日常想起7

 冬休みは、夏休みに比べれば椎梛にとって穏やかな日々だった。

 年末年始は体調が悪いと嘘をついて朝比奈の家に帰らなくて済んだし、少し前に三回忌法要があったからか樹も「帰れ」とうるさく言わなかった。

 そのお陰で、冬休み明けの当校時は珍しく授業を抜ける事もなく、クラスの中に混ざっていた。


「朝比奈さん、次移動教室だよ」


 教室の流れにいまいちついていけていない椎梛に、クラスの子が声をかける。


『あ、はい』


 慌て教科書やら何やらを抱えて教室を飛び出す。

 声をかけてくれた子は既に行ってしまったらしく、廊下にはもう姿が見えなかった。

 仕方無く、記憶を頼りに化学室を目指す。

 椎梛の学校は、進学校の部類に入る。自主性を尊ぶ学校であるという事もあって、登校こそしていれば、授業出席率が悪くともそこまで咎められる事はない。

 但し、スポーツ推薦入学等の例外を除き、定期考査の成績が低ければ問答無用で留年する事もある。

 椎梛の場合は、素行が良いとは言えないが、名目上は病弱という事になっているし、成績は頗る良好の為、とりたてて問題視される事は無かった。

 そのせいもあって、化学室で行われる実験に椎梛が参加するのは久しぶりだった。

 何より、面倒だったというのもある。

 だから、いつもは教室の移動の慌ただしさに紛れて、いつもの場所へ行ってしまうのが常だった。

 だが、冬休みがあけてからの数日、椎梛はあまり屋上へ行ってなかった。

 勿論、全く行っていない訳ではない。

 昼休みや放課後など、何回か顔を出している。

 けれどいつ行っても、他に誰かが来た様子はなく、置かれているデッキチェアやテーブル代わりのラックも、端に畳まれビニールシートがかけられたままになっていた。


「キャッ!」


 椎梛が化学室を目指し、角を曲がったその時、短い悲鳴と共にバサリと何かが崩れた。


『あっ、ごめんなさい』

「ごめんなさい!!」


 椎梛とぶつかったその人との声が重なる。

 廊下中にプリントが散らばっていた。

 慌てて椎梛も拾いにかかる。

 心中では、慣れない事をするから、こんな面倒事に巻き込まれるのだと頭を抱えていた。


「あ、ありがと……朝比奈さんっ!?」


『……島津さん』


 黙々と散らばったプリントを拾い終えたところで、やっと互いにぶつかった相手が誰だったかを認識した。

 なんでだか知らないが、この人とは願ってもいないのにやたらに縁があるな、と椎梛は思う。


「化学室行くとこだよね?」


『うん』


「じゃあ、一緒に行こう?」


 散らばったプリントを全て拾うと、プリントの山の向こうから、茜がごく自然にそんな誘いをする。

 化学室の位置の記憶が心許なかった椎梛は、特に断わる理由も無かった。

 椎梛と違って、茜はプリントの山に視界を阻まれていようと関係なく、廊下を進む。

 逆に椎梛は、彼女の選んでいる道が合っているかすら微妙なので、それを悟られないようにだけ意識して、歩幅を合わせる。


「あー、早くしないと授業始まっちゃうね?」


『……うん』


 茜と同じクラスになってから、体育祭やら文化祭やら、他のクラスメイトと比べて、茜と話す機会は多かった。

 だが、変わらず話すのは茜ばかりで、椎梛は適度に相槌を打つだけ。

 心の中でいくら「授業に少し遅れたって問題ないだろう」と思っていても、口に出す事は決してない。


「もうっ!こんな事引き受けるんじゃなかったなー」


 そして相も変わらず、茜は、椎梛の反応や心の内を気にする事もない。


『学級委員の人、今日お休みだった?』


「ううん、たまたま職員室に用があったから……」


『使われちゃったの?』


「そう。欠席届け出しにいっただけなのに……」


『…………』


「ひどいでしょ?」


『あ、うん……そういえば、島津さん昨日まで休んでたんだっけ?』


 そう言えば確かに始業してからのここ三日、茜がいなかった事を椎梛は思い出した。

 いつも通り授業に出ていなかったら気付かなかったのだろうが、たまたま出ていた事で、彼女の姿が席に無い事にも気付いたのだ。


「う、うん。そう……休んでたよ」


『……そっか』


 椎梛の学校で欠席届を提出しなくてはならないのは、余程の事情がない限り無い事だ。

 通常の体調不良や自己都合であれば、届けなどいらず勝手に欠席処理される。

