日常想起3
朝比奈椎梛は、高校に上がる際、入学が決まっていた学校を辞し、ギリギリになって今の学校を選んだ。
今の学校に来る為に、急遽実家から離れて独り暮らしを始めた。
学費を含め、全ての費用は親が払ってくれている。
その上で、授業をサボり、嘘ばかり吐いて生きている。
だからと言って授業を受ける事が嫌なわけではない。何故なら、誰かとコミュニケーションをとる必要がないからだ。
では、何故そんな授業を抜け出すかと言うと、それは人の中に身を置いている事自体が息苦しくなるからだった。
矛盾している。
けれど、変えなくてはという危機感もない。
「プリント配るぞ。ここは次のテストで出すからなー、ちゃんと押さえとけよー」
教室内は、日頃とはうって変わって静かで、皆真剣に教師の話に耳を澄ませている。
二週間後から期末試験に入るのでそれ故だろう。
また、今授業を行っている数学の
だからこそ、森永が教壇に立つ際は、先生も生徒もピリピリしてしまう。
しかしながら、椎梛は森永の事を悪い先生だとは思っていなかった。むしろ、生徒に質問を求める事の無いそのスタンスは好感がもてるとすら思っていた。
但し、教師としてその教え方が適切で解りやすいかどうかは別だが……。
「朝比奈さん」
ぼんやりと物思いに耽っていると、前の席の男子が椎梛の事を困った顔をして見ていた。
思わずぎょっとする。
実情は大した事ではない。前から順々に回って来たプリントを椎梛が一向に受け取らないので、声をかけただけの話だ。
けれど、コミュニケーションは一瞬が命とりだ。一つの態度、一つの発言で築いてきたものがあっさりと崩れてしまう事もある。ましてや、椎梛の様に目立たないように、深く関わらないように、外れないように、そんな事ばかり意識している人間からすれば、例えこんな些細な事でも誰かの印象に残ってしまう危険性のある出来事だった。
『あ、ごめんなさいっ、有難うっ……』
椎梛は、明ら様に慌て、プリントを受け取る。
切れかけていたスイッチが入り、目の前にフィルターがかかる。
"ぼーっとしていて、うっかりしてしまって慌てる女の子"を演出する。
「どうしたの、具合悪い?」
前の席の男子、
こんな時、身体の弱い少女という設定には救われている。
しかし、事はそれだけでは終わらなかった。
「ううん、大丈……痛っ!?」
突然指先に鋭い痛みがはしった。
瞬く間に紅い雫が粒になり、飽和して、流れ出す。
ポタッ、ポタッ、と音をたてて机の上にあった数式を紅く消していく。
慌てプリントを受け取ったせいで、手の中で紙がスライドされ、左手の人差し指の第二関節辺りが線を引いたように切れていた。
「あ、朝比奈さん!?大丈夫!?」
「キャッ!!」
丁度対面していた明斗が狼狽して声を上げ、後ろの席の女の子が口元を押さえ悲鳴を上げる。途端に波紋の様に恐慌が拡がっていく。
そのぐらい傷は痛々しいもので、実際本人が感じている痛みよりも見た目のほうが重症だった。
むしろ本人は飄々としていて、生きてるんだな……なんて、的外れな事を考えていたりする。
『あっ、ごめんなさい。プリント汚れちゃった……』
端の方が赤く染まってしまったプリントを血から遠ざけるように右手に持ち替え、後ろの子に頭を下げる。
椎梛の席は後ろから二番目なので、控えている子は幸い一人しかいなかった。
「いっ、いいから、それより……」
むしろプリントを渡された後ろの席の子のほうが顔を青くしている。
「朝比奈!保健室行きなさい。保健委員っ!!」
見兼ねた森永が場を収めようと声を張る。
ザワザワと言葉の無い喧騒がその一声で拡大を留める。
「はっ、はいっ!」
『あ、大丈夫です。一人で行けますから』
戸惑いと共に立ち上がった保健委員の行動を遮り、ハンカチで手をギュッと握りこむ。
血の被害は椎梛の教科書とプリントに数滴垂れただけであり、大規模な掃除の必要性はなさそうだった。精々、プリントを新しい物に変えれば済む程度だ。
「そうか、じゃぁ、早く行きなさい」
