6. 観覧車にて
僕がK臨海公園駅についたのは、約束の時間の10分ほど前だった。
駅前の案内図で確認してから、公園のメインゲートへと向かう。
メインゲートの前には既に汐里さんらしき人が立っていた。
僕に気づいたのか、こちらに向かって大きく手を振ってくる。
駆け足でメインゲートへたどり着くと、汐里さんは僕を見て安堵の表情を浮かべた。
「ああ、良かった。無事にタクさんが来てくれて。ここまで、何か変わったことはありましたか?」
「いえ、僕のほうは特には。すみません、待たせてしまったみたいで」
「気になさらなくていいですよ。私が早く来すぎただけですから」
そう言うと、汐里さんは僕の手を取って微笑んだ。
突然の柔らかな温もりに思わずどぎまぎしてしまう。
「では、行きましょうか」
汐里さんは僕の手を握ったまま歩き始めた。
僕の隣を歩く汐里さんは、今まで見た印象とは違って何か凛とした空気を纏っているように感じた。
よく見ると服装も今日はブラウスだけでなくスカートも靴も全てが白で統一されている。
「あの、どこへ行くんですか?」
僕が尋ねると、汐里さんが「あちらです」と、前方を指差した。
「観覧車……?」
汐里さんが指差した先には、イルミネーションに彩られた大きな観覧車が見えた。
「はい。出来るだけ二人きりになれて、人が来ないところがいいと思いましたので」
汐里さんに他意は無いのは十分わかっている。
しかしこんな綺麗な人に言われたら、わかっていてもやっぱりちょっと平静ではいられない。
僕の動揺を知ってか知らずか、汐里さんは何事もないように観覧車を待つ列に並んだ。
僕がチケットを買いに行こうとすると「もう用意してあります」と言って、チケットを二枚バッグから取り出した。
10分ほどして、僕達の番が回ってきた。
観覧車のゴンドラはゆったりとした速度で上空へと向かっていく。
僕と汐里さんはゴンドラの片側に並んで座り、今まで地上で見ていた光景が徐々に眼下へと移っていくのを見ていた。
「……汐里さん、儀式というのはいったい?」
僕の問いに汐里さんは微笑んだ。
「もう、始まってますよ」
「え……どういうことですか?」
「タクさん、私が用意して欲しいとお願いしたものはお持ちいただけましたか?」
「は、はい。ちゃんとここに。……普段身につけている布を糸で縛ったものを3つ――」
しかし、汐里さんは僕が取り出したものを見て困ったように首を傾げた。
「おかしいですね。私がお願いしたものはあと2つあったはずなのですが」
「ええ!? そんなはずは……。汐里さんから言われたものは確かにこれだけです。これ以外に、いったいあと何が必要だと言うんですか?」
「んー、覚えてないですか? 私がタクさんに伝えたのは――」
汐里さんが再び微笑む。
「黄色の蝶ネクタイをして、肩にオウムを乗せて来てください、です」
一瞬、汐里さんが何を言っているのか理解できなかった。
冗談にしてはひどすぎる。僕にとっては命が懸かっている状況だというのに。
「汐里さん、冗談だとしても僕はそんなことは聞いた覚えはありません」
僕の抗議に、汐里さんは困惑した表情を浮かべた。
「いいえ、私は確かにタクさんに伝えました。でも、タクさんはそれを聞いていません。これは、私の立てた仮説が間違っていなかったということでいいでしょう……」
もう、汐里さんが何を言っているのか本当にわからなかった。
「まずは、論より証拠ですね」
汐里さんは、バッグからスマホを取り出すと、何かのアイコンをタップして僕に画面をみせた。
そこに映っていたのは、僕だった。
画面の中の僕は、ハンカチを糸で何かの形にする作業に没頭している。
その時、画面から『これから、少しの間タクさんを悪いものから遠ざけるおまじないの歌を歌いますので、気にせずその作業を続けてください』という声がした。
汐里さんの声だ。
その数秒後、歌が流れ始めた。
例の、何か西洋の民謡のような不思議な旋律の歌だ。
歌が流れ始めて間もなく、画面の中の僕の挙動に変化が現れた。
作業する手元がおぼつかなくなり、頭が何度もガクっと下へ傾く。
必死に耐えようとしているようだが、流れる歌のトーンがさらに上がると、ついには机の上に突っ伏してしまった。
その後、歌は数十秒ほど続き止まった。
『……タクさん、タクさん? 聞こえてますか?』
聞こえてくる声に、画面の中の僕は全く反応する気配がない。
『タクさん、それではとても大事なことをお伝えしますね。約束の場所に来るときは、黄色の蝶ネクタイをして、肩にオウムを乗せてきてください』
それでも、僕は全く反応せずに寝息をたてている。
少し時間をおいて、声が流れた。
『……おやすみなさい、タクさん』
汐里さんが動画を止めた。
「汐里さん、今の動画はいったい……!?」
「タクさんに聞かせたのは、魔除けではなく本当は眠りに誘う呪歌です。今、動画で見た通り、私はタクさんに必要なものを確かに伝えました。でも、その時は既にタクさんは眠ってしまっていたので、その言葉を聞いていません」
「……どういう、ことですか?」
――ア、レ?――
「私の立てた仮説では、あなたとタクさんは表裏一体の存在です。タクさんが見聞きしたことは、全てあなたが自分で見聞きしたものとして共有されてしまうため、口裏を合わせたり嘘をついて出し抜くことはできません。だから、私はタクさんに意識させずに『ここに来ない』状況を作る必要がありました」
「なぜ、そんなことを……」
――ボク、ワ――
