日常想起2

 グラウンドの隅、コンクリート張りの其処は、意外に暑い。

 コンクリートが熱を吸収しているのか、ただ単に今日が初夏というこの時期に相応しくないカンカン照りなせいなのか、理由は判らない。

 体育祭は残念ながら無事行われた。

 朝比奈椎梛は、きちんとした参加はせず、見学という形でその場に居た。

 高校生の体育祭は、小学生の運動会と以て異なる。

 後者は協調性を尊んでいるのに対し、前者は自己アピールの場にしか過ぎない。

 そんな場所に自ら乗り込んでいける程、椎梛は自分に自信がない。

 そのため、クラスの人達が集まる座席が設置されたその場所に、居座っていた。

 だが、辛抱強い彼女も、焼けつくような陽射しには流石に限界を感じ始めていた。

 屋根も何もないグラウンドは、騒音と騒動に煽られて、際限を忘れて気温が上昇していく。

 蒸し風呂とまではいかないが、きっとこの周辺だけ相当な温度になっているだろう。


「ただいま!」


『お疲れ様』


 借り物競争に出場し終えた体育委員の島津茜が、わざわざ高温多湿な椎梛の元へと戻って来た。

 彼女は責任感が強く、面倒見がいい。

 今も、他のクラスメイト達が少しでも日陰と水場を求めて校舎の方へと向かって行くのに対して、真っ直ぐに此方へとやって来たのは、椎梛の事を気遣ってだ。


「朝比奈さん、大丈夫?ここじゃ暑いでしょ?救護テントに居てもいいよ?」


 甲斐甲斐しくそう言う茜。

 拭った汗がキラリと輝いた。

 茜は、見た目も愛らしい上に、容姿にきちんと気を配っているのが見て取れる。

 汗をかいても溶けないナチュラルメイクも、キューティクルの存在する艶やかな髪も、彼女を控えめに、それでいてしっかりと引き立てている。


『有難う。じゃあ、そうさせてもらうね』


 椎梛は彼女の気遣いに飛び付くようにそう言った。

 いつもの椎梛なら、「大丈夫、ここで応援してるから」とイイヒトぶって言うところだが、もう堪えられなかった。

 それに、意地を張ってこのままここにいても、彼女を心配させるだけだ。なんていう言い訳を心の中でこっそりとする。

 茜は、「うん、そうしたほうがいいよ」と早口に言い残すと、また踵を返し、走り去ってしまった。

 遠くの方で、他のクラスの体育委員と思われる娘が彼女を呼んでいるのが見えた。

 体育委員は、いわば体育祭の主催者だ。体育委員に自ら望んでなるような人は、元々活発な人が多い。そのせいか、競技にも沢山参加し、準備もして、と忙しい。

 茜は、そんな状況でも一切辛い顔を見せずに頑張っている。

 今だって他のクラスの人とあんなに楽しそうに話している。

 その姿に椎那は素直に感心した。

 けれど、なんでそんな事に必死になって努力しているのか――――椎梛にはそれが理解出来ない。

 去って行く茜の背中を見送りきると、椎梛はストンと表情を落とした。

 そして、ゆっくりと目眩を感じぬよう注意しながら立ち上がり、お言葉に甘えて、救護テントへと足を向ける。

 熱く熱せられた身体は涼しさを求めて、日影へと向かって行く。時間潰しも兼ねて、わざわざ遠回りしてみたりする。

 やがて、先程まで居た場所から丁度グラウンドを挟んだ反対側に位置する救護テントへと辿り着いた。

 テント内は殆ど人がおらず、やけに暑い日であるにも関わらず、流行っていない。

 中には、一人だけ、この暑いのに自身の威厳を示すように白衣を羽織った二十代後半の男性が腕を組み、パイプ椅子に深く座っていた。


『………………』


 椎梛は何も言わずにスタスタとテント内に踏み込むと、にわか造りの寝台に腰をおろした。


「なんだ……お嬢様か」


『その呼び方やめて』


 椎梛の気配に気付いて、白衣の彼は振り返る。


