日常想起5

 夏休みが終わると間もなく、中間試験を控えつつ、学校は文化祭の準備に入った。

 高校生においての三大イベントとも言える文化祭に備え、勉学は二の次にして今から高揚を高めようと生徒達は動き始めた。

 そんな中、椎梛は一日の授業を終えると、いつもの様に早々に学校を出ずに、廊下を歩いていた。

 屋上に向かっているわけではない。

 どこか緊張した面持ちで、椎梛は廊下を進む。


『失礼します』


 礼儀正しくノックをしてから断りを入れ入室する。

 辿り着いたのは医務室だった。


「おぅ……どうした?」


 室内には、叔父である樹がデスクに向かって書類を書いている。

 椎梛からすれば来なれた場所。その上相手は身内。

 緊張する道理は無い。


『ちょっといい?』


 それでもどこか強張った面持ちに、樹は日頃のようにからかうのを止めた。


「あぁ。座っててくれ、今片付ける」


 拡げていた書類に区切りをつけ、雑に纏める。


「珈琲、飲むか?」


 樹が凝り固まった身体を伸ばしながら振り返った時、椎梛は小さくなって座っていた。

 まるで今から病名を告知されるかのように、真摯な面持ち。

 その姿を見ただけで、きっと朝比奈家に関する話で来たのだろう、と察しがついた。


『いらない。直ぐ帰るから』


 椎梛は、一服の誘いすらパサついた声で断る。

 そのカチコチに固まって座る少女の姿に、初めて会った時の姿を重ね、樹は苦笑した。

 仕方無く、作りおきの珈琲を一つだけカップに注ぐ。


『樹叔父さん、お願いがあるの』


 樹が席に戻るのを待って、椎梛は意を決したように口を開いた。

 いつもは目を合わす事すらろくにせず、不遜な態度をとってばかりの、世渡り下手な少女。

 そんな椎梛が真っ直ぐに樹の視線を捉え、背筋を伸ばし、膝に手を添え座っている。


[誰かにお願いをするときは、必ず面と向かってする事]


 昔何度か聞かされた言葉が、懐かしい声で樹の頭に響いた。

 それは樹の姉、椎梛の母である椿つばきがよく言っていた言葉だ。

 樹がまだ学生だった頃、金の工面を姉に何度かお願いした事があった。

 橋坂家は裕福とは言えず、樹は奨学金で大学に行き、学費もアルバイトで賄っている状態だった。

 その点、姉の椿は大財閥の跡取りと結婚して金に不自由していなかった。

 だから樹は恥を忍んで生活費の工面を数度頼んだのだが、椿はいつも嫌な顔をせず、理由すら聞かず、願ったものより多い額を手渡してくれていた。

 だが、たった一度だけ、姉がそれを断ったことがあった。

 それは樹が体調を崩して、病院に行くための金を電話で頼んだ時の事だ。

 状況が状況だから仕方無くだったが、頑として金を出す事を許諾しなかった。

 その代わりに、直ぐに樹の住んでいたボロアパートに駆け付け、何から何まで面倒を見てくれたのだが――――――

 その時、久しぶりに姉のあの言葉を聞いたんだったか。

 同時に、姉からあの言葉を聞いた最後だった。

 そしてそれが彼女の口癖みたいなものだったのかもしれないと思い到った。座右の銘にもならない程度の信念のような……


[誰かにお願いをするときは、必ず面と向かってする事]


