解禁






     ここからが


     本当の始まり・・・・・・






Scene4


 梅雨明けを待たずに、空は晴れ間を見せた。

 湿気も南風がさらっていき、暑いばかりになっていた。

 どうやら今年の暦は気が早いらしい。

 その日私は、朝から旧校舎の屋上にやって来ていた。

 鞄も持ったまま、制服を着て、教室に一度も立ち寄らずに真っ直ぐに来ていた。

 今日は彼との約束の日だった。

 彼が来ると言ったのは、四限目の昼休み前の時間だ。

 朝からぼんやりと過ごしていた私は、三限目にもなると、いくら日陰とは言え、暑さにうんざりしてきていた。

 ならば丁度良いと、私は校内に例の飲み物を買いに行く事にした。

 別に彼と会うのを楽しみにしていたわけではない。

 ただ人と会う約束なんて何年もしていなかったから、落ち着かない気分になってしまっただけだ。

 いつものように充分に空を見上げている事が出来ず、階下の景色にも、開いた本にも、大人しく定まっていてくれなかった。


「おはよー」


 そんな人の気も知らないで、彼は腑抜けた挨拶と欠伸をしながら、三限目終了の鐘が鳴って直ぐにやって来た。

 なんだか拍子抜けしてしまい、私はぽかんと口を開けて彼を見ていた。


「あれ?……今日は、そこにいるんだ」


 彼は、扉の横の僅かな日陰の下でレジャーシートを敷いて座っている私の姿を直ぐに見付ける事が出来なかった。

 いつもフェンスの近くにぼんやりと立っているから、思わずいつもの位置に視線がいってしまったのだろう。


「へぇー、なんかピクニックみたいだね」


 彼はへらへらと笑いながら私の元へと近付いて来る。

 彼との距離が5mより縮んだところで、買っておいたバナナオレを突き出した。


「あれ……?なんか怒ってる?」


『…………』


(別に怒ってない。そもそも怒る理由がない。)


 けれど、言われてみれば確かに、バナナオレと共に私の口先も尖らすように突き出されている気がした。


「んー、……ま、いっか」


(良くねーよ!?)


 彼は本当に一瞬だけ、考え込むような素振りをみせたかと思えば、本当にそれは一瞬でしかなくて、直ぐに、にへらっと笑った。

 そして、なんと私の直ぐ隣、一人用のレジャーシートの僅かに空いていた隙間に割り込むように入って来たのだ。


「ありがとう」


 すぐ耳元でそう言って、今更、未だ前に出されたままのバナナオレを取る。

 僅かに、手が、指先が触れた。

 顔が近すぎて、息をする事さえ戸惑われて、私は思わず顔を逸らした。

 カーッと、頬に熱が帯びてくる感覚がする。

 きっと私の顔は赤くなっているだろう。


(……なんだ、このラブコメ展開は。)


 自分の挙動に思わず呆れた。

 一緒についつい買ってしまったイチゴオレのストローを勢い良く破り捨て、ブチりと突き刺して、飲む。

 やっぱり甘い。

 いつの間にか、この糖分摂取が私の精神安定剤になりつつあった。


「ナルホドなー、シートとか敷けば制服汚さないで済むよね。うん、アンタ、頭いいね」


『…………』


 すぐ隣で、同じようにバナナオレを啜りながら、彼はペタペタとレジャーシートを撫でて、感心している。


(そんな事で褒められても嬉しくない。)


(と言うか、やっぱり汚れを問題視していたなら、早く対処しろよ……。)


『はぁ……』


 ちっとも掴みどころのない彼の反応に、私は思わず大きく溜め息を吐いた。


「あっ!今馬鹿だコイツって思ったっしょ!?」


 これ見よがしに吐いた息と共に頭を振れば、敏感に反応して彼は声を上げる。

 口では不貞腐れたような事を言っているが、何故か目はいきいきと輝いている。

 もしかしたら、息と共に小さく漏れた私の声を拾い上げたのかもしれない。


「まーーー。馬鹿って言われたら馬鹿かもしれないケド……いやいやいや、ちょっとお茶目なだけだって!」


 彼は勝手に一人で盛り上がっている。


(彼は、私と話がしたいのだろうか?)


 今更、そんな事を考えた。

 初めは、たった一度きりの偶然だと思った。

 次からは、ただの興味本位だと思っていた。

 でも、こうも何回も回数を重ねて、約束までして、距離も縮まって……じゃあ、今はなんて言い訳する?

 なんだか、意地を無駄にはって口を利かない事のほうが、制服が汚れるのに直に座り続けていた事より、馬鹿らしい気がしてきた。


「いいよ、いいよ。どうせ俺は馬鹿ですよーだ」


 彼は相変わらず勝手に腐っていた。

 初めから、今に至るまで、彼のスタンスは変わらない。


『私のほうが馬鹿だよ』


 総て受け入れてしまうような態度に、こちょこちょ考えているのは面倒な事の気がした。


「…………」


 私の声に、言葉に、今度は彼のほうが黙ってしまった。

 阿呆みたいに口をぽかんと開けて、大きな眼を目一杯見開いて、見事に顔だけで驚愕が表現されている。


(私もこんな顔をしていたのだろうか……)