 欠席届が必要なのは、忌引や法事、入院、感染症等といった特別事由が存在する時だけだった。

 その欠席理由や日数が短期間であれば、出席扱いされる場合もある。

 実際椎梛も、冬休みの前、法事で欠席した際には、届けを提出し、欠席免除されている。


「朝比奈さんは……?」


『え?』


「教室移動、皆においてかれちゃったの?」


『うん。私がモタモタしてて、声かけてはくれたんだけど……』


「そっか、体調悪いんじゃないなら良かった……よっと」


 茜はそう言うと、プリントを持ち直す。

 プリントは紙っぺらだと言うのに、結構な厚みがある。

 茜はその上に自分の筆箱やら教科書やらを重ねて持っているので、重さもさることながら、歩きにくそうだ。

 けれど椎梛は特に手伝いを申し出たりしなかった。

 二人は、中庭を突っ切るように造られた渡り廊下を進む。

 そこを抜けた先に、旧校舎がある。

 いつも椎梛がいるあの屋上がある建物だ。

 新校舎から旧校舎へは、この渡り廊下を通らないと行けない。

 この渡り廊下は、中庭に面し、閉塞感があるにも関わらず左右が開けている。

 椎梛はそこを通るとなんだかいつも無防備な気がして、落ち着かない気持ちになる。

 だから殆どの場合、裏から回って直接旧校舎の昇降口から入るようにしていた。


「……あっ」


 渡り廊下に数歩踏み込んだ時、茜が息を飲むような声を小さく漏らした。

 椎梛は一刻も早くその場を抜け出したかった。

 だが、吹き抜ける風に腕の中のプリントが巻き上げられたのかもしれない。

 そうであれば流石に置いていくわけにもいかない。

 仕方無く立ち止まる。


「朝比奈さん、早く行こ?」


 しかし、何故か茜のほうが椎梛を急かす。

 余程早く行きたいのか、荷物があるにも関わらず、子供のように椎梛の裾まで引っ張る。

 本来なら、椎梛は頓着などしなかっただろう。

 だが、ここまで不自然な態度を取られると、顔を上げて辺りを確認せずにはいられなかった。

 ―――そして気付く。

 中庭の隅。

 欅の樹の立つ、薄暗い陰のような場所。

 そこに数人の生徒が立っていた。

 皆男子で、円陣を組むようにかたまっている。

 四人、いや五人だ。

 目を凝らせば、四人が形作る半円の中心、壁際に追いやられるようにもう一人いる。

 一目で判断出来る、状況。

 距離が離れているから声までは聞こえない。

 だが、無駄に大振りな動きははっきりと見えた。

 右端に立っていた一人が右膝を鳩尾目掛けて盛大に打ち込む。

 勿論、至近距離で放たれた蹴りをまともに受けたその人は、腹を護るようにして、咳き込み、前屈みに崩折れる。

 壁から背が離れたのを見るや否や、体重をかけた肘が肩甲骨の辺りにめり込む。

 屈んだ身体は更に勢いを増し、そのまま倒れこみかけ―――寸でのところで服を捕まれ、押し留められた。

 相手がダメージを食らって、隙だらけになったところで、一斉に攻撃が始まった。

 手、腕、肘、足、膝、身体のありとあらゆるところを凶器と変え、次から次へと暴力が振るわれ――――


「あ、朝比奈さん!」


 潜めてはいるが、叱責するような声が横からかけられた。


『……あ』


 椎梛は渡り廊下で立ち止まっている事も、茜が隣にいる事も、すっかり失念していた。


「悪いんだけど、ちょっと持ってくれるかな?」


 茜は立ち止まった口実を作るように、プリントの束を半分、椎梛の腕へ押し付ける。


『あ、うん』


 そして、少し軽くなった荷を、顔を隠すように持上げた。


「早く行こ?チャイム鳴ってる」


 茜は更に空いた手で椎梛の背を押し急かす。


『うん』


 椎梛は慌てて頷き、すっかり重くなった腕の中の荷物を持ち直すと、不自然じゃない程度に足早に、渡り廊下を立ち去った。

 この時椎梛は、自分の目に映った集団暴力の事をさして気にとめてはいなかった。

 衝撃こそ受けたが、可哀想とか助けたいとか、そんな気にはならなかった。

 余計なものを見てしまったくらいの認識だった。

 でも、椎梛と違って人一倍責任感の強い茜が、助けを呼ぶ事もせず、隠れるように逃げた事には、不自然さを感じていた。

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