレンタインの」


 重ねて訊いていると、まるで彼のほうが焦らされていたかのように、言い返してきた。


『……バレンタイン?』


 子供みたいに「チョコチョコ」と唱えるソータ。

 その顔にからかいがいを見出だして、私は不思議そうに訊き返してみた。


「シイナ……もしかして、バレンタイン知らないの?」


 私の反応に、彼は心底驚いたような顔をする。


『……知ってますよ』


「え?ソレ、ガチで知らない人の反応じゃね?」


『いや、知ってるし』


「なぁんだ、知らないのかー、じゃあしょうがないよね」


 すっかりソータは機嫌を持ち直している。


『兵役を拒否させぬ為に結婚を禁じた皇帝に背いて、影で若い男女を結婚させていた神父バレンティヌスを守護聖人とした、男女が想いを伝える行事でしょ?』


 何故か勝ち誇ったようにうんうんと頷いているソータへ、早口に捲し立ててやる。

 私の言葉に、何故か誇らしげだったソータは一瞬にして固まった。


「え……逆に何ソレ?」


『知らないの?なんだ、ソータのほうがバレンタイン知らないんじゃん』


 勝ち負けなんて勿論ないのだけれど、完全に形勢逆転した。


「いや、普通知らないでしょ?」


『ちゃんと知らないのに、チョコが欲しいとか図々しいよね』


「えーーっ」


 さっきから一貫してからかわれているなんて、ソータは気付く事なく一喜一憂してみせる。

 こういう、素直で正直で、開けっ広げなところが、凄いなと、私は思う。

 ブーブーと再び文句を言い出したソータを尻目に、鞄を開け、包みを取り出した。


『はい』


 少しだけソータの方へと身を乗り出して、膝の上に包みを放ってやる。

 可愛げの無い、油紙みたいな包み。


「え?え?このタイミングで!?」


 今までのやりとりの上での意味の解らない物体の登場に、ソータは大袈裟に狼狽した。


(いいから、とっとと開けろよ)


 口に出すのはなんかリアクションを期待しているようで、恥ずかしくて、ソータの問いを無視する。

 自分もまったく同じ包みをもう一つ引っ張り出し、素知らぬ顔で開封する。

 私の意図を読み取ろうと、膝の上の包みに触れられないまま、ソータは私の挙動をじっと見つめている。

 チラリと、こちらを凝視する彼を一瞥して、視線を引き受けたまま包みに手を突っ込む。

 中の物体を指先で確認し、掴むと、袋から出すや否やかぶり付いた。

 白い粉が微かに舞う。


「えーっ!!なんで大福!?」


 私の突然の行動に、ソータは目を白黒させる。


『食べたかったから作った』


「え!?これシイナが作ったの!?」


 何度めかの大袈裟な驚愕の後、ソータはやっと膝の上の包みをそっと開いた。

 中には大福が二つ。形は多分崩れていないはず。

 和菓子って、洋菓子に比べると手作りが難しいと思われがちだが、この大福はそうでもない。

 本格的に作るなら、それこそ労力も時間も設備も技術も必要になるのだろうが、所々で手を抜く術を取り入れれば、さして難しくもない。

 実際この大福も、電子レンジを使用している為、大して面倒をかけずに作成されているし。

 ソータは、包みから取り出した大福を、「すげー」とか「本物だ」とかわけの解らない事を呟きながら、白いふにふにした物体を眺め見ている。

 四口で大福を一つ食べ終えた私は、掌の粉を軽くはたく。


『早く食べなよ』


 ソータは、放っておいたら、いつまでも見ているんじゃないかと思われた。

 いくら陽の光に照らしたって、透かしが出てくる事は絶対無いし。

 促すように、鞄から今度は保温ポットを取り出す。

 カップに中身を注ぎ、差し出してみた。

 やっとの事でソータは大福へと噛み付いた。

 半ば辺りまで容赦なく口内へと含む。

 盛大に白い粉が舞う。


「んー!」


 彼の眼は最大限まで丸く拡げられ、唸りとも、悲鳴とも取れる声が漏れた。

 詰まってしまったのかと、湯気のたつカップのお茶を差し出す。

 中には緑茶が注れてある。

 やはり和菓子には緑茶だ。

 ソータはお茶を受け取り、一気に飲み干した。


「っんまい!」


 口の回りに粉を散らして、口の中でもごもご咀嚼しながら、ソータは言う。

 感想なんて急ぐ必要無いのに、一刻も早く伝えなくてはとばかりに、「美味い」と繰り返す。


『はいはい、良かったね』


 子供みたいな表情を向けられ、私は目を逸らした。

 視界の端で、残っていた半分の大福が口へと消えていくのが見えた。

 膝の上の一つ残った大福を見る。

 ソータに比べれば、私はそこまで甘いものが好きな訳ではない。

 一つ食べれば充分だ。


(こんなに喜んでくれるなら、もう一つあげても……)


 そんな風に思った時だった。


「シイナ」


 名を呼ばれ、逸らしていた目を向ける。

 ソータはデッキチェアに伸ばしていた足を地へと下ろし、座ったまま体を此方に向けていた。

 大福はもうすっかり食べ終わったらしい。


『……』


 真っ直ぐに見つめられ、軽口の一つも捻り出せなかった。

 ソータの手が此方へと伸びてくる。

 ビクリと体が震え、動けなくなった。

 ソータの私より大きな手が、大福の包みに添えられていた私の右手をとる。

 ささくれだった、擦り傷だらけの掌が、ダンスでも誘うように、私の生っ白い手を掲げる。

 私の右手の人差し指の先には、小さな水疱があった。

 大福を作っている時、電子レンジから耐熱ボウルを取り出す際、あんなに熱くなっているとは思わなくて、油断して火傷した。

 直ぐに冷やしたのだけれど、小さな水疱が出来てしまった。

 大した傷ではない。

 ソータの擦り傷だらけの手に比べれば、直ぐに治ってしまう些細な傷。

 そう言えば、何ヵ月か前に、同じ所をプリントで切ってしまった事があった。

 つくづくついていない指だ。

 あの時ソータの手はこんなに傷だらけだっただろうか。

 腕には痣があったような気がしたが……

 繋いでいるわけでもなく、微かに温かい程度に合わせられている掌。

 熱が込められているわけでもない、ただ据えられているだけのような交錯する眼差し。

 拒絶するわけでも、受け入れるわけでもない、ただただ止まってしまった時間。


「サンキュ、な」


 そう言って、ソータは傷だらけの笑顔を浮かべた。






 なんなんだろう?


 近くなるわけでもない距離。


 膨らむわけでもない想い。



 ただ言葉を交わして、 


 ただ同じ時間を共有して、


 何も好転しないのに、


 何も変わらないのに。



 どうしてなんだろう?


 傷だらけで、痛い思いをして。


 無理して笑う必要ないのに。






 答えは出ないまま


 彼と出逢って


 もうすぐ一年が経つ。

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