「茶、飲むか?」


『うん』


 手近にあった湯飲みに給水器から麦茶を淹れ、彼は差し出した。

 椎梛はそれを素直に受け取る。

 彼は、唯一この学校の中で椎梛が素で接せられる人間だった。


「折角体育祭出席したっつーのに、結局サボッてんのか?」


 救護テントと先程迄椎梛がいた暑いコンクリートの上は大体対面に位置する。

 ならば、テントの中に居た彼からは、熱く突き刺す陽光に四苦八苦していた椎梛が見えていた事だろう。

 にも関わらず、彼はわざとそんな事を言ってくる。


『違うよ。元々出る気は無かった。ただ単位の為に来ただけ』


 椎梛は、一回りも歳が離れている彼に向かって、乱暴にそう言い、お茶を啜る。

 喉を通った冷えた麦茶はその温度を保ったまま胃の中に落ちていく。

 生き返るようだ、と言うのはこんな感覚なのだろうが、今の椎梛にとっては少し冷え過ぎている気がした。


「まー、イイケド。でも、本当我儘だな、お前は」


 椎梛がどんな事を言おうと、彼は頓着せず、どうでもよさそうに前に向き直り、腕を組み直した。

 養護教諭の橋坂はしざかいつき

 彼は椎梛の叔父だ。

 椎梛の母の弟に当たる人だった。

 一緒に暮らした事はないし、最近まであまり会っていなかった。

 だが、彼はとても奔放で、気兼ねせずに接せられる人だった。


「高校は好きな所に行きたい……独り暮らししたい……その次は体育の授業は受けたくないか……お蔭でこっちは完全に職権濫用、その上公私混同だっつーのに」


 樹は、椎梛から目を逸らしたまま、ぶつぶつとぼやく。

 グラウンドでは、男子のみが出場する騎馬戦が行われていた。


「キャーーッ!!」

「頑張ってーーっ!!」


 着々と騎馬が減り、決着が目前に迫っていると言うのに、グラウンドを取り囲む女の子達はどんどん白熱していく。


『五月蝿い』


 ぽつりとそう呟き、椎梛は寝台に横になる。

 寝台はコンクリートに比べれば心地好く冷えていて、火照った体を冷ましてくれる。


「寝んのか?」


『うん……ちょっと横になる』


「じゃあ、ちゃんとタオルケット掛けとけ」


『ん』


 言われた通りに、手近に畳んであった花柄のタオルケットを引き寄せる。

 なんだかんだ言ってても、樹は椎梛に優しかった。

 甘ちゃんな癖に社会に適応出来ない椎梛に、上手に目をかけて生かしてくれる。

 高校の養護教諭として立場が適しているかどうかは判らないが……。


『ねぇ?今何処が勝ってんの?』


 テントの白く黄ばんだ天井を見つめ、一喜一憂する歓声に耳を傾けながら、椎梛は問う。


「あー?お前見てたのに知らねーのか?」


 樹も、椎梛と同様、椎梛に目を向けず話している。

 暑さに滅入っている姿をしっかりと見ていたんじゃないか、と椎梛は樹を密かに睨んだ。


「今の騎馬戦で青が生き残ったら逆転トップ」


 僅かに口を尖らせ、黙り込んだ椎梛に向けて、そんな素っ気ない答えが返ってくる。

 椎梛の学校は、一学年6クラスある。

 体育祭も紅白に分かれるのではなく、縦割りで、紅、白、黄、青、桃、緑の六色のチームに分かれて競うという形式をとっていた。

 2年A組に属している椎梛は、紅組だ。


『ふーん』


「お前んとこは3位だな。……あっ、青が勝った」


『ふーん』


 自ら訊いたにも関わらず、椎梛は一貫して興味の無い返事を返す。

 一際大きな歓声と、つんざく様な黄色い声が二人の会話を断ち切った。

 椎梛はそれに乗じて、軽く目を閉じた。

 瞼の裏側は、長時間直射日光に晒されていたせいか、赤く脈動していた。

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