浸食
小さな染みは拡がり
やがて蝕み始める
Scene3
六月も半ばになると、季節は通常に回り出した。
先日の体育祭の時の暑さが嘘のように、厚い雲が立ち込め、糸のような雨が途切れる事無く降り続いている。
旧校舎の屋上にも、例に違わず梅雨の洗礼が降り注いでいた。
私はそんな中でも、屋上へと続く扉のある箱形の建物の部分の庇の下に、小さく身を丸めていた。
体育座りをした上履きの足先は、庇の保護の下に入りきれていない。
「雨でも関係ないんだね」
そして、彼は扉を挟んだ向こう側に座っていた。
彼は、あれからちょくちょくこの場所に姿を見せるようになった。
大体一週間に一回くらいだろうか。
彼は、例え私が一言も喋らなくても別に気にしていないようだった。
性懲りもなく毎度笑顔で現れて、明るく声をかけてきて、朗らかに独り言を繰り返して、最後には決まって「またね」と再会を匂わせる事を言い残していく。
初めは、到底理解出来ない振る舞いに、我が目を疑ったり、身体を強張らせたりしていたが、それも気にならなくなってきていた。
「そう言えば、この間の体育祭、見学してたっしょ?」
『…………』
私は相変わらず同じスタンスを保ち続けていた。
「体調悪かったん?」
『…………』
(別にそんな事はない。まぁ、あの暑さには少しやられたけどね。)
「それとも面倒かった?」
『…………』
会話なんて一つも交わしていないのに、不思議と彼は私の考えを感じとれるようになってきていた。
そして私も、いつからか彼の問い掛けに、声には出さないが、頭の中で応えるようになってきていた。
何かが確かに変わってきていた。
旧校舎の屋上は、私だけの世界ではなくなってきていた。
「でも、あそこでずっと見学してたほうが逆に辛かったんじゃない?」
『…………』
(まぁね。……て言うか、そんなに目立ってたのか、あの場所。失敗だった。)
彼の手には、今日もバナナオレ。
どうやら、好きなようだ。
そして、やっぱり私には何故かイチゴオレ。
霧雨だった雨は段々と強くなり、屋上の綻びに溜まった水も段々と幅を拡げ始めていた。
庇の保護が通用するのも後少しの時間だろう。
上履きの先だけで済んでいた被害は、靴下にまで侵食しつつある。
そろそろ引き上げ時だ。
隣に座る彼は、もっと深刻な被害を受け始めていて、灰色のズボンの裾はその色を濃くし始めていた。
しかも懲りずにまた直に座っている。
(ここに来る度に毎度毎度制服を汚していて困らないのだろうか?)
「くだらないって思うかもしれないけどさ……行事とか、学校生活とか、参加してみると楽しいよ」
『…………』
(大きなお世話だ。)
彼は一体何がしたいのだろうか?
私を更正でもさせる気なのだろうか?
学校生活云々と言うくらいなら、こんなトコに来なきゃいいのに。
(やっぱり大きなお世話だ。)
上履きを濡らした雨水は段々と染み込み、爪先を冷たく冷やしていた。
私はおもむろに立ち上がり、ポケットに入っていたコインを二枚取り出す。
私が突然動いたから、彼は驚いたようで、唯でさえ大きな眼を一際大きく見開いていた。
もしかしたら、私が怒ったとでも思ったのかもしれない。
目をしばたく彼に向かって、私はジェスチャーでイチゴオレを示し、一つ頭を下げて見せた。
お礼の意だ。
そして、握っていたコインを差し出す。
彼は私の顔を見、掌の上の二百円を見、もう一度私の顔を見るとほっとしたようにニカッと笑った。
「いいよ。好きでやってるだけだし」
『…………』
(それじゃ私が困る。貸しを作ってばかりは嫌だ。)
私は首を振って、更に小銭を突き出す。
「いいって……それに、コレ一個八十円だし。ぼったくりになっちゃうじゃん」
『…………』
(そんな事知っている。学内の自販機が割安な事くらい。)
私は再度頭を振り、いいから受け取れ、とばかりにコインを示す。
流石にここまでくると、頑なに言葉を発しないようにしている事が馬鹿馬鹿しくなってきた。
ただの意地でしかない。
少しの間、無言の睨み合いが続いた。
けぶるような雨の音だけが鼓膜を震わせていた。
しびれを切らしたのは彼のほうだった。
「……じゃあ、次会う時はアンタが買って来てよ。えーっと、多分来週の今日と同じ時間来ると思うからさ」
頭の中でカレンダーが広がる。
木曜日の五限。私のクラスは、英語。
今日は先生が出張で自習だったので、特に何も言わずに出てこれた。
けれど来週は普通に授業があるだろう。
なんで、私が必ずここに来られると決めつけているのだろうか。
(……まぁ、いいか。保健室にでも行くと言えば。)
僅かな思考の後、私は了承を示した。
と言うか、そもそも彼自体は大丈夫なのだろうか。
最近ちょくちょく来ているように思うのだが……もうすぐ、試験期間に入ると言うのに。
少し疑問に思ったものの、特に質問はしない。
私は、とうとうコインを引っ込めた。
雨に掻き消されながら、僅かに授業終了を告げる鐘が鳴り響いていた。
満足そうに笑んでいる彼に、私は一つ頭を下げて、またしても彼より先に屋上を出る。
校舎内に入っても、まだどことなく湿っぽい空気が漂っている。
屋外に居た時には気付かなかったが、上履きは勿論、靴下、スカートの裾、髪の先等結構濡れてしまっていた。
このまま教室に戻るわけにもいかなそうだ。
保健室に寄って、樹叔父さんにタオルでも借りよう。
半分物置に近い屋上の踊り場を離れ、私は階段を下りていく。
彼はまだ中に入って来る様子はない。
彼は、もしかすると私は喋れないと思っているのかもしれない。
別に私は、彼が嫌いとか、好きとかそんな事は思っていない。
ただ、住む世界が違い過ぎるから、
考え方が違い過ぎるから、
関わりたくないだけ。
それでも、私達は初めて、次に会う約束をした。
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