そう言って促す森永も口調こそ教師の威厳と冷静さを保っているが、少なからず動揺しているようで顔色は芳しくない。
『すいません、失礼します。プリント、新しい物に変えてください』
「あぁ、俺やっとくよ」
頭を下げた椎梛に、「気にするな」と前の席の明斗が端が赤くなったプリントを受け取る。
椎梛は皆に心配されながら、何の中傷も野次もなく席を離れる。
そして、「大丈夫?」「平気?」と口々にクラスメイトがかける声に、逐一笑みと礼を返しながら、教室を出た。
廊下に出れば、直ぐに退屈な授業から開放された騒動の余韻は、場を取り仕切る森永の一声で成りを潜める。
椎梛の流した赤い雫は、彼女の数学の教科書にだけ、その痕跡を残した。
『失礼します』
止血の為、左手でハンカチを握りこみ、右手で左手首を押さえていた椎梛は、ノックが出来ず、仕方なく肘でドアを開けた。
「どうしたー?また、サボりかー?」
椎梛の声に反応して、養護教諭である橋坂樹はそう言う。
彼のユルイ喋り方は、椎梛の無感動な口調と一緒で、椎梛に対してしか発動しない。
きっと、椎梛がいつもの通り一人でサボりに来たと思い込んでいるのだろう。
『紙で切った』
振り向きすらしようとしない樹に、ハンカチを握りこんだ手をわざとらしく突き出してみせる。
「はぁ?」
突然見せ付けられた血の気の失せた少女の手に、樹は呆れてそう言って、目にかかる前髪を払いのける。訝しげに顰められた眉が露わになった。
ハンカチを取り除くと、強く握っていた左手は感覚が乏しくなっていた。血も行き場を失って、傷の周りで固まり始めている。
「あーあ、ガッツリやっちまって……とりあえず、手、洗って来い」
『ん』
やはり養護教諭という立場は伊達ではない。
教室にいたクラスメイトや森永とは違って、樹は冷静に傷口の様子を見ると、さっさと指示を出す。
椎梛も彼が間違った事を言うとは思っていないので、素直に頷いて、部屋の隅に設置された洗面台へと向かう。
手を洗う最中、目の前の鏡に映し出された顔は、青を通り越して白くなっていた。ただ血を流した為なのだが、その顔色は完全に重症人のそれだ。
いくら頭は明瞭で冷静であろうとも、こんな顔色で血を流していたら、クラスメイトが心配するのもごく当たり前の事だった。
『――痛ぅ』
水道の水でジャバジャバと乾きかけた血を洗い流す。
水が傷口を刺激して、麻痺していた感覚が戻ってくる。
切った時よりも鋭い痛みが絶え間なく襲ってきて、椎梛は思わず声を漏らしていた。
「そりゃぁ痛ぇだろ。案外紙で切った傷はヒドくなるからな……ほれっ、手出せ」
凝固しかけていた血は、ごしごしと擦らない限り、簡単に落ちそうに無かった。
僅かに赤い跡が傷口を丸く囲むように残っている。
樹は、それを手際良くガーゼと脱脂綿で拭き取ると、消毒液をこれでもかと言うくらいふりかけた。
『!?んーーーーっ!!』
熱く熱せられた焼鏝を押し付けられたような痛みがはしる。
目を見開き、悲鳴を噛み締める。
樹は、そんな椎梛の様を見て、ざまぁみろとばかりににやっと笑った。
それから、化膿止めを塗り、ガーゼを当てて、包帯を巻く。
一連の動きは、動線に無駄が無く、実に鮮やかだった。
男性特有のがっしりとした大きな掌なのにも関わらず、動きは繊細で、あっという間に治療し終わっていく。
「お前はホント、意外にドジなんだよなー」
『…………』
ほかの事に意識が向いているだけだ、と言ってやりたかったが、実際問題ぼんやりしていて怪我している以上、言い返す事は出来なかった。
「ほい、終わり。面倒くさがらずにちゃんと包帯変えろよ。消毒もな」
『はい』
「あと、明日また診てやっから、寄れよ?」
『わかった』
指先の怪我は、手首まで巻き込むようにして、包帯でカッチリと固められていた。
椎梛は形ばかりの礼を付け足すように言い、不安定な丸椅子から立ち上がる。
「おい、ちょっと茶でも飲んでけ」
しかし、踵を返して扉に向かったところで、樹は戸惑いがちに椎梛を呼び止めた。
休み時間までは後二十分残っている。
サボり魔な椎梛だが、一応試験前の時期だし、血痕も残してきているのだから、戻ったほうが良いかなと考えていた。