 きっと椿の娘である椎梛も、その言葉を度々聞かされてきたのだろう。

 ついつい逃れるように游ぎそうになる視線をなんとか樹へと縛り付けようとする椎梛の姿には、姉の信念が根付いているだろう事が容易に想像出来た。

 椎梛は、何処か懐かしんでいるような眼差しでこちらを見、反応を返さない樹に対して、戸惑いつつも次の言葉を続けた。


『車出して欲しいんだ』


「車?」


『うん……三回忌だから、お墓参りに行きたいの』


 然り気無く言及する事を避けているかのような言い回しで、椎梛はそう言った。


「もう三回忌か……早ぇな」


 頼まれた樹は、良いとも悪いとも答えず、遠い目をする。樹の座っていた椅子がゆっくりと半回転し、窓の外へと視線は移動した。


「……構わねぇよ。いつ?」


 感慨にふけるような間をおいて、やっと回答が返ってくる。

 その一言を聞くと、椎梛はやっと肩の力が抜けた。


『今週の日曜に』


「解った。命日じゃなくていいのか?」


『……うん』


 日頃学校に対して然程気に留めない椎梛がわざわざ休日を指定してきた事に、僅かに違和感を感じた。

 何処を見るでも無く、窓の外の誰もいない校庭を漂っていた視線が我に返るように戻ってくる。

 元の道筋を辿るように、再び椅子が半回転する。

 見れば、いつも通りの椎梛が俯きがちに診察台に座っている。


「命日の法要は?」


『朝比奈の家が取り仕切って、本家でやるみたい』


 突っ込むように問えば、どこか悔しそうに椎梛は答えた。

 朝比奈の家が取り仕切り、本家で行われる法要。

 要するに、朝比奈家の現家長に当たる椎梛の祖母、朝比奈佐和子さわこが行うという事なのだろう。

 佐和子は、椿が生きていた時も折り合いが悪かったから、樹も数度しか会った事が無い。

 そんな人が、椿の旦那、椎梛の父を差し置いて、三回忌を取り仕切る。

 その行為が、故人を悼むというよりも体面を気にしたものだという事は明らかだった。


「分かった。そん時は俺も行く」


 椎梛の気持ちを推し測り、樹はそう言った。

 そんな風に言って貰えるとは思わなかったのか、椎梛は「いいの?」とばかりに顔を上げる。


「お袋の世話も見てもらってるわけだしな。橋坂家から誰も行かないわけにはいかねぇだろ?」


 姪っ子のすがるような眼差しに、照れ臭そうに樹は視線を逸らし頭を掻く。


『……そっか、お祖母ちゃん元気?』


 椎梛も樹の気持ちを汲み取って、僅かに話をずらした。


「あぁ、相変わらずだよ。お前に会いたがってた」


 樹の母、椎梛の母方の祖母は、心臓を患っていて、以前から入院していた。

 それら入院費の一端は朝比奈の家が負担してくれており、空っぽになった橋坂家の維持も面倒をみてくれている。


『じゃあ、日曜日、帰りがけ寄ってもいい?』


 椎梛はその年頃の少女らしく、小首を傾げ、ねだるように訊ねる。

 椎梛にしては珍しい仕草だったが、それは彼女が本当に心を開いている証拠でもあった。

 完全に緊張を解き、少々気持ちを浮上させた椎梛は、約束を取り付けると、保健室を後にしたのだった。





 保健室を出た椎梛は、今度こそ帰ろうと教室へと足を向けた。

 よく考えれば、荷物を持って来ていればそのまま帰れたのにと僅かに後悔する。

 頼み事をしなくてはならないという、ただそれだけの事に、余程緊張していた証だった。

 別にこの後予定があるわけではない。

 だが、学校にいなきゃいけない理由もない。

 だったら、早く帰りたかった。

 しかし、その無意味な焦りに気をとられ、周囲に気を回していなかった椎梛は、教室の扉に手をかけたその時、荷物を置いてきた事を心底後悔する事になった。


「元気出してっ!」

「大丈夫だって」

「もう一回頑張ってみよっ!」


 聞こえたのはそんな在り来たりな慰め文句。

 そして、鼻を啜るような微かな響き。

 泣いている娘を慰める少女達。

 目にしなくても、聞いただけでそんな状況に予想がついた。

 だが、時既に遅し。

 椎梛は扉を音をたてて開いてしまっていた。

 一気に視線が集まる。


「あ、朝比奈さん……」


 誰とも分からず、気まずげに名を呼ぶ。

 そのせいで、互いに無視出来ない状態になってしまった。


『あ、えっと……』


 椎梛はこのシチュエーションに際して、なんと言ってよいか判らなかった。

 挨拶するのもどうかと思うし、だからと言って事情を知りたいとは微塵も思わない。


『……どうしたの?』


 それでも、聞くのが礼儀なのかもしれないと、有り体な台詞を吐いた。


「えっと……」

「……その」


 だが、詮索という選択は間違いだったらしい。皆一様に言い淀む。

 すると、集まった女の子達の真ん中から、まるで花が開いたかのように、一人立ち上がった。


「ううん……なんでもないの。心配しないで」


 そう言って、一歩近付いてきたのは島津茜だった。


「ちょっと落ち込む事があって……皆が慰めてくれていたの」


 茜は、答えなくても構わないのに、丁寧に椎梛に対応した。


「でも、大丈夫!もうすぐ文化祭もあるもんね、元気出さなきゃ!」


 彼女はまるで無理に自身に言い聞かせているかのように、力強く、頷きながら言う。

 椎梛は、何故文化祭だから元気を出すのかが、サッパリ解らなかった。

 寧ろ、真っ赤な目元で無理に笑う茜が痛々しいと感じていた。

 他人と関わらなければ、深く踏み込まなければ、無理する必要などないのに。


「朝比奈さんも、文化祭は一緒に楽しめるよね?頑張ろうね!」


 終いには、まるで椎梛が落ち込んでいたかのように、茜はそんな風に励ます。

 「文化祭は」という言い方は、体育祭時の時の事を含んで言っているのだろう。


『う、うん……』


 気が付けば、勢いに負けて、頷いていた。

 最終的には余計な約束までしてしまって、改めて、教室に戻って来た事を、椎梛は心底後悔した。

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