「全ては、タクさんにも知られずに、『あなた』だけをここに呼び寄せるためです。私がタクさんが眠った後におかしな条件を伝えたのは、万が一タクさんの意識がない常態でも、あなたとタクさんの意識が共有されていないかを確認するためです。もしも意識の共有が可能であれば、私の意図が悟られてしまうかもしれません。そうなれば、あなたはここに現れなかったでしょう」
――ダレ、ダッケ?――
「私、あなたが来てくれて本当に嬉しかったんですよ。もしあなたが約束の時間に現れなかったら。……あるいは、もしあなたが黄色の蝶ネクタイをして、肩にオウムを乗せてきたらどうしようかと」
汐里さんが微笑んでいる。
しかし、今は柔らかな空気をまとってはいない。
何か、真綿を押しつけられているような圧力を全身で感じる。
「待ってください! 確かに、ちょっと眠ってしまったかもしれないですが、その後、ちゃんと起きたんですよ。だから、僕はここに来たんです」
僕は必死で身の潔白を訴えた。
しかし、汐里さんは首を横に振る。
「今月の通信量が上限に達してしまいそうで心配ですが……あの通話、実はまだ繋いだままなんです」
そう言うと、汐里さんは、再び僕にスマホの画面を見せた。
画面には、机に突っ伏したまま寝息をたてる僕が映っていた。
「幸いなことに、タクさんの部屋の壁の時計も映っていますね。時間は……8時22分、ちょうど今です。タクさんはぐっすりお休み中のようですが……だとしたら、私の前にいるあなたは、いったい誰なんでしょう?」
「そんな……僕は、僕で……」
頭の中で、何か記憶が渦を巻くように回りだした。
――ボク、ジャ、ナ、イ?――
「大丈夫ですか? ずいぶんと混乱がお顔に出てしまっているようですよ」
汐里さんが、正面を見つめてつぶやいた。
「何の、コト……」
その時、汐里さんが、すっと前方を指差した。
「ねぇ? そこのあなた」
ゴンドラの向かい側の席の窓には、指を突き出した汐里さんが映っている。
その隣に映っている僕……僕の、――僕の顔は、出来損ないの粘土細工のように、醜くボコボコと膨らみ、ひしゃげていた。
「ウワアアアアアアアッ」
その瞬間、ひどい耳鳴りと、視界の激しい明滅が巻き起こった。
「助ケて、タスケてくださイ! シヲりさんっ」
汐里さんの腕にすがりつき懇願する。
しかし、汐里さんは首を横に振った。
「あなたは、タクさんと同じ意識を持っています。あなたにいくら言葉を尽くしても、自身の存在を認めることはないでしょう。だから、私はあなたが認めざるを得ない状況を作りだすことにしたのです」
「ソンナ……ソンナ……」
汐里さんの腕を掴んだ指先が黒く変色し、塵のように砕けはじめた。
「もしかしたら、あなたには悪意なんてなかったのかもしれない。でも、『表』が2つ同時に存在し続けることはできません」
僕の肩に、汐里さんの手のひらの温もりを感じた。
「どうか、タクさんと対なすものとして、あるべき場所へと還ってください」
ボロボロと崩れていく視界の中で、最後に慈しむような表情の汐里さんが見えた。
やがて、視界は黒く塗りつぶされ、音も消え去り、僕は、僕ハ――
ボクハ………………。
……。
――どこかで音がする。
何か、騒がしい音楽……。
着信音!?
僕は弾かれたように机から顔を上げた。
音は目の前のスマホから流れていた。
画面には「汐里さん」と表示されている。
慌てて通話をタップした。
『もしもし、タクさんですか? 連絡が遅くなってしまってすみません』
連絡? 何の………。
時計を見ると、夜の21時5分を指していた。
しまった、約束の時間!――
「すみません! なぜか知らない間に寝てしまっていたみたいです。今からでも向かいますから」
急いで着替えを探す僕の耳に、汐里さんからの意外な言葉が飛び込んできた。
『タクさん? 待ってください。えーとですね、もう、たぶん大丈夫だと思います』
「え、それって……」
『はい。タクさんを悩ませていたものは消え去りました』
その後、汐里さんは今日起きた出来事を全部話してくれた。
作戦のためとはいえ、無断で眠らせたことを汐里さんはしきりに謝っていたが、僕には怒る理由もなかった。
最後に、僕は少しだけ気になっていたことを汐里さんに尋ねた。
それは汐里さんが歌った不思議な力のある歌の正体についてなのだが、汐里さんは、セイレイとバンブツのチカラをどうとか――と、ゴニョゴニョ話しはじめたものの、結局は「内緒です」といって、それ以上は教えてくれなかった。
※※※
11月の午後の公園は、急速に太陽が西に傾きはじめていた。
僕は、公園の中のベンチの1つに独りで座っている。
あれから1カ月あまりが過ぎた。
あの日以降、僕の周りでおかしなことは起こらなくなり、もう1人の「僕」に悩まされることはなくなった。
しかし僕は今、別の問題を抱えている。
手の中のスマホの画面には「汐里さん」の文字と電話番号が表示されている。
あとは「通話」ボタンを押す、だけなのだが――。
この番号はあの緊急時に汐里さんから教えてもらったもので、汐里さんにとっては僕を助けたい一心からの行動だったのだろう。
だから汐里さんの善意につけ込んでこのまま電話なんてするのはフェアじゃないし、そんなことをしたらたぶん嫌われるだろう――そう思うと、なかなか実行に移すことが出来ずにいた。
いや、仮に嫌われはしないとしても、3つも年下じゃそもそも相手にもしてもらえるかどうかも……。
僕は散々迷ったすえに、結局、制服のポケットにスマホを突っ込むと大きくため息をついてベンチから立ち上がった。
「あーあ、どっか寄り道でもして帰るか――」
僕の悩ましい日々は、まだ当分は終わりそうにない。
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