「ほれ?座れ」
けれど、樹は椎梛が断ることなど有り得ないと決め付け、さっさとコーヒーメーカーに残っているコーヒーを二つ淹れ、椅子を示す。
そこまでされてしまっては断れない。
椎梛は、座り心地の悪い丸椅子を避け、端にある革張りの長椅子へと腰をおろした。
「ミルクと砂糖は?」
『いらない』
その都度の気分で毎回味を変える椎梛に、樹はいつものように訊ねる。
しかし、即答で返ってきた返事は意外にもブラックを御所望で、樹は開けかけていた砂糖の瓶を閉じた。
琥珀色のままの液体が入ったカップを受け取り、椎梛は一口啜る。
作り置きされていたコーヒーは温く、淹れたてに比べれば味は劣る。でも、樹は豆にこだわっているため、下手な喫茶店で飲むよりかは充分上等な味だった。
最近無駄に甘い飲み物を自分の意思と関係無く接種している為、甘いものは沢山な気分だった。
しかしながら、いくらいつでも美味いコーヒーが飲みたいからと言って、勝手にコーヒーミルやコーヒーメーカーを校内に持ち込み、学校の電力を使用するというのはいかがなものだろうか。
「もうすぐ夏休みだろ?」
椎梛がコーヒーに口を付けたのを見届けると、樹は自身の席に戻り口を開いた。
だが、確実に椎梛に話しかけているのは明らかなのにも関わらず、椎梛から目を背けている。
そんな樹の様子で、椎梛は何故わざわざ呼び止められたのか、引き止められたのか、察しがついた。
『その前に試験だよ。先生としてはそっちを心配すべきじゃない?』
なので、わざと話が本題から離れるよう、一際冷たく言葉を返す。
ゴクリとコーヒーを飲み込めば、苦味が口に広がった。
やっぱり、ミルクくらい入れればよかったかもしれない、今更後悔する。
「俺は保健師だ。試験なんて関係ねぇ。それに、こと試験に関してはお前は心配ねぇだろ?」
『そんな事無いよ』
チラリとしかこちらを見ようとしない樹に、椎梛はまた憎まれ口をたたく。
ズズズっと、互いにコーヒーを啜る音だけが室内に残った。
椎梛からは、樹が明らかに話の切り出しを避けられて苛立ち始めるのが見て取れた。組まれた足先が僅かに揺れている。
「チッ……面倒くせぇな」
探り合うような空気に嫌気がさし、樹は舌を鳴らした。
「椎梛、夏休みになったら実家に行けよ」
『わかってる』
とうとうとばかりに切り出す。
本題に入られてしまっては、もう話を逸らすのは容易くない。
「そんな事言って、春休み顔出さなかっただろ?」
『…………』
「はぁ……別に泊まれとは言わねぇから、せめて顔だけ見せて来い」
途端に黙り込む椎梛に樹は大きく溜息を吐く。
この話題になると決まって椎梛は表情を硬くし、心の内側に引きこもるようにして口を閉ざしてしまうのだ。
「親父さんだって心配してるだろ?」
『してないよ。仕事で飛び回ってて殆ど帰ってないって、ハナさんが言ってた』
一刻も早くお説教の場から逃げ出したい椎梛は、とっとと空にしてしまおうと、ゴクゴクと咽喉を鳴らしてコーヒーを流し込みながら、口を尖らせる。
「ぐだぐだ言うな。これは命令だ」
茶々以外はだんまりを決め込む椎梛に、樹はピシャリとそう言った。
これ以上は余計な言葉は受け付けない、そういう態度だった。
樹は、現在実家を離れて暮らす椎梛の面倒を全面的にみてやっている。謂わば保護者だ。
実際保護者に当たる人間は別にいるのだが、近所で暮らし、通っている高校に勤めている樹が面倒をみることで椎梛は今の生活をおくれている。
よって、十二分に世話になっている以上、いざとなれば椎梛は樹の言うことに従う外ない。
それでも、樹は充分過ぎるほど椎梛を自由にさせてやってはいる。
そして、椎梛もそう言った樹の立場や気持ちは解っていた。
『……ごちそうさま』
だから椎梛は不満げに、返事の代わりに礼だけを述べて、早々に保健室を後にした。
やっぱり、煮詰まりすぎたコーヒーは苦いばかりだった。
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