日常想起4

 期末試験は、夏休みに対する熱意のお陰か、怒涛のように過ぎ去った。

 抑圧から解放され、浮き足だっている生徒達はいつになく朗らかに笑っている。

 焼けつくような太陽が生徒達の跳ね上がろうとする鼓動を助長していた。

 椎梛は、全てのテストの返却が済んだところで、荷物を纏め、廊下を歩いていた。

 昼休み中の廊下は、夏の旅行計画や、部活の合宿話等に花を咲かせる人間で実に騒がしい。

 昼食用に既にパンも購入して来ている椎梛にとってその喧騒は迷惑以外の何物でもなく、早くくぐり抜けて、いつもの場所へと向かいたいところだった。

 あちらこちらから聞こえてくる弾む声に心で悪態をつきながら歩いていると、突然前に進む事が難しくなった。

 廊下の端から端まで、ひしめくような人の群れが蠢いていた。その様はまるで受験生の合格発表のようだった。皆の視線は一心に壁へと向いている。

 他の道を選べるならば、椎梛はまず間違いなく踵を返していただろう。しかし残念ながらここを通らないと階段には行けず、階段に行けなければ上にも下にも行けないのだった。

 仕方なく、僅かに空いた隙間をぬって、鞄を抱え突っ込んで行く。

 その道すがら、一体何の騒ぎだと窺うと、どうやら受験生の合格発表という印象はあながち間違ってはいなかったようだった。

 チラリと見上げた壁には、先日の試験の結果が学年の順位に沿って貼り出されている。

 けれど、例え騒ぎの真相が分かろうと、それにも興味が無い椎梛は、留まろうとする人の波を押し退けながら進んでいく。

 押しては戻ってくる肉の壁にやきもきしていると、ふと何かが手にまとわりついた。

 突然の事に、椎梛は抵抗する事も拒否する事も叶わなかった。

 まとわりついた何かを支点として、体が引っ張られる。


「大丈夫?」


『あ……有難う』


 島津茜だった。

 人混みに四苦八苦している椎梛を見つけた茜は、彼女らしい親切心で、引っ張り出してくれたようだった。

 丁度人の波のど真ん中に差し掛かっていた椎梛は、いつの間にか人混みを抜けた先へと救い出されていた。

 たかが人混みと侮るなかれ、人混みを抜けるにはコツがある。

 下手に逆らわず、波の動きを読み、先手をうってすり抜ける。そうすれば無駄な体力を浪費せずに済む。

 若しくは力業で突っ込むしかない。

 でも、日頃から極力他人と距離を置こうとする椎梛はそんなスキルを持ち合わせていなかった。


「結果見に来たの?あっ、……違うか」


 茜は、優しく笑ってそう訊ねたものの、直ぐに椎梛の手に抱き抱えるように鞄があることに気付いた。


『うん。ちょっと、ご飯を食べようと思って』


 本当は午後から授業に参加しないつもりで出てきたのだが、クラスメイトに「サボります」と堂々と言うわけにもいかない。

 いや、仲が良ければ冗談混じりで告げる事が出来るだろう。けれども椎梛にそんな仲の人間はいない。


「そっかそっか。でも、折角なら見ていったら?」


 茜は、自然体のお節介でそう勧めた。

 言われるまま見上げれば、結果の書かれた無駄に長い紙は、椎梛のすぐ目の前にあった。

 椎梛の名前は探さずともすぐ見付けられる位置に存在している。

 それを対して凝視するでもなく、椎梛はチラリと確認した。


「朝比奈さん凄いね!学年一位なんて」


 茜はにっこりと笑ってそう言った。ともすれば嫌味に聞こえるその台詞は、彼女が言うと不思議とすんなりと聞き入れられる。


『そんな事ないよ。私身体弱いから、頑張れるところで努力しないとって思ってるだけで……』


 言葉としてはキレイだが、茜に比べると椎梛のほうがずっと裏面的だ。


「んー、でもやっぱり凄いよ?だって一回だけじゃなくて、ずっと一位でしょ?」


『……うん、まぁ……ホントにそんなに褒めないで?勉強しか出来ないんだから』


 誉められるという事に痒さを感じて、椎梛は言葉を積み重ねる。

 でも、腹の中では、勉強なんて大して難しいモノじゃないのに、とか見下した事を考えている。

 人間なんていうものは、十代も後半に差し掛かれば、本音は全て胸の中に押し込み、建前で話すようになる。

 椎梛みたいに当たらず触らずでチョロチョロと逃げているような奴には余計に話す必要もないとするのが普通だ。


『私なんかより、島津さんのほうがずっと凄いよ……明るいし、可愛いし……』


 タイミングを逸してしまい、椎梛は完全に弱ってしまった。ただ切り抜ける為だけに言葉を探し、自身をディスカウントして口先で喋っていた。


「ホント!?なんか朝比奈さんに言われると嬉しっ……あっ」


 大袈裟に見える程の満面な、愛らしい笑みを浮かべて喜んだ茜は、突然何かに視線を奪われた。

 椎梛に向けられていた眩しいくらいの笑顔は、貼り付いたまま固まり、目線は椎梛をすり抜けた向こう側に一心に注がれている。

 今が好機だと思いつつも、あまりに突然な硬直が気になって、椎梛は茜の視線を追う。

 その先には、同学年のなんたらくんとかって持て囃されているサッカー部の少年がいた。彼は、別に此方に向かって来たわけではなく、友達とワイワイ騒ぎながら、試験結果を見に来たようだった。

 彼等一団は、自身の成績が高いわけはないと予想しているらしく、椎梛たちの前を通り過ぎていく。

 その姿を追う茜の瞳は、椎梛と話していた時より何倍も熱を帯びていて、頬も心なしか赤く染まっていた。

 そこまで見て、椎梛はやっと状況を理解した。


「あっ!あっ……ごっ、ごめんね。えーと、何話してたんだっけ?」


 数秒間、完全に心と視界を奪われていた茜は、はっと我に返って取り繕う。凄くあからさまだった。


『ううん。大した事じゃないよ。それじゃあ、ちょっと保健室行ってくるね』


 椎梛は、なんだか凄く微笑ましいものを見た気分で、そう言って軽く手を振った。


「え!?あっ、具合悪かったんだよね……ごめんね、引き止めちゃって」


『大丈夫。ちょっとだけだから』


「じゃあ、次の体育はお休み?私、言っとくね」


『有難う。お願いします』


 そう言いながらも、椎梛は既に人混みから離れようと歩き始めている。

 茜は余程動揺していたらしく、最初と最後で椎梛が違った行先を告げた事にすら気付かなかった。

 チラリと振り返れば、茜はもう椎梛を視界から外し、再びなんたらくんに見とれているようだった。

 次の授業の準備をしなくていいのだろうか、と椎娜は惚ける茜を見つめた。

 だが私なんかが気にするべき事ではない、と意識を茜から逸らし、椎梛は改めて屋上を目指す。

 もうすぐ夏休みが始まる。

 体育祭をやったら、試験をし、そしたら直ぐに夏休み。

 実に目まぐるしい。

 椎梛が旧校舎の屋上に行く事も、少なくとも1ヶ月はない。

 再びあの場所に戻る頃、景色は変わっているだろうか?

 ふと気がつくと、椎梛の手は、汚れでも落とすかのように、茜に捕まれたその腕を払っていた。




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