邂逅






      一時の邂逅


      それは布石となる






 旧校舎の屋上から見える景色は、今日も平坦だ。


 晴天の空もいつもと変わらぬ広さで、眼下で動く人間も、手近にしか目を向けない。


 私は、今日も蚊帳の外から、そんな小さな世界を見下した気になっている。


 ぼんやりと、どこに焦点をあてるでもなく、そこから見える遥か下の裏庭の土を眺めている。


 あと少し時計の長針が動けば、高らかに鐘が鳴り、人の気配は失われるだろう。


 学校という組織は、社会の縮小図だ。


 上下関係があり、タイムスケジュールで動く。


 まぁ、そもそも社会に出る前の準備として学校に通うのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが……。


 でも、同時に学校という場所は、社会とは隔絶された特別な独立した空間でもある。


 四限目を開始する鐘が鳴った。


 すると、まだ校舎外に何かしらの理由で出ていた生徒達は、次の本鈴が鳴る前にと、校舎の中に慌ただしく入っていく。


 私はそんな景色をやはりぼんやりと眺めている。


 倣うわけでも、踵を返すわけでもない。


 確か次は英語の授業だっただろうか?


 それとも現国?


 まぁ、どちらでもよい。


 サボりとか言うような積極的な行動をとっているつもりはなかった。


 ただ、心と体が動かないから、留まり続けているだけだった。


 これが、この一年間で作り上げた私のスタンスだ。


 私はこうして、このままあと残りの二年間を過ごしていこうと思っていた。


 けれど、その日は少し違った。



 いや、その日から少しづつ私の世界は、私だけの世界は、変わっていってしまった。






Scene 1



 背後で軋むように扉が鳴った。

 私はその音に思わず身を硬くする。でも、その場を離れて隠れようとはしなかった。

 咎められても構わないと思っていた。

 けれど、ゆっくりと開いた扉から現れたその人は、好意的に私に近付いて来た。


「おっ!?……おはよう」


 彼は、そうやって当たり前のように私の世界に割り込んできた。


『!?……』


 反射的に振り向いてしまったものの、相手をする気にはならなかった。

 私は彼を識っていた。見た事があった。けれど決して知り合いではない。


「へぇー、ここって立ち入り禁止じゃないんだ?」


(いや、立ち入り禁止だし……。)


 嫌でも耳に入ってくる雑音に、眉をしかめて顔を逸らした。

 私は、屋上の唯一の出入口である扉から真っ直ぐ直線上にある、錆びて赤く変色したフェンスの前に立っていた。


「入れるとは思わなかったなー。穴場だね」


 彼はそう言いながら、私の背後まで近付いて来た。

 どこまでも馴れ馴れしいその態度に、私は無視を決め込む事にした。



 旧校舎の屋上は、本来誰も立ち入れない場所だった。

 そもそも旧校舎自体が実験室や資料室等の限られた箇所しか使われておらず、人の出入りが少ない。一切使われていない空き教室が殆どだった。

 建物も旧と呼ばれるだけあって老朽化していて、例に漏れず屋上もいつ崩壊してもおかしくない状態だ。

 そんな場所を学校側が封鎖するのは、ごく自然な話だった。


「サボるには最高な場所じゃん。アンタ、凄いね!」


『…………』


 私がいくら嫌悪を全身で表そうが、彼は話し掛けてきた。

 私がここに居られるのは、別に私の力ではない。私がこの屋上を見付けたその時にかけられていた南京錠は、それとなしに触っただけで脆くも崩れてしまったのだ。


「んー、今日もいい天気だなー」


『!?』


 彼はそう言うと、事もあろうにごろりとその場に横になった。

 灰色の制服の足が、顔を背けている私の視界にも入り込んできた。

 思わず声を出してしまいそうになって、ぐっと飲み込む。

 此処は、私が踏み込む迄のその間、少なくとも何年かは放置され、風の赴くまま朽ちていた。そのため、床のコンクリートは所々剥げていて、フェンス等の鉄製の物は赤く錆び、場所によっては今にも崩れてしまいそうな不安定な状態になっている。

 そんな場所に、彼はどっしりと制服の尻を堂々と付けたのだ。灰色の制服は確実に黒か白に汚れている事だろう。明日だって同じ制服を着るんだろうに、ちっともそんな事に頓着していないのだから、思わず驚かずにいられなかった。

 そのまま、何も動かない時がゆっくりと進む。

 どうやら、彼はこのまま一時間はこの場所に居座るつもりのようだった。

 彼が此処に居続けるつもりなら、私は去ろうかと思い――――やっぱり止めた。

 先住民であるはずの私がすごすご追い出されるというのはおかしいような気がする。少しの間だけ我慢すれば、きっと彼のほうからここを去って行くんだろうし。


「昼寝日和だな」


 微動だにせず、置物のように突っ立ったままの私に、彼は盛大な独り言を投げ掛けてくる。

 言う通り、空は雲一つない晴天だった。陽射しは暑く、風は涼しい。

 季節は春。

 五月のゴールデンウィーク明け。

 学校内は新学期が始まり丁度一ヶ月が経った頃。

 入学したばかりの一年生は大分学校に慣れ始め、三年生はとうとう受験になってしまったと頭を悩ませ、私を含めた二年生は宙ぶらりんな立場に中弛みを始める、そんな頃。

 クラス替えが行われた教室内には、未だ残る余所余所しさを押し隠した、にわか造りの馴れ合いが繰り広げられている。

 只でさえ人付き合いが苦手な私としては、そんな環境は勘弁願いたかった。


「アンタは、いつからここにいんの?」


『……』


「学年は?」


『……』


「授業出なくていいの?」


『……』


 答えない。

 それでも懲りずに話し掛けてくる。


(どういう神経をしているのだろう?)


 視界の端に見切れるように入り込んでくる顔は、何故か怒ったり、呆れたり、諦めたりする様子はない。

 茶色に染めた柔らかそうな髪。黒くはないが健康的な血色の良い肌。大きな眼。薄い口唇。スラリと長い足。

 どれをとっても私のもっていないもの。願っても手に入らないものだった。

 そんな彼とこんな私が、こうして出逢ってしまったのは偶然、運命の悪戯、一時の過ちに過ぎない。

 明日になれば、いや、数時間もすれば、彼は私の存在すら忘れてしまうだろう。

 だから、言葉を交わすべきではないのだ。


「でさー、数学の森永が言うわけよ。高校生にもなって大人に『勉強しろ!』とか言わせるなってさー」


 その内、彼はとうとう一人で、さも返事が返ってきているかのように話し始めた。

 私は、顔すらそちらに向けず、彼の声を雑音としてすらとらえず、ただ青い空と遥か下の地面を見続けた。

 昼休みを告げる鐘が鳴ると、私は踵を返して食事を摂りに屋上を後にした。

 彼は、喋り疲れたのか、自分のブレザーを丸めて枕にし、眠っており、私が立ち去った事に気付いていないようだった。

 戻って来た時には、そこに彼の姿は既に無かった。

 彼はもう来ないだろうと思った。

 私は一言も喋らず終いだった。


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