日常想起8

 二月に入ると、受験生のピリピリした空気が段々と緩和され始める。

 進路が決まっていない者も少なくなり、新たな生活に胸を馳せる者が増えてくる。

 二年生の椎梛には無縁な話だが、来年の今頃はどうなっているか判らない。

 少なくとも苛々を撒き散らしたり、目の下にクマを作ったりする事はないだろうが……

 二限までの授業に出席した後、椎梛は図書室へ向かった。

 数日前に借りた本を読み終えたので、返しに行くところだった。

 図書室は新校舎の一階にある。

 高校の図書室にしては中々に蔵書が豊富で、小説等の読み物は有名な物を除いて、ある程度期間が経つと入れ替えが行われるようになっていた。

 何でも、近所の古書店と契約していて、定期的に売買を同時に行っているらしい。

 椎梛は、二年の間に随分図書室にはお世話になっていた。

 元々趣味と呼べるようなものがない彼女は、膨大に余った時間を静かに過ごす為、自然と本を読む事が多くなった。

 ただし、ジャンルが定まってはおらず乱読家で、気が向いた物を気が向いた時に読んでいるに過ぎない。

 結果、図書室や図書館といった所にはライフワーク的に通う事が多くなった。


『これ、返却お願いします』


 図書室へ入ると、椎梛は真っ直ぐにカウンターへと向かう。

 この時間の図書室は日頃ならば空いている筈だった。授業と授業の合間の休み時間は短く、慌ただしくなる為だ。

 なのに、今日は本棚にも閲覧スペースにも随分人がいる。

 どうやら、受験を終えた三年生達が自習の時間を持て余した結果のようだった。


「はい、返却ですね……あら?朝比奈さん」


 カウンターで何やら山になった本を分類していたらしい女性がこちらを振り返り、椎梛の顔を見上げた。

 みなみ 詩織しおり

 この高校のOBで、現在大学院に通いながら、図書室の司書をしている。


『こんにちは』


 椎梛は他人に相対する時特有の取り繕った表情で挨拶する。


「こんにちは。ちょっと待ってね……はい、返却承りました」


 詩織は椎梛の差し出した本をバーコードリーダーに通して、返却を確認する。

 詩織は、校内では数少ない椎梛の顔と名前を認識している人物の一人だ。

 常連なのだから当たり前と思うかもしれないが、椎梛は大多数に埋没するのが常のような人間だ、クラスメイトにすら一年間覚えてもらえない事もあるくらいだ。

 なのにも関わらず詩織が顔と名前を覚えたのには理由があった。

 詩織は、自身が在学していた時から、椎梛の叔父である樹に恋心を寄せていた。

 それは決して積極的なものではなく、お話し出来れば幸せ程度の憧憬に近いものだったが、好意には違いない。

 そのため、椎梛が樹の姪であると人伝に聞いた時点で、すっかりその顔と名前を覚えてしまったのだ。

 勿論、詩織は椎梛に樹への想いを言った事はない。寧ろ隠しているつもりだ。

 だが椎梛は、詩織が樹と会った時に見せる熱のこもった表情からそれを悟っていた。


「今日も借りていくのかしら?」


『はい、そのつもりです』


「読むの早いんだから、何冊か借りて行ってもいいのよ?」


『いえ、一冊づつじゃないとなんか変に焦ってしまって……』


「あぁ、わかる気がする。急ぐ必要ないのに、早く次読まなきゃって思っちゃうのよね」


 詩織はうんうんと頷く。

 お互い微妙に相手を意識するようになって、顔を合わせる内にこうやって会話するようになった。

 親しいかと言われればそういう訳でもない。

 詩織からすれば、無闇に無視出来なくて、心の何処かで何かの取っ掛かりになればと思って、話しかけてしまう。

 椎梛からすれば、どうでもよくて、表面的な大人しい娘を演じる為に言葉を返しているだけだった。


『なんか混んでますね』


「えぇ、受験生が暇になっちゃったみたいで……それに」


 詩織はチラリと先程まで格闘していた本の山を横目に見やる。

 本の山は、厚さは大した事ないのに、量がやたらに多かった。


「もうすぐバレンタインでしょ?この図書室ってレシピ本なんかもあるから……」


 詩織は苦笑して、改めて本の山を示す。

 確かに良く見れば、それは焼き菓子やらケーキやらのレシピ本や加えて編物の教本なんかまであった。


『なるほど』


 バレンタインなんてイベントすっかり忘れていた椎梛は、反応に困ってとりあえず頷いておく。

 同時に、レシピなんて今時インターネットで見ればいいだろうに、とか思う。


「なんか料理部がイベントを企画してるみたいで、ね」


