5. 誰そ彼時
汐里さんと喫茶「アスカ」で会ってから、1週間が過ぎた。
あのコインの御守りは、本当に肌身離さず身に付けたまま生活している。
そのおかげなのだろうか。あれ以来、僕の周りに「僕」は現れていない。
汐里さんに一度現状を報告しようか――そんなことを考えていたころだった。
その日は学校の委員会活動があり、下校時間を迎えるころには既に太陽は大きく西に傾いていた。
駅から電車に乗り、数駅先で降りると僕は急ぎ足で家へと向かった。
その時には太陽はさらに傾き、辺りの景色は赤く染められていた。
僕は一刻も早く家にたどり着きたい思いで、普段は途中に上り坂があるという理由から、あまり使わない近道へと方向を変えた。
坂道にさしかかり、一気に登ってしまおうと踏み出す足に力を込めた時だった。
左手がふっと軽くなり、次の瞬間、すぐ横のガードレールから、ガチっという鈍い音がした。
音のしたほうを振り返ると、地面に白い革の袋が落ちていた。
「しまった」
慌てて拾い上げ、再び左手に結ぼうとして気がついた。
丈夫そうな革の紐が、引きちぎれている。
「どうして?……」
何か嫌な予感がして、革の袋を手に握ったまま再び坂道を上ろうとした時だった。
数十メートル先の坂道を上り詰めた先の電柱のところに、ぼんやりとした人影が見えた。
その人物はこちらに背を向けたままその場に立っている。
僕は足を止めて目を凝らした。
視界が夕陽に染め上げられていたためすぐにはわからなかったが、その人物は僕がよく知っているオレンジ色のパーカーを着ていた。
不意に体中の毛が逆立つのを感じた。
パーカーの人物はそこに立ち尽くしたまま、動く様子はない。
――今なら、まだ距離がある。
そう思い、後ろへ下がろうとした時だった。
その人物の頭が、ゆっくりとこちらへ向かって振り返り――。
――駄目だ、見るな!
僕はその場できびすを返して走り出した。
振り返らずに普段使っている道へ戻り、全力で家と向かう。
玄関の鍵を開けて中へ入ると、家の中には人の気配がなかった。
そういえば、今夜、父と母は親戚のお通夜に行くと言っていたことを思い出した。
僕は内鍵とチェーンロックを掛けると、2階の自分の部屋へ駆け上がった。
「汐里、さんに、連絡を……」
荒れた息のまま、スマホでメールを打とうとするが、指が震えてうまく打てない。
もどかしいまま何度も打ち直そうとしている時、突然スマホの着信音がなった。
「汐里さん!?」
それは汐里さんからのメールだった。
『タクさん、もしかして今、何かよくないことが起きていませんか?』
『汐里さん あいつが出ました たった今 うちのきんじょです』
『やはりそうでしたか。接触は?』
『してません 顔もみてません すぐににげて いまはうちの中です』
『タクさん、落ち着いてくださいね。今から対処の仕方をお伝えします』
汐里さんっ。どうか、はやく、はやく――。
その時、階下でドアを開けるような音がした。
「ウソだろ? チェーンロックだって掛けたはずじや……」
耳を凝らすと、その何者かは階下を徘徊しながら、家の中のドアを手当たり次第に開けているようだった。
『汐里さん なにかがうちの中に たぶんあいつです いま 階段を上ってくる音が』
『タクさん、部屋に鍵はかかりますか?』
『いま かけました でも もうへやのまえまで』
部屋のドアノブが、ガチャ、ガチャと音をたてた。
その音は、ドアの向こう側の人物の不興を表すように、次第にドアが軋むほどに激しくなっていった。
『だめです もう破られる』
その時、再び汐里さんからメールが着信した。
『090*******』
電話番号らしき数字だけが書かれている。
数字をタップすると「通話」ボタンが現れた。
祈るように、ボタンを押した。
『もしもし、タクさんですか?』
汐里さんの声が聞こえた。
「汐里さん! どうしたらいいですか!?」
『タクさん、通話をスピーカーにして、ボリュームは出来るだけ大きく』
「は、はいっ」
僕は汐里さんの言葉通りに通話をスピーカーモードにしてボリュームを最大に上げた。
不意に、スピーカーから清浄な歌声が流れはじめた。
これは……汐里さんの、声?