 間抜けだな、と省みる。


「ぅ……あっ!そっ、そんな事ないって!つーか、馬鹿さ加減なら負ける気しねーし。って何言ってんだ?俺」


 突然我に返った彼は、天井の無い屋上中に響くような声でそう言った。


『ホント、何言ってんだろうね』


 皮肉を込めて、私はそう言った。

 彼は、苦笑した。

 私は、笑わなかった。


「あっ、そうだ。俺秘密兵器持って来たんだよねー」


 彼はポンッ、と手を叩き、よく解らない発言をしつつ、ごそごそと鞄を漁り始めた。そう言えば、今まで授業に出ていたはずなのに、今日は何故か鞄を持って来ている。その秘密兵器とやらを保持する為かもしれないし、このまま此処で昼食を食べるつもりなのかもしれない。


「じゃーん!」


 意味不明な効果音と共に出てきたのは、ポテトチップス[のりしお]だった。


『…………』


「あれ?反応薄っ!」


 再び無言になってしまった私に対して、彼はまた驚いた顔を大袈裟にして見せた。


『ポテトチップスとバナナオレってどうなの?』


 ジト目で見つつ、問い詰めてみる。


「それが合うんだなー。ビバ!塩分と糖分って感じよ」


 不敵に笑い、盛大な音をたてて袋を破る。

 そのまま一枚食べて見せてから、袋の中身を示した。

 黄金色に緑のドットが付いた丸く薄っぺらい物体がこちらに顔を覗かせている。


『……どうも』


 左手にあるイチゴオレに後悔しつつ、右手の指先で一枚つまみあげる。

 パリッと小さな音をたてて齧れば、途端に後を引く味が口一杯に広がる。

 暑さで失われていた塩分が、心地よく吸収される。

 でも、咽喉が渇く。


「どう?」


 追いかけるようにイチゴオレを口に含んだ私に、彼は期待の眼差しを向けてくる。


『胃がもたれそう』


 やっぱり、心地よい塩分の後に、急激に襲ってくる強烈な甘味は、ベストマッチとは思えなかった。

 一人用のビニールシート、並べられた飲み物とお菓子、晴天の空―――旧校舎の屋上は完全にピクニックの装丁を呈していた。


「怪我してる」


 ふと彼が、私のイチゴオレを握る左手を見てそう言った。

 そこには、先日数学のプリントで切ってしまった傷が、未だ包帯に痛々しく巻かれている。

 しかし、傷の具合は樹叔父さんの手当てのお陰もあって順調だ。包帯も指先を数周巻いている程度だし、傷口も膿むことなく、皮膚の中に埋没しようと、開いた箇所がくっつき始めている。


『そっちだって』


 私は、すかさず彼のまくられた袖口から覗く、肘に出来た傷跡、今はガーゼが当てられていて何傷かは判らないそれを、指摘する。


「あぁ、これは部活で……アンタも部活とかやってんの?」


『やってない』


「ふぅん。じゃぁ、よくこんだけサボってて留年になんないね」


『別にサボってない』


「サボってるじゃん」


『ちゃんと最低限やってる』


「ふぅん」


 そんな、ポツリポツリとした、無くても構わないような、取り留めの無い、他人行儀な、いまいち噛みあわない会話が続く。

 ここから、私達のコトバアソビが始まった。


「ねぇ、そう言えば名前なんて言うの?」


『シイナ』


 本当に今更な質問に私はそう答えた。


「へぇ、シイナさんね……シイナ何さん?」


『シイナが名前』


 どうやら、彼は私が苗字を答えたと思ったようだった。

 まぁ、よくある話だ。

 普通名前を聞かれたら苗字を答えるのが日本では通例だ。

 それに、シイナという苗字も実際によく存在する。

 それでも、私はひねくれているから、名前を訊かれたから、名前を答えたのだ。

 そもそも、私は自分の苗字、勝手に背負わされた家の冠というものが好きじゃない。

 言いにくいし。


「そっか……シイナさんね。うん、覚えた」


 彼はしつこく苗字を聞きだそうとはしなかった。

 ただ、呼称が必要だっただけで、身元が知りたいわけではないのだろう。


『さん付け、気持ち悪い』


「……意外に注文多いね」


『わざわざ面倒な会話してるんだから、云いたい事言う』


「はは……そっスか」


 淡々と、間髪いれずに返答する私に、今までのイメージとのギャップでも感じたのか、彼は苦笑した。

 しかし、何かがツボにはまったらしく、苦笑はそのうち大爆笑に変わる。


(さっぱり、理解出来ない。)


「くくっ……あ、そうそう、俺はカナ……じゃねぇや、ソータね、ソータって呼んで」


 笑いの間から返ってきた自己紹介。


『ん、わかった』


 涙目になって、何がそんなに可笑しいのか、笑い続ける彼、いや、ソータに、私は釣られる事無く平然と了承した。






 何回もの出会いを繰り返して、私達は初めて会話した。


 私はやっと口を開いた。


 何回もの別れを繰り返して、私達は初めて名乗りあった。


 見事に、大して広くない旧校舎の屋上に、人間関係の縮小図が模されていた。


 私が何故彼に頑なに口を開かなかったのか、何故口を開いたときに素直な自分を表現したのか、その理由は私自身も解らない。


 ただ自分の好きな場所で仮面を被って過ごすのが嫌だったからかもしれないし、彼が何度も懲りずに話しかけてきたからかもしれない。


 けれど、いつの間にか、私は口と共に心まで開いてしまっていた。






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