 椎梛の頭の中を察したように詩織は言う。

 「それでこんな事に」と、詩織はレシピ本の山を軽くポンと叩いた。


 学校のイベントだから、レシピも学校で調べたという事を言いたいようだった。


「……朝比奈さんは?誰かにあげたりしないの?」


 曖昧な表情を浮かべたままの椎梛に、詩織は意を決したように言う。

 それは、椎梛の返しを期待しているものの、椎梛の答えを探求したいわけではない。ただ、もし身内に、正確には樹にあげるのならば、便乗出来ないものかと考えたものだった。


『いえ、特に』


 だが椎梛はあっさりと、けんもほろろに詩織の期待を砕いた。


「そう……」


 明ら様に詩織は沈んだ声を出す。

 別に、普通に樹にあげればいいのにと椎梛は思う。

 詩織はもうここの学生ではないのだし、恩師に贈り物をしたって問題はないのに。

 だけど詩織からすれば、それは間違いなく本命チョコだ。

 だからこそ、義理として贈っても問題ないなんて簡単な事にも気付けない。

 何か口実を作らない事には、義理に扮して渡す勇気もない。

 もし、本命という事が気付かれてしまったらとか、嫌な顔をされたらとか、そんな事ばかり考えてしまう。

 そんな乙女心を椎梛が理解出来るはずもない。


『それじゃ、借りる本探して来ますね』


 面倒になった椎梛は、まだ何か言いたげな詩織を残して、逃げ出した。

 無駄話をしていたせいで、休み時間終了の鐘がなる。

 椎梛は元々、この後ゆっくり読書でもしようと考えていたので特に問題はないが、教師に咎められても面倒だ。

 詩織は、他にも自習で残っている生徒が多くいるから、椎梛の事も咎めはしなかったが、担任にでも会ってしまえば余計な言い訳をしなくてはいけなくなる。

 カウンターの見える位置を足早に離れ、椎梛は手近な本棚の列に紛れこんだ。

 最近椎梛は心理学の学術本に凝っている。

 物語と違って起伏のない、単調な事実や研究結果の羅列に過ぎないが、感情や表現を推し量る必要が無くて、気楽に読める。

 初めは『すぐに使える心理学』みたいなハウツー本から入ったが、読み始めたら中々興味深かったので、本格的なものも読んでみようと思うようになった。

 因みに、先程返却したのも心理学の学術本。

 心理学者ユングの本だった。

 今日は、元々はユングと同じ意をもっていたのに、途中新たな考えを持ち決別したという、フロイトのほうに手を出そうと思っている。

 ユングもフロイトも今でも心理学の祖として、その思想は今日の心理学にも多く影響を与えているらしい。

 ただ、椎梛は彼等の思想に傾倒しているというわけでもない。

 寧ろ、夢診断や深層意識等、少々神秘的過ぎて、実際の心云々は他人事のような感じがしている。

 だから結局は内容なんてどうでもいいのだ。

 椎梛は集中して目で追い続ける事が出来る程度に、興味を持たせてくれる読み物ならば……。

 本棚の間をくねくねと抜けるようにして、目ぼしい棚の前へと辿り着く。

 確か次に借りようと目をつけていたものがこの辺りににあったはずだった。


「……ちゃんは、誰にあげるの?」


「えー、迷い中」


 目ぼしいものへと手を伸ばした時、椎梛の耳にそんな言葉が届いた。

 反射的に、だったら無理してあげる必要ないだろうに、と心の中で返答していた。


「もうっ!あんな事無ければ迷う必要無かったのにぃ~」


「ホンット、そうだよねっ!」


 女の子達は声音を一喜一憂させ、それが何より大切な事のように真剣に話し込んでいる。


「もう高三じゃん?これがある意味最後のチャンスなのに……」


「確かに。受験生になる前に彼氏欲しかった~」


 椎梛には全く理解出来ない会話は、盛り上りはそのままに、段々と離れていく。

 気がつけば、椎梛の手は本棚へ伸ばされたまま、宙で停止していた。

 関係無い、意味が解らないと言いつつも、女の子達の話に聞き入っていたようだった。

 指先が触れていた本を、今の会話を振り払うようにばっと取る。

 そのままさっと踵を返した。

 やはり、なんだか最近の椎梛は変だ。

 他人に関与したくないと言いつつ、見ず知らずの他人の話に耳を傾けたり、不必要な会話を交わしたり。

 椎梛自身その変化には気付いている。

 その上で、らしくないとも思っているし、気の迷いだとも言い訳している。

 だけど結局は、屋上とアイツのせいで変化しているんだ、と結論付けて、擦り付けていた。

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