それは、どことなく西洋の民謡のような朗々とした中にも哀切が感じられる不思議な旋律だった。
その旋律を汐里さんの澄んだ歌声が奏でると、今まで張り詰めていた部屋の空気が、すうっと軽くなっていくのを感じた。
それと同時に、部屋のドアノブの動きは少しずつ弱くなっていき、やがて沈黙した。
先ほどまで漂っていた嫌な気配も消えた。
汐里さんが歌を止める。
『タクさん、大丈夫ですか?』
「は、はい。なんとか。たぶん、あいつはどこかへ消えたようです」
『……間に合って良かった。ごめんなさいタクさん、私の考えが甘かったせいで危ない目に会わせてしまって』
「いえ、おかげで助かりました。本当にありがとうございます。……でも、どうして何かあったとわかったんですか? それに、今の歌は?」
『あ、えーと、それは、ですね……さっき身替わりヒトガタの首が取れて……いえいえいえ、違います。虫の知らせ、そう、虫の知らせです! 私こう見えて結構勘が鋭いんですっ』
汐里さんはあからさまに動揺しているようで、僕はとりあえずそれ以上は聞かないことにした。
『それはともかく、事態はもう一刻の猶予もないようです。実は私もあれからいろいろと調べていまして、もしもの時のために用意もしてきました』
「用意……ですか?」
『はい。突然の話になり申し訳ありませんが、今夜、ある儀式を行いたいと思います。その儀式がうまく行けば、タクさんの身に起こっていることを解決することができるはずです』
「儀式」とは普段の生活ではあまり耳にしない言葉だが、汐里さんが口にすると何か違和感なく受け入れられるような気がした。
それに先ほどの歌やコインの御守りにしても、汐里さんには何か不思議な力があるのは確かだった。
「お願いします。僕はどうすればいいですか?」
『そうですね……タクさん、K臨海公園はご存知ですか?』
「はい、小学生のころ、その公園の水族館に行ったことがあります」
『では、公園のメインゲートに今夜20時に来ることはできますか? 本当は未成年のタクさんをそんな時間に連れ出すのはよくないことなのはわかっていますが、なにしろ差し迫った状況のようなので……』
時計を見ると、時間までは2時間ほどある。
「今日は、父と母が遅くまで帰ってこないので大丈夫です。行けます」
『わかりました。では、タクさんにも少し用意してもらいたいものがありますので、出来ればビデオ通話にしたいのですが』
汐里さんと、ビデオ通話?
「あ、ちょっと待ってくださいっ」
僕は慌てて部屋を見渡した。
今座っているパソコンの前なら、散らかっている部分や、ちょっと見られたくないものも写らなそうだ。
「……大丈夫です」
汐里さんが伝えたアプリは、僕も使ったことがあるものだった。
一度通話が切れ、数秒後にアプリの着信音がなった。
アプリを開くと、スマホの画面に汐里さんの姿が映し出された。
自宅だろうか。汐里さんは、白い壁を背景にして一週間前と似たような白いブラウス姿だった。
『こんにちは、タクさん。では早速始めますね』
汐里さんから指示されたのは、普段持ち歩いたり身につけている布を3つと、糸だった。
僕は、クローゼットからハンカチを3枚取り出し、糸は母の道具箱から探して持ってきた。
それらを、画面の向こう側の汐里さんのやり方を見ながら、何かの形に整えた。
なんとか、1つ目が出来上がった。
『それでは、あと2つお願いします』
「はい」
次に取りかかっていると、汐里さんが話しかけてきた。
『これから、少しの間タクさんを悪いものから遠ざけるおまじないの歌を歌いますので、気にせずその作業を続けてください』
「わかりました」
数秒後、スマホから再び汐里さんの歌声が流れ始めた。
先ほどとは少し違うが、やはり西洋の民謡のような旋律だった。
その歌を聞いていると、何か暖かいものに包まれるような、不思議な安心感が湧いてくるような気がした。
僕は汐里さんの存在を身近に感じながら、歌に耳を傾けながら作業を続けた。
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